無敵の太陽
主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。
2014年11月
出生が謎の大統領
(左:バラク・オバマ・シニア/中央:オバマ大統領/右:フランク・マーシャル・デイヴィス)
アメリカ合衆国は変質してしまった。国家という枠組みは同じだが、中に住む人間が変化したのである。我々はアメリカを白人国家だと思ってきたが、実際は 「変化(change)」の国だった。白人を憎むオバマ大統領はあの手この手で南米からの不法移民を合法化しようとしている。建国の理念や人種構成を破壊 しようとしているのだ。前科者や不法入国者であふれかえる米国では、保守的国民が激減している。誰が見たってアメリカ人の改革熱は異常だろう。問題が起こ れば補修ではなく、劇薬で治療しようとするからだ。アメリカは異民族がそれぞれ不満を爆発させると、社会実験でなだめようとする国家である。
黒人問題は奴隷の子孫をアフリカへ追放することでしか解決しないのに、黒人を統合・同化させるという逆治療を行ってしまったのだ。1960年代の公民権 運動から、たった半世紀くらいで黒人大統領が誕生したのである。保守派のアメリカ白人にとっては衝撃であり、彼らの愛する故郷にトドメの一撃が加えられた のである。すると胡散臭いオバマを研究する国民から「オバマってアメリカ人か?」という疑惑が出てきた。オバマの父親がケニアからの留学生であり、彼の出 生が謎に包まれていたからである。
(左:公表された出生証明書のコピー)
オバマは2008年に短い簡略出生証明書(Short Form Birth Certificate) を公表したが、詮索好きな国民を納得させるどころ逆に不満と疑惑を引き起こしてしまった。そこで2011年4月27日にオバマ大統領は、自分の詳細な出生 証明書(Long-Form Certificate of Live Birth) を公表したのである。ところが、この証明書が偽造であったから問題が悪化してしまった。(Ben Forner, Obama Birth Certificate Maybe Forgred, Sheriff Joe Arpaio Says, abc News, March 1, 2012) ホワイト・ハウスから公表された証明書をコンピューターの専門家や鑑識のプロが調査してみると、デジタル処理された模造品であることが判明したのだ。印字 のタイプや肉筆署名、ゴム印などが不自然で、コンピューター・グラフィックで捏造した文書であった。(Ronald Jay Polland, Obama Revealed More Than His Birth Certificate Last Year, American Thinker, November 4, 2012, とMara Zebest Report, Barrack Obama: Long Form Birth Certificate を参照 ) ついにはアリゾナ州シェリフのジョー・アルパイオ(Joe Arpaio)が正式に疑問を投げかけた。保守派のアメリカ国民が彼を支持し、猜疑心に満ちた国民がオバマの出生の謎を詮索するようになったのである。
そもそもオバマはなぜオリジナルの出生証明書を公開しないのか。真実を公表すれば簡単に解決する問題のはず。アメリカのオバマ批判者やジャーナリストが ハワイの病院で作成された原本を求めたところ、ハワイのリンダ・リングル(Linda Lingle)知事は、その証明書を封印してしまい、どんなことをしても記者が閲覧できぬようにしてしまった。(Jerome Corsi, Obama's birth certificate sealed by Hawaii governor, World Net Daily, October 26, 2008) それに反発したジャーナリストに向けて、ハワイの健康保険局のチヨエ・フキノ長官はオバマの出生証明書を見たことがあると公言したのである。紙の原本は 2001年に破棄されてしまったから存在しないが、記録には残っているという。
(左: 一般的出生証明書のフィルム)
彼女の証言は、記録帳にオバマの名前があったという趣旨で、ネガ・フィルムのような記録証書ではない。普通の国民でも1960年代に生まれた子供の出生 証明書の原本フィルムを持っている。可愛い子供の証明書は大切に保存している親がいても不思議ではない。なぜオバマは自分の証明書を隠匿したいのか理解に 苦しむ。しかもホワイト・ハウス報道官にとって苦い知らせが届いた。アラバマ州最高裁は、公表された出生証明書は偽造文書であるとの判決を下したのであ る。当然の判決だ。さあオバマは困った。アメリカ本土生まれを証明せねばなるまい。それが出来ないなら、しらばっくれて任期満了まで黙殺するしかないだろ う。
公式発表によれば、オバマはハワイで誕生したことになっている。しかし、生まれた病院がカピオラニ・メディカル・センター (Kapi'olani Medical Center)であるかは定かでない。それにオバマを取り上げた医師が二人いるのだ。公表された出生証明書にはデイヴィッド・シンクレア医師(Dr. David Sinclair)の署名がある。しかし、オバマが通った高校の英語教師バーバラ・ネルソン(Barbara Nelson)は、別の医師が出産に立ち会ったと述べている。彼女は彼の誕生日1961年8月4日をよく覚えているという。ところが、彼女の情報はロド ニー・ウェスト医師(Dr. Rodney T. West)からの又聞きであった。彼女はこれといった直接の証拠を持っているわけではない。彼女がウェスト医師と食事をしたときに教えてもらったらしい。 ウェスト医師が赤ん坊のオバマを取り上げたとは言っていないのだ。それもそのはず。ウェスト医師はオバマ誕生前の1958年には、すでに退職していたので ある。(Bob Unruh, Why does Obama have 2 different birth doctors?, World Net Daily, May 3, 2011) したがってオバマが生まれた場所が不明で、担当医が特定されず、出生証明書原本も見つからないうえに、出産証言者が一人もいない(生存しない)のだ。
オバマの出生文書を封印したリングル知事の後任者ネイル・アバカンビー知事は、「オバマ出生問題」に決着をつけるべく、大統領の出生に関する情報を集めて公開することを宣言した。(Kevin Hecktkopf, New Hawaii Governor to Take on Birthers, CBS News, DEcember 28, 2010) ところがアバカンビー知事は、出生証明書はプライバシー法で保護されいるため、その原本を探すのを諦めてしまった。彼はオバマに敵対的な政治家ではなく、 民衆党知事でオバマとは親しいのだ。アバカンビー知事は政治家になる前にホノルルでタクシー運転手をしていたという。彼は周囲の者に、留学生のバラク・オ バマ・シニアと友人であった、と自慢していたのである。彼は幼き頃の「バリー(オバマ)」坊やを覚えているという。こうしたオバマ家の友人でさえ証明書探 しは不可能と匙を投げてしまったのだ。
それならアバカンビー知事は大統領に電話して、病院や役所に開示するよう頼めばよかったのであ る。自分の出生証明書を合衆国大統領が直々に命令を下せばどの役所だって即刻従うだろう。なぜなら最高行政官は、CIA、FBI、NSA、DIA、それに 陸海空海兵の軍隊に対しても命令できるのだ。核兵器使用の命令まで下せる大統領が、ハワイの小役人になぜ遠慮するのか。まさか自分の出生が国家の最高機密 に属するとは言えまい。どうせ退任後は「オバマ図書館」を建てるのだから、オバマの誕生物語は本になるだろう。それに、いろいろな御用学者が、偉大な黒人 大統領と褒め称えて伝記を書いたり、それをドラマ化したりするはずだ。なぜいづれ分かる出生が極秘扱いなのか。
(左:オバマ/右:デイヴィス)
ここからは推測になるが、オバマ大統領の父親はケニアからの留学生オバマ・シニアではない他の人物かも知れない。第一、病院が特定できないというのは変 だ。白人女性アンと公表できぬ黒人男性との間にバラクが生まれたから、出生証明書には別の人物名があるのかも知れない。あるいは病院で生まれていないのか も。本当にハワイで生まれたのかも疑問だ。父親も担当医師も不明だから、オバマのアメリカ国籍すら怪しい。オバマは学生時代に、小冊子に自分のプロファイ ルが載った。だが、そこにはケニア出身と記載されていた。本当にケニア生まれとは思えないが、彼が自分の経歴を偽っていたのは確かだ。コロンビア大学に編 入できたのも、インドネシア留学生枠を利用したのかも知れない。オバマはインドネシアに住んでいたし、インドネシア人の義父もいたのだから、ズルをして大 学に編入した疑惑があるのだ。
(左:オバマ大統領/右:ケニア人留学生の父)
米国や日本でもあまり報道されなかったが、ドキュメンタリー監督のジョエル・ギルバート(Joel Gilbert)が『ドリーム・フロム・マイ・リアル・ファーザー(Dreams From My Real Father)』というDVDを制作した。オバマの父親探しをしていたジョエル氏が、オバマの実父はハワイで共産主義活動をしていた黒人の詩人フランク・ マーシャル・デイヴィス(Frank Marshall Davis)ではないか、と推測しているのだ。もちろん、状況証拠を積み重ねての推理だが、納得できる部分がある。オバマ大統領とディヴィスのDNAを採 取して検証すればすぐ分かるのだが、それはほぼ無理だろう。もし、オバマの異母兄弟のY染色体とデイヴィスの息子のY染色体を採取し、オバマが噛んだガム か飲みかけのコップから唾液を入手できればいいのだが、それも難しい。
(左:オバマのプロフィール/ケニア生まれと書かれている)
ジョエル氏のフィルムで印象的だったのは、ケニア人留学生の父とオバマ大統領が似ていないことである。オバマとデイヴィスとの方がよっぽど似ているの だ。それに、オバマは小さい頃「詩人のフランク」と会っていた、と自著で述べている。(バラク・オバマ 『マイ・ドリーム バラク・オバマ自伝』 白倉三 紀子/木内裕也 訳 ダイヤモンド社 2007年 p.89) 高齢のフランクだったが、バラク少年は興味を寄せたらしい。このフランクはハワイ在住の共 産党員で詩人、ポルノ小説家であったフランク・マーシャル・デイヴィスに間違いないだろう。それにオバマがフランクの正体をわざとぼかして記述しているこ とも気になる。「ケニア人父」との交流は希薄なのに、「他人」であるはずのフランクとの関係は濃厚なのだ。まさに父親代わりの人物である。
(オバマの家族写真/左後ろ:母親アン/中央:オバマ少年/右後ろ:祖父スタンレー)
オバマにはどうも自分の過去を偽造する癖があるようだ。彼が公式に発表した写真には驚愕の腕が写っている。オバマが少年の頃、母親アン、祖父スタン レー、父親違いの妹と一緒に撮った写真では、母親の腕は白いのだが、手の甲が黒いのだ。オバマ少年の背後に立つ母親アンの右腕は皮膚が白と黒に別れてい た。すごい! しかも、彼らの後ろにプラスチック製の椅子が並んでいて、ポールで連なっている。ところが、真っすくに伸びているはずの横棒が妙に歪曲していてズレてい る。これらの謎は誰かが合成写真を造ったと考えれば合点が行く。オリジナルの写真では背後に黒人が写っていたのに、それをデジタル処理で消して母親の姿を 貼り付けたのだろう。その時、何らかのミスで手の甲だけ残ってしまったのではないか。そう考えなければ納得できない。でも、なぜオバマ大統領はそんな合成 写真を公表したのか? 妙だ。これが主要マスコミでは一切取り上げられなかったのである。変だ。ちょっとしたハプニングでも夕方のニュースで報道されるのに、大統領自身による偽 造写真は報道されないのだ。不都合な事実は握りつぶされてしまうのである。
(左:高齢のデイヴィス/右:オバマ)
フランク・マーシャル・デイヴィスが問題なのは、彼が正式な合衆国共産党のメンバーであったからだ。非アメリカ活動を調査した合衆国政府の公式報告書に デイヴィスの名前が載っているのだ。(Investigation of Un-American Propaganda Activities in the United States, Special Committee on Un-American Activities House of Representatives Seventy-Eight Congress, Second Session on H.Res. 282,Fourth Section,1944, 9.974) FBIによる合衆国共産党(USCP)の内部調査を読むと、デイヴィスの党員番号は47544で、彼の妻ヘレン(Helen Canfield Davis) の番号は62109である。白人を心から憎んだ共産主義者からオバマが学んだ思想を考えれば、保守派アメリカ白人は恐ろしくなってしまう。こんな過去を知 れば、オバマの反米政策がよく理解できるるだろう。ちなみに、ミッシェル夫人もオバマが大統領候補になるまで米国を誇りに思っていなかったことを、公の場 でつい漏らしてしまったことがある。ニュース報道では騒がれたが、アメリカ白人は半分納得していた。そりゃそうだろう。夫人の祖先は奴隷だったのだから。
話すと長くなってしまうから省略するが、オバマ大統領とは共産主義者の中で育って、ユダヤ人の金で権力者になり、有色人種の熱狂的支持で当選したマルキ ストである。第21世紀のアメリカ合衆国では、そんなおぞましい人物が国家元首になってしまったのだ。少なくともレーガン政権時代までのアメリカ白人には 信じられない。だが現実は冷酷だ。ソ連が崩壊したら、我が国で社会党左派の村山富市が首相になって、北朝鮮の手先土井たか子が衆議院議長となったではない か。反共国家だった米国では、コミュニストでしかも黒人の大統領が出現したのである。保守派のアメリカ人なら、目まいがして立ちくらみしそうである。アメ リカを愛する武人でイギリス紳士のジョージ・ワシントンと軍歴もないアメリカを憎む黒人共産主義者を見比べたら、我々だってアメリカ人を気の毒に思ってし まう。オバマの遺伝上の父親は不明だが、思想上の師匠は明らかだ。彼はかつてシカゴで「コミュニティー・オーガナイザー(地元組織指導者 /community organizer)と自称していたが、本当はコミュニスト・オーガナイザー(共産主義組織者/communist organizer)だろう。黒い肉体を持つ赤い頭脳の大統領とは恐れ入る。
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(左:バラク・オバマ・シニア/中央:オバマ大統領/右:フランク・マーシャル・デイヴィス)
アメリカ合衆国は変質してしまった。国家という枠組みは同じだが、中に住む人間が変化したのである。我々はアメリカを白人国家だと思ってきたが、実際は 「変化(change)」の国だった。白人を憎むオバマ大統領はあの手この手で南米からの不法移民を合法化しようとしている。建国の理念や人種構成を破壊 しようとしているのだ。前科者や不法入国者であふれかえる米国では、保守的国民が激減している。誰が見たってアメリカ人の改革熱は異常だろう。問題が起こ れば補修ではなく、劇薬で治療しようとするからだ。アメリカは異民族がそれぞれ不満を爆発させると、社会実験でなだめようとする国家である。
黒人問題は奴隷の子孫をアフリカへ追放することでしか解決しないのに、黒人を統合・同化させるという逆治療を行ってしまったのだ。1960年代の公民権 運動から、たった半世紀くらいで黒人大統領が誕生したのである。保守派のアメリカ白人にとっては衝撃であり、彼らの愛する故郷にトドメの一撃が加えられた のである。すると胡散臭いオバマを研究する国民から「オバマってアメリカ人か?」という疑惑が出てきた。オバマの父親がケニアからの留学生であり、彼の出 生が謎に包まれていたからである。
(左:公表された出生証明書のコピー)
オバマは2008年に短い簡略出生証明書(Short Form Birth Certificate) を公表したが、詮索好きな国民を納得させるどころ逆に不満と疑惑を引き起こしてしまった。そこで2011年4月27日にオバマ大統領は、自分の詳細な出生 証明書(Long-Form Certificate of Live Birth) を公表したのである。ところが、この証明書が偽造であったから問題が悪化してしまった。(Ben Forner, Obama Birth Certificate Maybe Forgred, Sheriff Joe Arpaio Says, abc News, March 1, 2012) ホワイト・ハウスから公表された証明書をコンピューターの専門家や鑑識のプロが調査してみると、デジタル処理された模造品であることが判明したのだ。印字 のタイプや肉筆署名、ゴム印などが不自然で、コンピューター・グラフィックで捏造した文書であった。(Ronald Jay Polland, Obama Revealed More Than His Birth Certificate Last Year, American Thinker, November 4, 2012, とMara Zebest Report, Barrack Obama: Long Form Birth Certificate を参照 ) ついにはアリゾナ州シェリフのジョー・アルパイオ(Joe Arpaio)が正式に疑問を投げかけた。保守派のアメリカ国民が彼を支持し、猜疑心に満ちた国民がオバマの出生の謎を詮索するようになったのである。
そもそもオバマはなぜオリジナルの出生証明書を公開しないのか。真実を公表すれば簡単に解決する問題のはず。アメリカのオバマ批判者やジャーナリストが ハワイの病院で作成された原本を求めたところ、ハワイのリンダ・リングル(Linda Lingle)知事は、その証明書を封印してしまい、どんなことをしても記者が閲覧できぬようにしてしまった。(Jerome Corsi, Obama's birth certificate sealed by Hawaii governor, World Net Daily, October 26, 2008) それに反発したジャーナリストに向けて、ハワイの健康保険局のチヨエ・フキノ長官はオバマの出生証明書を見たことがあると公言したのである。紙の原本は 2001年に破棄されてしまったから存在しないが、記録には残っているという。
(左: 一般的出生証明書のフィルム)
彼女の証言は、記録帳にオバマの名前があったという趣旨で、ネガ・フィルムのような記録証書ではない。普通の国民でも1960年代に生まれた子供の出生 証明書の原本フィルムを持っている。可愛い子供の証明書は大切に保存している親がいても不思議ではない。なぜオバマは自分の証明書を隠匿したいのか理解に 苦しむ。しかもホワイト・ハウス報道官にとって苦い知らせが届いた。アラバマ州最高裁は、公表された出生証明書は偽造文書であるとの判決を下したのであ る。当然の判決だ。さあオバマは困った。アメリカ本土生まれを証明せねばなるまい。それが出来ないなら、しらばっくれて任期満了まで黙殺するしかないだろ う。
公式発表によれば、オバマはハワイで誕生したことになっている。しかし、生まれた病院がカピオラニ・メディカル・センター (Kapi'olani Medical Center)であるかは定かでない。それにオバマを取り上げた医師が二人いるのだ。公表された出生証明書にはデイヴィッド・シンクレア医師(Dr. David Sinclair)の署名がある。しかし、オバマが通った高校の英語教師バーバラ・ネルソン(Barbara Nelson)は、別の医師が出産に立ち会ったと述べている。彼女は彼の誕生日1961年8月4日をよく覚えているという。ところが、彼女の情報はロド ニー・ウェスト医師(Dr. Rodney T. West)からの又聞きであった。彼女はこれといった直接の証拠を持っているわけではない。彼女がウェスト医師と食事をしたときに教えてもらったらしい。 ウェスト医師が赤ん坊のオバマを取り上げたとは言っていないのだ。それもそのはず。ウェスト医師はオバマ誕生前の1958年には、すでに退職していたので ある。(Bob Unruh, Why does Obama have 2 different birth doctors?, World Net Daily, May 3, 2011) したがってオバマが生まれた場所が不明で、担当医が特定されず、出生証明書原本も見つからないうえに、出産証言者が一人もいない(生存しない)のだ。
オバマの出生文書を封印したリングル知事の後任者ネイル・アバカンビー知事は、「オバマ出生問題」に決着をつけるべく、大統領の出生に関する情報を集めて公開することを宣言した。(Kevin Hecktkopf, New Hawaii Governor to Take on Birthers, CBS News, DEcember 28, 2010) ところがアバカンビー知事は、出生証明書はプライバシー法で保護されいるため、その原本を探すのを諦めてしまった。彼はオバマに敵対的な政治家ではなく、 民衆党知事でオバマとは親しいのだ。アバカンビー知事は政治家になる前にホノルルでタクシー運転手をしていたという。彼は周囲の者に、留学生のバラク・オ バマ・シニアと友人であった、と自慢していたのである。彼は幼き頃の「バリー(オバマ)」坊やを覚えているという。こうしたオバマ家の友人でさえ証明書探 しは不可能と匙を投げてしまったのだ。
それならアバカンビー知事は大統領に電話して、病院や役所に開示するよう頼めばよかったのであ る。自分の出生証明書を合衆国大統領が直々に命令を下せばどの役所だって即刻従うだろう。なぜなら最高行政官は、CIA、FBI、NSA、DIA、それに 陸海空海兵の軍隊に対しても命令できるのだ。核兵器使用の命令まで下せる大統領が、ハワイの小役人になぜ遠慮するのか。まさか自分の出生が国家の最高機密 に属するとは言えまい。どうせ退任後は「オバマ図書館」を建てるのだから、オバマの誕生物語は本になるだろう。それに、いろいろな御用学者が、偉大な黒人 大統領と褒め称えて伝記を書いたり、それをドラマ化したりするはずだ。なぜいづれ分かる出生が極秘扱いなのか。
(左:オバマ/右:デイヴィス)
ここからは推測になるが、オバマ大統領の父親はケニアからの留学生オバマ・シニアではない他の人物かも知れない。第一、病院が特定できないというのは変 だ。白人女性アンと公表できぬ黒人男性との間にバラクが生まれたから、出生証明書には別の人物名があるのかも知れない。あるいは病院で生まれていないのか も。本当にハワイで生まれたのかも疑問だ。父親も担当医師も不明だから、オバマのアメリカ国籍すら怪しい。オバマは学生時代に、小冊子に自分のプロファイ ルが載った。だが、そこにはケニア出身と記載されていた。本当にケニア生まれとは思えないが、彼が自分の経歴を偽っていたのは確かだ。コロンビア大学に編 入できたのも、インドネシア留学生枠を利用したのかも知れない。オバマはインドネシアに住んでいたし、インドネシア人の義父もいたのだから、ズルをして大 学に編入した疑惑があるのだ。
(左:オバマ大統領/右:ケニア人留学生の父)
米国や日本でもあまり報道されなかったが、ドキュメンタリー監督のジョエル・ギルバート(Joel Gilbert)が『ドリーム・フロム・マイ・リアル・ファーザー(Dreams From My Real Father)』というDVDを制作した。オバマの父親探しをしていたジョエル氏が、オバマの実父はハワイで共産主義活動をしていた黒人の詩人フランク・ マーシャル・デイヴィス(Frank Marshall Davis)ではないか、と推測しているのだ。もちろん、状況証拠を積み重ねての推理だが、納得できる部分がある。オバマ大統領とディヴィスのDNAを採 取して検証すればすぐ分かるのだが、それはほぼ無理だろう。もし、オバマの異母兄弟のY染色体とデイヴィスの息子のY染色体を採取し、オバマが噛んだガム か飲みかけのコップから唾液を入手できればいいのだが、それも難しい。
(左:オバマのプロフィール/ケニア生まれと書かれている)
ジョエル氏のフィルムで印象的だったのは、ケニア人留学生の父とオバマ大統領が似ていないことである。オバマとデイヴィスとの方がよっぽど似ているの だ。それに、オバマは小さい頃「詩人のフランク」と会っていた、と自著で述べている。(バラク・オバマ 『マイ・ドリーム バラク・オバマ自伝』 白倉三 紀子/木内裕也 訳 ダイヤモンド社 2007年 p.89) 高齢のフランクだったが、バラク少年は興味を寄せたらしい。このフランクはハワイ在住の共 産党員で詩人、ポルノ小説家であったフランク・マーシャル・デイヴィスに間違いないだろう。それにオバマがフランクの正体をわざとぼかして記述しているこ とも気になる。「ケニア人父」との交流は希薄なのに、「他人」であるはずのフランクとの関係は濃厚なのだ。まさに父親代わりの人物である。
(オバマの家族写真/左後ろ:母親アン/中央:オバマ少年/右後ろ:祖父スタンレー)
オバマにはどうも自分の過去を偽造する癖があるようだ。彼が公式に発表した写真には驚愕の腕が写っている。オバマが少年の頃、母親アン、祖父スタン レー、父親違いの妹と一緒に撮った写真では、母親の腕は白いのだが、手の甲が黒いのだ。オバマ少年の背後に立つ母親アンの右腕は皮膚が白と黒に別れてい た。すごい! しかも、彼らの後ろにプラスチック製の椅子が並んでいて、ポールで連なっている。ところが、真っすくに伸びているはずの横棒が妙に歪曲していてズレてい る。これらの謎は誰かが合成写真を造ったと考えれば合点が行く。オリジナルの写真では背後に黒人が写っていたのに、それをデジタル処理で消して母親の姿を 貼り付けたのだろう。その時、何らかのミスで手の甲だけ残ってしまったのではないか。そう考えなければ納得できない。でも、なぜオバマ大統領はそんな合成 写真を公表したのか? 妙だ。これが主要マスコミでは一切取り上げられなかったのである。変だ。ちょっとしたハプニングでも夕方のニュースで報道されるのに、大統領自身による偽 造写真は報道されないのだ。不都合な事実は握りつぶされてしまうのである。
(左:高齢のデイヴィス/右:オバマ)
フランク・マーシャル・デイヴィスが問題なのは、彼が正式な合衆国共産党のメンバーであったからだ。非アメリカ活動を調査した合衆国政府の公式報告書に デイヴィスの名前が載っているのだ。(Investigation of Un-American Propaganda Activities in the United States, Special Committee on Un-American Activities House of Representatives Seventy-Eight Congress, Second Session on H.Res. 282,Fourth Section,1944, 9.974) FBIによる合衆国共産党(USCP)の内部調査を読むと、デイヴィスの党員番号は47544で、彼の妻ヘレン(Helen Canfield Davis) の番号は62109である。白人を心から憎んだ共産主義者からオバマが学んだ思想を考えれば、保守派アメリカ白人は恐ろしくなってしまう。こんな過去を知 れば、オバマの反米政策がよく理解できるるだろう。ちなみに、ミッシェル夫人もオバマが大統領候補になるまで米国を誇りに思っていなかったことを、公の場 でつい漏らしてしまったことがある。ニュース報道では騒がれたが、アメリカ白人は半分納得していた。そりゃそうだろう。夫人の祖先は奴隷だったのだから。
話すと長くなってしまうから省略するが、オバマ大統領とは共産主義者の中で育って、ユダヤ人の金で権力者になり、有色人種の熱狂的支持で当選したマルキ ストである。第21世紀のアメリカ合衆国では、そんなおぞましい人物が国家元首になってしまったのだ。少なくともレーガン政権時代までのアメリカ白人には 信じられない。だが現実は冷酷だ。ソ連が崩壊したら、我が国で社会党左派の村山富市が首相になって、北朝鮮の手先土井たか子が衆議院議長となったではない か。反共国家だった米国では、コミュニストでしかも黒人の大統領が出現したのである。保守派のアメリカ人なら、目まいがして立ちくらみしそうである。アメ リカを愛する武人でイギリス紳士のジョージ・ワシントンと軍歴もないアメリカを憎む黒人共産主義者を見比べたら、我々だってアメリカ人を気の毒に思ってし まう。オバマの遺伝上の父親は不明だが、思想上の師匠は明らかだ。彼はかつてシカゴで「コミュニティー・オーガナイザー(地元組織指導者 /community organizer)と自称していたが、本当はコミュニスト・オーガナイザー(共産主義組織者/communist organizer)だろう。黒い肉体を持つ赤い頭脳の大統領とは恐れ入る。
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破廉恥な遊び
朝鮮は日本人が降臨するまで悲惨な社会であった。日本の貧乏人が大金持ちに見えるくらい貧しかったのである。空威張りの南鮮人は韓国が先進国だと錯覚し ているが、気違いに何を言っても無駄なので、高等な日本人は係わってはならない。バカに係わるとロクなことはないから、ほっとくのが一番。民度が極端に低 い朝鮮では、民衆の頭も悪ければ、マナー(作法)は更にひどい。日本に住み着くことで文明化された在日朝鮮人は、祖先の恥ずかしい生活を隠したくなる。あ るいは両親祖父母から全く教えて貰ってないから、本当に知らない場合もあるだろう。そこで、朝鮮日報の論説顧問を務めた李圭泰(りけいたい)が子供の頃を 回想して、面白い体験を語っているので、その一部を紹介したい。(『性と迷信 韓国の奇風』 東洋図書出版 昭和53年を参照)
李氏 が少年時代に体験したある日の出来事。李圭泰の隣に住む老婆か「お前、豆入れ遊びをしたことがあるかい」と尋ねた。彼は例の豆入れ遊びをしょっちゅうして いたし、ソレが禁じられた遊びであることも承知していた。「やっていない」と答えると、その老婆は瀬戸物の容器を出して「おしっこをして」と言った。そう して老婆は子供の尿をうけとって帰ったという。日本国民よ、こんなことで「えっ、嫌だー」と思うなかれ。(朝鮮人のすることだからね。)
その子の尿は賭博の現場を押さえられて警察に連行された息子のためであった。警察で痣(あざ)が出来るほど殴られた息子への特効薬として、母親が児童か ら搾ってきたものである。李氏は「嘘をついたから治らなかったらどうしよう」と心配になった事を憶えているそうだ。李氏によると、田舎の子供には遊び道具 がなかったらしい。まあ、朝鮮にはこれといった工芸品すら無いし、農機具だって原始的な物しかなかったのだから当然である。子供らは互いにチンチンの皮を むいて豆を入れ、、一粒でも多く余計に入れた者が勝ちであった。勝った者は負けた者にお辞儀をさせたり、相手のケツを蹴飛ばしたりしたという。 (p.50)
それにしても、朝鮮人ってのはどうして下品なんだろう? 子供がチンチンの皮をむいて豆を入れる遊びなんて、文明人なら恥ずかしくて出来ない。漢文や歴史の教師は学校の授業で、李退渓の朱子学なんて自慢していな いで、朝鮮人の日常生活を教えるべきであろう。ちょっと嫌な想像だが、子供らがチンチンに入れた豆は元の場所に戻したんじゃないか。貧乏な朝鮮人が食べ物 を捨てるとは思えない。人や家畜の糞すら薬にして飲めるのだから、チンチン味の煮豆くらい食えるだろう。
朝鮮人には多民族が混淆して いるから奇妙な風習が多い。モンゴル顔はその証拠であろう。また、奇妙で下品な慣習を持つ異民族も多かった。たとえば、北方夷狄のウルム(挹婁)族は部屋 の真ん中に厠(かわや)を造り、そのまわりで寝起きする。彼らは尿で手足を洗い、食器なども洗ったようである。豚を飼い、その肉を食べ、その皮を着た。冬 にはその脂肪を二つの匙で全身に塗って寒さをしのいだ。体に塗った脂肪を尿で洗い落としたのかも知れない。この民族と同類の勿吉(ムルギル)族も、人の尿 で顔や手を洗いったという。(p.56) 尿で手足を洗うのは慶尚道の金海附近でも発見されて報告された。冬期に童尿で手を洗ってあかぎれを防いだらし い。
こんな事を暴露すれば、在日朝鮮人らは顔から火が出るほど赤面するだろう。学校では絶対教えない。彼らは李圭泰を殺したくなるだ ろう。朝鮮民族の恥部を日本人に教えるなんて許せない。朝鮮人の親は「民族差別だぁぁ!」と火病を起こして日本人に抗議するだろう。韓国の警察官みたいに 抗議人を足で蹴飛ばして退治するような真似は日本人に出来ないので、高等民族たる日本人は朝鮮人の扱いに困ってしまうのだ。
裸の呪術師スッチョンガー
朝鮮にはまだ恥ずかしい風習があった。「スッ(首)チョンガー」とか「モリ(頭)チョンガー」と呼ばれる何でも屋が村ごとに居た。「チョンガー」とは童 貞の独身の男である。「スッチョンガー」なんて言葉を聞くと、日本人なら笑いたくなる。日本の子供なら、鮮人の子供を「チョンコ」ではなく「スッチョン ガー」と呼んでからかうかもしれない。「スッチョンガー」は田畑ひとつ持っていなくても生きて行けた。穀や家畜の周旋、豚の去勢、喪家の屍体処理、巫女が 踊るとき楽器を鳴らす役、牛が畑を荒らしたときの談判、など村の雑用を一手に引き受ける萬屋(よろずや)であったからだ。
「スッチョンガー」と言うと、「百獣戦隊ガオレンジャー」や「天装戦隊ゴセインジャー」みたいに、なんか正義のヒーローみたいに思えるが、実際そんな風に見えてしまう事もしていたのだ。
「大人のおもちゃ」ならありそうな朝鮮だが、子供用「おもちゃ」なんて無かった。裕福な家庭の子供は水呑み百姓の子供を玩具代わりに弄(もてあそ)ぶの だ。貧民の子を糞溜に落としたり、裸にして漆(うるし)を塗ってかぶれるのを見たりして喜んでいたのである。いかにも朝鮮人らしい遊びだ。しかし、貧乏人 はこれを喜んだという。貧しい母親は傷ついた子供を連れてスッチョンガーの所に訪れ、スッチョンガーはその子をおぶってイジメっ子の家に行く。スッチョン ガーが現れた家の夫人は、どの子がイジメたかだけを確認して、賠償として穀物を準備する。穀物の量は傷害の度合いに応じてスッチョンガーが定めるのだ。夫 人は値切ったりせず、スッチヨンガーが定めた量を袋に入れねばならない。そのため子だくさんの家では「弄穀(ノンゴク)」といって稲の二、三石は別に取っ ておくのが富農の習わしであった。スッチョンガーはこの賠償の分け前に与るのである。
まるで正義の味方みたいなスッチョンガーは、も ともと領首とか班首とか呼ばれる村の有力者であった。ところが村の没落と共に地位が低下して村の雑用掛となったらしい。スッチョンガーを選ぶ基準は「村で 一番ペニスの大きい者」である。生殖力が最も大きいという呪術的意味を持つからだ。人一倍生殖力旺盛な童貞を村全体のために利用しようとするまじないで あった。そのため村人は彼の結婚を拒否したのである。こうして神仏になってしまったスッチョンガーは一生独身であり続けた。ちょと待て! それって、誰かが男どものちんちんを調べて、ランキング一位を決めるわけだろう。「男根を出せ」と命じる鮮人とそれに応じる鮮人がいたのか? NHKの「のど自慢」ならぬ「チンチン自慢」があったとは、さすが朝鮮は文化大国である。韓流ブームの時に見たことがないが、どうしたんだろう? みんなで電通に聞いてみよう。
朝鮮人の価値観は日本人には理解できぬものが多い。子を願う家で巫女が祈禱する時は、このスッチョンガーの猿股が必須の祭具になる。御利益があったらし い。なんと薄汚れた猿股一枚が稲一斗で売れたという。ああぁ、またったく朝鮮人ってのは。そうだ、盗まれた仏像とジジイの汚い褌(ふんどし)の交換を持ち かけたらいいかも知れない。テレビ・ショッビングみたいにババアの腰巻きや支那人の痰壺もセットで附けてやれば喜ぶんじゃないか。日本政府に提案してみよ う。
スッチョンガーには呪術的パワーが二つあったという。ひとつは子供を授けることであった。貧しい家庭では妊婦の陣痛が始まると スッチヨンガーの許へ人を走らせ、妊婦のいる奉公に小便をしてくれるよう頼んだのである。これは男の子が授かるよう呪いのパワーを借りるためであった。ま た小便かよ。なんで朝鮮人は糞や尿が好きなんだろう。それなら一丁、経営不振のサムソン電子の方に放尿したら、奇蹟の経営回復になるかも知れないぞ。がん ばれ朝鮮人!
もう一つは、穀物の豊作を祈願するために力を借りたのである。朝鮮では正月の15日に土牛または木牛を駆って畑を耕すこ とで豊作を祈る風習があった。土牛とは藁(わら)に赤土を塗った牛型の造り物で、木牛とはくびきに棒を通して人間が曳く人力犂(すき)である。この土牛と 木牛を使う豊穣祈願の神主がスッチョンガーである。この木牛を駆るスッチョンガーは素っ裸である。(p.88) 地は孕胎(ようたい)力のある母で、父である天が陽を与えると、それを受けた母なる大地は実を結ぶ。つまり、呪術的世界では土は女性で、巨大なペニスを持 つ男が種をまくと作物が実るという訳だ。
これとは逆に多産を経験した女に豊穣の呪力を信じている地方もあった。由緒ある農家では稲や じゃが芋、豆を植えるときに必ず女を雇った。多産の女または子沢山家系の女に高い賃金を払ったのである。慶州の祈雨祭では、肌着を脱いでチマ(女の下衣) だけを着た巫女が狂ったように足を上げたり、チマの裾を持って股をみせたり、と淫乱な踊りをしたという。これは巫女が持つ陰力の発揮を意味していた。日照 りは陰力よりも陽力(太陽)が強すぎるから、この陰力不足を補うために巫女が淫乱踊りをするのである。(p.91) でも、気違い踊りの朝鮮女は怖い。日 本の子供なら泣いてしまうだろう。放送禁止の光景だ。
これとは逆に、種まきや他の畑仕事へ子供を産めない体質の石女(うまずめ)を連 れて行くことは忌み嫌われた。迷信の被害は日本人が支配するまで無くならなかったであろう。賃金労働をせねば暮らしていけない水呑み百姓の女房が、子供を 産めない場合に持つ屈辱感は相当なものであった。だが悲惨なのはその悔しさよりも、食っていけない切迫感の方にあった。(p.90) やっぱり朝鮮の風習を勉強するのは嫌だなぁ。日本の植民地支配を批判する在日の朝鮮女は朝鮮の現実を調べてからにしろ。日本に支配されてどれだけ朝鮮人が 幸せになったことか。数千年以上も暗く惨めな朝鮮に、恩寵の光が差した事をなぜ不幸と思うのは異常である。たぶん朝鮮人は湯船に浸かるより、肥だめに入る 方が幸せなのだろう。こんな朝鮮人との共存なんて嫌だ。アース製薬が「朝鮮人ホイホイ」を作ってくれないかな。ヒット商品になるかもしれないぞ。
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朝鮮は日本人が降臨するまで悲惨な社会であった。日本の貧乏人が大金持ちに見えるくらい貧しかったのである。空威張りの南鮮人は韓国が先進国だと錯覚し ているが、気違いに何を言っても無駄なので、高等な日本人は係わってはならない。バカに係わるとロクなことはないから、ほっとくのが一番。民度が極端に低 い朝鮮では、民衆の頭も悪ければ、マナー(作法)は更にひどい。日本に住み着くことで文明化された在日朝鮮人は、祖先の恥ずかしい生活を隠したくなる。あ るいは両親祖父母から全く教えて貰ってないから、本当に知らない場合もあるだろう。そこで、朝鮮日報の論説顧問を務めた李圭泰(りけいたい)が子供の頃を 回想して、面白い体験を語っているので、その一部を紹介したい。(『性と迷信 韓国の奇風』 東洋図書出版 昭和53年を参照)
李氏 が少年時代に体験したある日の出来事。李圭泰の隣に住む老婆か「お前、豆入れ遊びをしたことがあるかい」と尋ねた。彼は例の豆入れ遊びをしょっちゅうして いたし、ソレが禁じられた遊びであることも承知していた。「やっていない」と答えると、その老婆は瀬戸物の容器を出して「おしっこをして」と言った。そう して老婆は子供の尿をうけとって帰ったという。日本国民よ、こんなことで「えっ、嫌だー」と思うなかれ。(朝鮮人のすることだからね。)
その子の尿は賭博の現場を押さえられて警察に連行された息子のためであった。警察で痣(あざ)が出来るほど殴られた息子への特効薬として、母親が児童か ら搾ってきたものである。李氏は「嘘をついたから治らなかったらどうしよう」と心配になった事を憶えているそうだ。李氏によると、田舎の子供には遊び道具 がなかったらしい。まあ、朝鮮にはこれといった工芸品すら無いし、農機具だって原始的な物しかなかったのだから当然である。子供らは互いにチンチンの皮を むいて豆を入れ、、一粒でも多く余計に入れた者が勝ちであった。勝った者は負けた者にお辞儀をさせたり、相手のケツを蹴飛ばしたりしたという。 (p.50)
それにしても、朝鮮人ってのはどうして下品なんだろう? 子供がチンチンの皮をむいて豆を入れる遊びなんて、文明人なら恥ずかしくて出来ない。漢文や歴史の教師は学校の授業で、李退渓の朱子学なんて自慢していな いで、朝鮮人の日常生活を教えるべきであろう。ちょっと嫌な想像だが、子供らがチンチンに入れた豆は元の場所に戻したんじゃないか。貧乏な朝鮮人が食べ物 を捨てるとは思えない。人や家畜の糞すら薬にして飲めるのだから、チンチン味の煮豆くらい食えるだろう。
朝鮮人には多民族が混淆して いるから奇妙な風習が多い。モンゴル顔はその証拠であろう。また、奇妙で下品な慣習を持つ異民族も多かった。たとえば、北方夷狄のウルム(挹婁)族は部屋 の真ん中に厠(かわや)を造り、そのまわりで寝起きする。彼らは尿で手足を洗い、食器なども洗ったようである。豚を飼い、その肉を食べ、その皮を着た。冬 にはその脂肪を二つの匙で全身に塗って寒さをしのいだ。体に塗った脂肪を尿で洗い落としたのかも知れない。この民族と同類の勿吉(ムルギル)族も、人の尿 で顔や手を洗いったという。(p.56) 尿で手足を洗うのは慶尚道の金海附近でも発見されて報告された。冬期に童尿で手を洗ってあかぎれを防いだらし い。
こんな事を暴露すれば、在日朝鮮人らは顔から火が出るほど赤面するだろう。学校では絶対教えない。彼らは李圭泰を殺したくなるだ ろう。朝鮮民族の恥部を日本人に教えるなんて許せない。朝鮮人の親は「民族差別だぁぁ!」と火病を起こして日本人に抗議するだろう。韓国の警察官みたいに 抗議人を足で蹴飛ばして退治するような真似は日本人に出来ないので、高等民族たる日本人は朝鮮人の扱いに困ってしまうのだ。
裸の呪術師スッチョンガー
朝鮮にはまだ恥ずかしい風習があった。「スッ(首)チョンガー」とか「モリ(頭)チョンガー」と呼ばれる何でも屋が村ごとに居た。「チョンガー」とは童 貞の独身の男である。「スッチョンガー」なんて言葉を聞くと、日本人なら笑いたくなる。日本の子供なら、鮮人の子供を「チョンコ」ではなく「スッチョン ガー」と呼んでからかうかもしれない。「スッチョンガー」は田畑ひとつ持っていなくても生きて行けた。穀や家畜の周旋、豚の去勢、喪家の屍体処理、巫女が 踊るとき楽器を鳴らす役、牛が畑を荒らしたときの談判、など村の雑用を一手に引き受ける萬屋(よろずや)であったからだ。
「スッチョンガー」と言うと、「百獣戦隊ガオレンジャー」や「天装戦隊ゴセインジャー」みたいに、なんか正義のヒーローみたいに思えるが、実際そんな風に見えてしまう事もしていたのだ。
「大人のおもちゃ」ならありそうな朝鮮だが、子供用「おもちゃ」なんて無かった。裕福な家庭の子供は水呑み百姓の子供を玩具代わりに弄(もてあそ)ぶの だ。貧民の子を糞溜に落としたり、裸にして漆(うるし)を塗ってかぶれるのを見たりして喜んでいたのである。いかにも朝鮮人らしい遊びだ。しかし、貧乏人 はこれを喜んだという。貧しい母親は傷ついた子供を連れてスッチョンガーの所に訪れ、スッチョンガーはその子をおぶってイジメっ子の家に行く。スッチョン ガーが現れた家の夫人は、どの子がイジメたかだけを確認して、賠償として穀物を準備する。穀物の量は傷害の度合いに応じてスッチョンガーが定めるのだ。夫 人は値切ったりせず、スッチヨンガーが定めた量を袋に入れねばならない。そのため子だくさんの家では「弄穀(ノンゴク)」といって稲の二、三石は別に取っ ておくのが富農の習わしであった。スッチョンガーはこの賠償の分け前に与るのである。
まるで正義の味方みたいなスッチョンガーは、も ともと領首とか班首とか呼ばれる村の有力者であった。ところが村の没落と共に地位が低下して村の雑用掛となったらしい。スッチョンガーを選ぶ基準は「村で 一番ペニスの大きい者」である。生殖力が最も大きいという呪術的意味を持つからだ。人一倍生殖力旺盛な童貞を村全体のために利用しようとするまじないで あった。そのため村人は彼の結婚を拒否したのである。こうして神仏になってしまったスッチョンガーは一生独身であり続けた。ちょと待て! それって、誰かが男どものちんちんを調べて、ランキング一位を決めるわけだろう。「男根を出せ」と命じる鮮人とそれに応じる鮮人がいたのか? NHKの「のど自慢」ならぬ「チンチン自慢」があったとは、さすが朝鮮は文化大国である。韓流ブームの時に見たことがないが、どうしたんだろう? みんなで電通に聞いてみよう。
朝鮮人の価値観は日本人には理解できぬものが多い。子を願う家で巫女が祈禱する時は、このスッチョンガーの猿股が必須の祭具になる。御利益があったらし い。なんと薄汚れた猿股一枚が稲一斗で売れたという。ああぁ、またったく朝鮮人ってのは。そうだ、盗まれた仏像とジジイの汚い褌(ふんどし)の交換を持ち かけたらいいかも知れない。テレビ・ショッビングみたいにババアの腰巻きや支那人の痰壺もセットで附けてやれば喜ぶんじゃないか。日本政府に提案してみよ う。
スッチョンガーには呪術的パワーが二つあったという。ひとつは子供を授けることであった。貧しい家庭では妊婦の陣痛が始まると スッチヨンガーの許へ人を走らせ、妊婦のいる奉公に小便をしてくれるよう頼んだのである。これは男の子が授かるよう呪いのパワーを借りるためであった。ま た小便かよ。なんで朝鮮人は糞や尿が好きなんだろう。それなら一丁、経営不振のサムソン電子の方に放尿したら、奇蹟の経営回復になるかも知れないぞ。がん ばれ朝鮮人!
もう一つは、穀物の豊作を祈願するために力を借りたのである。朝鮮では正月の15日に土牛または木牛を駆って畑を耕すこ とで豊作を祈る風習があった。土牛とは藁(わら)に赤土を塗った牛型の造り物で、木牛とはくびきに棒を通して人間が曳く人力犂(すき)である。この土牛と 木牛を使う豊穣祈願の神主がスッチョンガーである。この木牛を駆るスッチョンガーは素っ裸である。(p.88) 地は孕胎(ようたい)力のある母で、父である天が陽を与えると、それを受けた母なる大地は実を結ぶ。つまり、呪術的世界では土は女性で、巨大なペニスを持 つ男が種をまくと作物が実るという訳だ。
これとは逆に多産を経験した女に豊穣の呪力を信じている地方もあった。由緒ある農家では稲や じゃが芋、豆を植えるときに必ず女を雇った。多産の女または子沢山家系の女に高い賃金を払ったのである。慶州の祈雨祭では、肌着を脱いでチマ(女の下衣) だけを着た巫女が狂ったように足を上げたり、チマの裾を持って股をみせたり、と淫乱な踊りをしたという。これは巫女が持つ陰力の発揮を意味していた。日照 りは陰力よりも陽力(太陽)が強すぎるから、この陰力不足を補うために巫女が淫乱踊りをするのである。(p.91) でも、気違い踊りの朝鮮女は怖い。日 本の子供なら泣いてしまうだろう。放送禁止の光景だ。
これとは逆に、種まきや他の畑仕事へ子供を産めない体質の石女(うまずめ)を連 れて行くことは忌み嫌われた。迷信の被害は日本人が支配するまで無くならなかったであろう。賃金労働をせねば暮らしていけない水呑み百姓の女房が、子供を 産めない場合に持つ屈辱感は相当なものであった。だが悲惨なのはその悔しさよりも、食っていけない切迫感の方にあった。(p.90) やっぱり朝鮮の風習を勉強するのは嫌だなぁ。日本の植民地支配を批判する在日の朝鮮女は朝鮮の現実を調べてからにしろ。日本に支配されてどれだけ朝鮮人が 幸せになったことか。数千年以上も暗く惨めな朝鮮に、恩寵の光が差した事をなぜ不幸と思うのは異常である。たぶん朝鮮人は湯船に浸かるより、肥だめに入る 方が幸せなのだろう。こんな朝鮮人との共存なんて嫌だ。アース製薬が「朝鮮人ホイホイ」を作ってくれないかな。ヒット商品になるかもしれないぞ。
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王妃が美人で良かった
ヨーロッパ諸国は我が国と似ている。両者とも君主制と封建制を兼ね備えた先進国であるからだ。頭のツムジまで左巻きのマスコミや学者は、こぞって「アジ アの中の日本」などとわめいている。それなら「掃き溜に降りた鶴」はカラスに変身するのか。我が国の近くに不潔な支那人や精神異常の朝鮮人がうんこ座りし ていたって、我々は日本人であってアジア人ではない。我が国の皇室よりは歴史が短いが、英国の王室は歐洲の中で威厳を誇っている。(我が皇室伝統と比べて しまうのはちょっと酷だが。)オリヴァー・クロムウェルによって一時中断したが、それでも永い王室伝統を護持してきたのだから自慢してもよいだろう。
現代はマス・メディアが発達したこともあって、王侯貴族の行動は即座に報道され、ほんの些細なことでも大衆の好奇心を引くことになる。根性がひねくれた 知識人は別にして、一般国民は高貴な人物が好きだ。ブリテンのウィリアム王子とキャサリン(ケイト)・ミドルトン嬢のご成婚は素晴らしかった。悲劇のプリ ンセスを偲ばせる容貌のウィリアム殿下と若くて快活な美女ケイトにブリテン国民が熱狂したのも分かる。やはり、プリンセスは美人でなければ人気が出ない。 高貴な血統を誇る王族には、うっとりするような美しさが必要だ。王室の賢者らはケイト・ミドルトン嬢なら、未来のプリンセスにふさわしいと判断して許可し たのではないか。大衆心理をよく分かっている。つくづく王室の補佐官は偉いと思う。
現代の王室は権力の威光ではなく、民衆の憧憬と敬 愛によって支えられている。小難しい政治理論など興味のない国民は、王室を観ることで国家を感じるのだ。女王陛下が病院や学校を訪問されれば感動するし、 怪我をしたらトップニュースになるだろう。犬の散歩でさえどんな服装であったのか、誰と会ったのかに関心が向く。クリスマスやイースターになると国民は君 主と一緒に祈り、酒場では忠実なる陛下の反対者までもが「女王陛下に乾杯!」と叫んで酔いつぶれてしまうのだ。だからウィリアム王子のご成婚は、ある意味 国民が胸躍らせる祭りであった。英国史を書いたフランスの有名な知識人アンドレ・モロワ(André Maurois)は述べている。
国民が関心をよせて注目する皇室の生活は、国民各自の私生活の水準に、絶対力をもたらすものである。男女の大部分のものにとって、結婚は法令にもまさる 関心事なのであるから、王家の結婚は、国民的な大事件である。もしこの結婚が小説的であるなら、もし婚約者がアレクサンドラ王妃や、ヨーク公妃や、マリー ナ姫の場合のやうに、たいそうお美しいお方であるなら、感傷的な、無害な、健全な熱狂が、民衆をとらへる。年とった娘や平民の男は、そのとき、この事件に たくしてもっとも甘美な小説を堪能するわけである。( アンドレ・モーロワ 『イギリスの君主制』 村上菊一郎訳 時事通信社 昭和21年 p.93)
ケンブリッジ公爵夫人(Duchess of Cambridge)となったキャサリン妃は、ブリテン国民の心を掴んだうえに可愛らしいジョージ王子をお産みになった。憧憬の眼差しを向ける一般国民に 気さくに話しかけ、笑顔を見せる仕草をみれば、彼女が聡明な王妃なることが分かる。しかも、ジョージ王子を連れてオーストラリアを訪問したのである。王族 が住んでいない南の英国民は、若々しい王族カップルを熱烈に歓迎した。愛くるしい表情を見せるジョージ王子を目にしたオーストラリア国民は独立論などさっ さと捨ててしまったのだ。美しい賢者が王室に嫁いだことで王室や名門のイギリス貴族も一安心であろう。
モナコのバカ殿アルベールの情事
(左:グレース・ケリー/右:アルベール&シャルレーヌ)
グレース・ケリー(Grace Kelly)と言えばシンデレラ物語を体現したアメリカ人女優として有名だ。銀幕のブロンド美人が一夜にしてモナコ公妃になったのだから、モナコ国民より アメリカ国民の方が大騒ぎであった。日本人だって彼女が大好きだ。その“シンデレラ”公妃は日本庭園に感銘を受け、それと同じものをモナコにも造ってし まった。日本文化の良さが分かるなんてさすがセンスがいい。カルフォルニアの支那人街には感動しなかったのかも知れない。 いづれにせよ、支那文化を選ばなかったのは、美的センスが洗練されていたからだろう。
(左:ニコール・コスト&息子/右:ジャズミン)
グレース・ケリー妃には娘二人と息子一人がいて、嫡男である未来の大公アルベール2世(Albert Alexandre Louis Pierre Grimaldi)を産んだのである。ところがこのアルベール2世ときたら下半身がだらしない。彼には庶子が二人いる。1991年にヴァカンス中のタマ ラ・ロトロ(Tamara Rotolo)に出逢ったアルベールは、一夏の恋を楽しんだ。しかし、米国に帰ったタマラは身籠もっていて、生まれた娘がジャズミン・グレース (Jazmin Grace)というわけ。こうしたひと時の情事なら分かる。しかし、ニコール・コスト(Nicole Coste)のケースは噴飯物である。トーゴー(Togo)出身でフランス国籍をもつ黒人女との情事は、世間に顔向けできない恥さらしである。1997年 にこの黒人スチュワーデスと肉体関係を持ったアルベールは、非嫡出子の息子アレクサンドル(Alexandre)をもつことになった。何? トーゴーはどこかって? それ(République Togolaise)はガーナの隣国で奴隷海岸にある小国だ。モナコ国民も呆れただろう。有名人のバカ殿がアフリカ出身の黒色土人とセックスして黒い赤ん 坊が生まれたのだ。そこで一言。ばぁーーか。たわけ。あ、ふた言になっちゃった。じゃついでに、Bloody Fool!(アホんだら)
アルベールは自分の立場が分かっていない。モナコ君主にとって品格と威厳こそ重要である。それなのにアフリカ黒人と気軽にセックスして精子を撒き散らす なんて愚劣もいいところだ。あんな南方土人の顔したアフリカ女を国民の前に披露できるのか? 縮れ毛で浅黒い息子を未来の大公です、とは紹介できないだろ う。その後アルベールは南アフリカ(ローデシア) 出身の金髪美女シャルレーヌ・ウットストック(Charlene Lynett Wittstock)嬢と結婚した。これでモナコ国民もホッとしたことだろう。シャレーヌ妃はオリンピックに出場した元水泳選手でスラリとした体形で、ド イツ・イギリス系の白人女性である。グレース・ケリー以来の美人路線から外れなくて良かった。アルベール大公はもう少しでモナコ公国を没落させるところで あった。(Alexis Parr, Why DOES the Prince of Monaco refuse to see our son?, Daily Mail, 26 April 2011 and Mail Reporter, Look who's turned up :Mother of Prince Albert's illegitimate son spotted strolling through Monaco, 30 June 2011を参照)
ダイアナ妃暗殺を許可した女王の英断
ダイアナ妃の悲劇と言えば公式には事故死となっている。しかし、実際は英国王室による暗殺であろう。もちろん、確固とした物的証拠や科学的捜査があるわけ ではない。どうしても推測になってしまうのは、王族が王室によって暗殺されるスキャンダルという性質によるからだ。もし、普通の交通事故ならば、英国情報 局は徹底的な事故調査を行い、何者かによる他殺の可能性をすべて潰すはずである。王子の母であるプリンセスが死亡したのだから、普通の事件捜査よりも遙か に厳格で入念な捜査が行われるはずだ。しかし、そうではなかった。たとえば、事故現場のアルマ・トンネルは通常なら長期間封鎖になり、徹底した科学捜査が 行われるはずであった。しかし、現場保全をせず、事故の翌朝にはトンネルに清掃車が入って路面をきれいにしてしまった。(Robert Barwick, Suppressed Film Exposes Royal Stonewall of Diana Murder Probe, Executive Intelligence Review, Vol. 41, May9, 2014, p28 ) 警察官ならば「まさか、そんな馬鹿な」と叫んでしまう。物的証拠を洗い流してしまうなんて、これでは証拠隠滅ではないか。
でも、なぜそんな捜査の基本をわざと破ったのか? それは、 どうしても事故と結論づけたかったからである。また、事故が起こって(12:23)救急車が到着し(01:30)、ダイアナ妃を病院に運ぶ(02:06) まで、一時間半以上かかっている。しかも、救急車は病院まで、わずか4マイルほどの距離を30分くらいかけて「ゆっくり」走っていたのだ。いつもの事故の 時みたいに迅速に病院に運んだらダイアナ妃は助かってしまうので、手遅れになるように鈍行車で運んだのである。それに、トンネルの監視カメラはその世に 限ってオフになっていたなんて、あまれにも出来過ぎているだろう。重要な証拠品であるメルセデスすら徹底的な調査・分析をせずにウヤムヤにしてしまった。 誰だって「嘘だろう!」と声を上げてしまうだろう。生命保険絡みの事故だってもっと詳しく調べるぞ。こんな非常識な事があっても優秀なMI6(英国の対外 諜報局)が事故死で済ますことの方がおかしい。
王族を暗殺するときは必ず国王の許可が要る。たとえエジンバラ公フィリップ殿下が決定 しても、やはりエリザベス女王の承認が必要であろう。あんなエジプト人のドディ・アル・ファイアドと寝て、混血児までつくろうとしたプリンセスを、王国の 命運を司る女王が許せるわけがない。ドイツ軍の空襲にだって耐え抜いた女王が黙っているはずがないだろう。栄光あるイングラント王国の名誉を汚す貴族は、 たとえ王子の母でも容赦してはならないのが英国君主の義務である。王室の威信は倫理の教科書より上位にあるのだ。ダイアナ妃は陽気で魅力的なプリンセスで あったが、王族であるという自覚に欠けていたのだ。高貴な者には義務が伴う。平民のような自由は無い。致命的な過ちを犯したら、命を差し出さなければなら ない。嫌なら誰かが刺客として現れる。ウィリアム王子も暗殺を内心分かっていただろう。華やかな貴族生活は温情だけでは守れない。王室の恥を未然に防いだ 女王の英断は賞賛に値する。
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ヨーロッパ諸国は我が国と似ている。両者とも君主制と封建制を兼ね備えた先進国であるからだ。頭のツムジまで左巻きのマスコミや学者は、こぞって「アジ アの中の日本」などとわめいている。それなら「掃き溜に降りた鶴」はカラスに変身するのか。我が国の近くに不潔な支那人や精神異常の朝鮮人がうんこ座りし ていたって、我々は日本人であってアジア人ではない。我が国の皇室よりは歴史が短いが、英国の王室は歐洲の中で威厳を誇っている。(我が皇室伝統と比べて しまうのはちょっと酷だが。)オリヴァー・クロムウェルによって一時中断したが、それでも永い王室伝統を護持してきたのだから自慢してもよいだろう。
現代はマス・メディアが発達したこともあって、王侯貴族の行動は即座に報道され、ほんの些細なことでも大衆の好奇心を引くことになる。根性がひねくれた 知識人は別にして、一般国民は高貴な人物が好きだ。ブリテンのウィリアム王子とキャサリン(ケイト)・ミドルトン嬢のご成婚は素晴らしかった。悲劇のプリ ンセスを偲ばせる容貌のウィリアム殿下と若くて快活な美女ケイトにブリテン国民が熱狂したのも分かる。やはり、プリンセスは美人でなければ人気が出ない。 高貴な血統を誇る王族には、うっとりするような美しさが必要だ。王室の賢者らはケイト・ミドルトン嬢なら、未来のプリンセスにふさわしいと判断して許可し たのではないか。大衆心理をよく分かっている。つくづく王室の補佐官は偉いと思う。
現代の王室は権力の威光ではなく、民衆の憧憬と敬 愛によって支えられている。小難しい政治理論など興味のない国民は、王室を観ることで国家を感じるのだ。女王陛下が病院や学校を訪問されれば感動するし、 怪我をしたらトップニュースになるだろう。犬の散歩でさえどんな服装であったのか、誰と会ったのかに関心が向く。クリスマスやイースターになると国民は君 主と一緒に祈り、酒場では忠実なる陛下の反対者までもが「女王陛下に乾杯!」と叫んで酔いつぶれてしまうのだ。だからウィリアム王子のご成婚は、ある意味 国民が胸躍らせる祭りであった。英国史を書いたフランスの有名な知識人アンドレ・モロワ(André Maurois)は述べている。
国民が関心をよせて注目する皇室の生活は、国民各自の私生活の水準に、絶対力をもたらすものである。男女の大部分のものにとって、結婚は法令にもまさる 関心事なのであるから、王家の結婚は、国民的な大事件である。もしこの結婚が小説的であるなら、もし婚約者がアレクサンドラ王妃や、ヨーク公妃や、マリー ナ姫の場合のやうに、たいそうお美しいお方であるなら、感傷的な、無害な、健全な熱狂が、民衆をとらへる。年とった娘や平民の男は、そのとき、この事件に たくしてもっとも甘美な小説を堪能するわけである。( アンドレ・モーロワ 『イギリスの君主制』 村上菊一郎訳 時事通信社 昭和21年 p.93)
ケンブリッジ公爵夫人(Duchess of Cambridge)となったキャサリン妃は、ブリテン国民の心を掴んだうえに可愛らしいジョージ王子をお産みになった。憧憬の眼差しを向ける一般国民に 気さくに話しかけ、笑顔を見せる仕草をみれば、彼女が聡明な王妃なることが分かる。しかも、ジョージ王子を連れてオーストラリアを訪問したのである。王族 が住んでいない南の英国民は、若々しい王族カップルを熱烈に歓迎した。愛くるしい表情を見せるジョージ王子を目にしたオーストラリア国民は独立論などさっ さと捨ててしまったのだ。美しい賢者が王室に嫁いだことで王室や名門のイギリス貴族も一安心であろう。
モナコのバカ殿アルベールの情事
(左:グレース・ケリー/右:アルベール&シャルレーヌ)
グレース・ケリー(Grace Kelly)と言えばシンデレラ物語を体現したアメリカ人女優として有名だ。銀幕のブロンド美人が一夜にしてモナコ公妃になったのだから、モナコ国民より アメリカ国民の方が大騒ぎであった。日本人だって彼女が大好きだ。その“シンデレラ”公妃は日本庭園に感銘を受け、それと同じものをモナコにも造ってし まった。日本文化の良さが分かるなんてさすがセンスがいい。カルフォルニアの支那人街には感動しなかったのかも知れない。 いづれにせよ、支那文化を選ばなかったのは、美的センスが洗練されていたからだろう。
(左:ニコール・コスト&息子/右:ジャズミン)
グレース・ケリー妃には娘二人と息子一人がいて、嫡男である未来の大公アルベール2世(Albert Alexandre Louis Pierre Grimaldi)を産んだのである。ところがこのアルベール2世ときたら下半身がだらしない。彼には庶子が二人いる。1991年にヴァカンス中のタマ ラ・ロトロ(Tamara Rotolo)に出逢ったアルベールは、一夏の恋を楽しんだ。しかし、米国に帰ったタマラは身籠もっていて、生まれた娘がジャズミン・グレース (Jazmin Grace)というわけ。こうしたひと時の情事なら分かる。しかし、ニコール・コスト(Nicole Coste)のケースは噴飯物である。トーゴー(Togo)出身でフランス国籍をもつ黒人女との情事は、世間に顔向けできない恥さらしである。1997年 にこの黒人スチュワーデスと肉体関係を持ったアルベールは、非嫡出子の息子アレクサンドル(Alexandre)をもつことになった。何? トーゴーはどこかって? それ(République Togolaise)はガーナの隣国で奴隷海岸にある小国だ。モナコ国民も呆れただろう。有名人のバカ殿がアフリカ出身の黒色土人とセックスして黒い赤ん 坊が生まれたのだ。そこで一言。ばぁーーか。たわけ。あ、ふた言になっちゃった。じゃついでに、Bloody Fool!(アホんだら)
アルベールは自分の立場が分かっていない。モナコ君主にとって品格と威厳こそ重要である。それなのにアフリカ黒人と気軽にセックスして精子を撒き散らす なんて愚劣もいいところだ。あんな南方土人の顔したアフリカ女を国民の前に披露できるのか? 縮れ毛で浅黒い息子を未来の大公です、とは紹介できないだろ う。その後アルベールは南アフリカ(ローデシア) 出身の金髪美女シャルレーヌ・ウットストック(Charlene Lynett Wittstock)嬢と結婚した。これでモナコ国民もホッとしたことだろう。シャレーヌ妃はオリンピックに出場した元水泳選手でスラリとした体形で、ド イツ・イギリス系の白人女性である。グレース・ケリー以来の美人路線から外れなくて良かった。アルベール大公はもう少しでモナコ公国を没落させるところで あった。(Alexis Parr, Why DOES the Prince of Monaco refuse to see our son?, Daily Mail, 26 April 2011 and Mail Reporter, Look who's turned up :Mother of Prince Albert's illegitimate son spotted strolling through Monaco, 30 June 2011を参照)
ダイアナ妃暗殺を許可した女王の英断
ダイアナ妃の悲劇と言えば公式には事故死となっている。しかし、実際は英国王室による暗殺であろう。もちろん、確固とした物的証拠や科学的捜査があるわけ ではない。どうしても推測になってしまうのは、王族が王室によって暗殺されるスキャンダルという性質によるからだ。もし、普通の交通事故ならば、英国情報 局は徹底的な事故調査を行い、何者かによる他殺の可能性をすべて潰すはずである。王子の母であるプリンセスが死亡したのだから、普通の事件捜査よりも遙か に厳格で入念な捜査が行われるはずだ。しかし、そうではなかった。たとえば、事故現場のアルマ・トンネルは通常なら長期間封鎖になり、徹底した科学捜査が 行われるはずであった。しかし、現場保全をせず、事故の翌朝にはトンネルに清掃車が入って路面をきれいにしてしまった。(Robert Barwick, Suppressed Film Exposes Royal Stonewall of Diana Murder Probe, Executive Intelligence Review, Vol. 41, May9, 2014, p28 ) 警察官ならば「まさか、そんな馬鹿な」と叫んでしまう。物的証拠を洗い流してしまうなんて、これでは証拠隠滅ではないか。
でも、なぜそんな捜査の基本をわざと破ったのか? それは、 どうしても事故と結論づけたかったからである。また、事故が起こって(12:23)救急車が到着し(01:30)、ダイアナ妃を病院に運ぶ(02:06) まで、一時間半以上かかっている。しかも、救急車は病院まで、わずか4マイルほどの距離を30分くらいかけて「ゆっくり」走っていたのだ。いつもの事故の 時みたいに迅速に病院に運んだらダイアナ妃は助かってしまうので、手遅れになるように鈍行車で運んだのである。それに、トンネルの監視カメラはその世に 限ってオフになっていたなんて、あまれにも出来過ぎているだろう。重要な証拠品であるメルセデスすら徹底的な調査・分析をせずにウヤムヤにしてしまった。 誰だって「嘘だろう!」と声を上げてしまうだろう。生命保険絡みの事故だってもっと詳しく調べるぞ。こんな非常識な事があっても優秀なMI6(英国の対外 諜報局)が事故死で済ますことの方がおかしい。
王族を暗殺するときは必ず国王の許可が要る。たとえエジンバラ公フィリップ殿下が決定 しても、やはりエリザベス女王の承認が必要であろう。あんなエジプト人のドディ・アル・ファイアドと寝て、混血児までつくろうとしたプリンセスを、王国の 命運を司る女王が許せるわけがない。ドイツ軍の空襲にだって耐え抜いた女王が黙っているはずがないだろう。栄光あるイングラント王国の名誉を汚す貴族は、 たとえ王子の母でも容赦してはならないのが英国君主の義務である。王室の威信は倫理の教科書より上位にあるのだ。ダイアナ妃は陽気で魅力的なプリンセスで あったが、王族であるという自覚に欠けていたのだ。高貴な者には義務が伴う。平民のような自由は無い。致命的な過ちを犯したら、命を差し出さなければなら ない。嫌なら誰かが刺客として現れる。ウィリアム王子も暗殺を内心分かっていただろう。華やかな貴族生活は温情だけでは守れない。王室の恥を未然に防いだ 女王の英断は賞賛に値する。
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不潔な苦力を見た漱石
ある民族を無闇に罵倒するのは良くない。根拠無しに「殺せ!」と叫んだり「しばいたる!」と脅迫するなら憎悪発言だろう。しかし、近頃は韓国人や支那人 に関する真実を言っても「ヘイト・スピーチ」に分類されるらしい。ヘイト・スピーチ規制法とは、往々にして支那人や朝鮮人が日本人を攻撃するための手段に なってしまう。真実を語る日本人が彼らアジア人の事実を指摘すると、面子を潰された劣等民族は烈火の如く怒る。正直な感想や率直な見解を述べただけで、異 民族を差別する拝外主義者と呼ばれてしまうのだ。往々にして自由な国に住む文明人は、自らその自由を絞め殺してしまうものらしい。
平 成の世と違って明治の頃は意外と自由があった。支那や朝鮮に不都合な事でも割と平気に述べていたのである。明治人は平成の日本人と違って民度が高かった。 民衆は違った意見を認めて度量が広かったし、知識人も不当な圧力を跳ね返すくらい反骨精神に溢れていたのだ。文豪夏目漱石も自由な精神を持つ知識人の一人 であった。現在の学校では漱石の『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』なら子供に勧められるが、『満韓ところどころ』みたいな作品は図書室にそっと置いて、 子供には内緒にしておくだろう。幸田露伴や徳富蘇峰、福澤諭吉などは怒るだろうが、支那人や朝鮮人の子供が混じってしまった今日の学校では、自己検閲が必 須事項になっている。
ひょんなことから漱石は満洲・韓国を見物することになったのである。漱石が南満鉄道会社が何をするのか知らな かったので、呆れた満鉄の総裁が連れてってくれることになった。そこで船に乗って大連に渡ったのである。(夏目漱石 『満韓ところどころ』 漱石全集第8巻 岩波書店 昭和41年)
船が河岸に着くと、漱石の目には不潔な支那人労働者の姿が飛び込んできた。学校教師が聞いたら「ギョッ」とするような感想を漱石は述べたのである。
河岸の上には人が澤山並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄ると 猶(なお)見苦しい。こう澤山塊まると更に不体裁である。・・・船は鷹揚にかの汚らしいクーリー団の前へ横付けになって止まった。止まるや否や、クーリー 団は怒った蜂の巣の様に、急に鳴動し始めた。 (p.160)
支 那人の苦力(クーリー/coolie)と言っても、今の若者はピンとこないだろう。苦力とは支那や印度の下層筋肉労働者で、言語に絶する不潔さでは定評が あった。この下層人夫には脂汗や垢が数年かけて皮膚にこびりついているようで気持ちが悪い。気絶するくらい体臭がきついのだ。品性卑しく、女に飢えれば豚 や馬を獣姦する。仕事が終われば博打で有り金を擦るか、阿片窟でラリっているかだ。
ついでにここで筆者の体験をひとつ紹介。東京は国 分寺行きの中央線に乗っていたときの出来事である。電車内に浮浪者が乗っていて、長椅子の端に坐っていた。その附近には誰も近づかない。強烈な体臭で酸っ ぱく生ゴミの匂いがしていた。筆者はその浮浪者より一般乗客の態度の方が興味があったので、各自の表情を観察できて面白かった。彼らには浮浪者に対する嫌 悪感しかなく、親切心などひとかけらもなかったのだ。学校で習う建前の人道主義など、現実の異臭の前では瞬く間に蒸発してしまうのだ。こんな日本にアジア の貧民が移住してきたら、一般国民はいっせいに悲鳴を上げるだろう。
話を漱石に戻そう。汽車に乗って漱石は満洲へ向かったという。そして清林館(せいりんかん)という宿に泊まることになった。そこで漱石は不快な光景を目撃する。
それ(卓上)を囲んで三人の男が食事をしている。皿小鉢から箸茶碗に至る迄汚い事甚だしい。卓に着いている男に至っては尚更汚かった。まるで大連の埠頭で見る苦力と同様である。 (pp.242-243)
よ く耳にする支那人のあいさつは「おい、飯を食ったか」である。ひと昔人気だったジャキー・チェンの映画でも、街中の支那人が飯を食っているシーンが常に あった。支那人が匪賊や暴徒から逃げるときも、中華鍋を背負って逃げるくらい食事が重要である。いつも食事を心配する支那人は、ネズミやヘビの肉でも油で 炒めて食ってしまうし、正体不明の食材を料理して不潔な食器に盛りつけても平気で食っている。支那人が食中毒を起こすなら、そうとう酷い物を食った時であ ろう。日本人ならどうか。即死だ。
酸っぱい支那のお茶
漱石は汽船に乗りながら、支那大陸における河の水についても語っている。
支那の河は無神経である。人間に至っては固(もと)より無神経で、古来から泥水を飲んで、悠然と子を生んで今日迄栄えている。(p.244)
こ うした漱石の発言は今日なら帰化支那人から批判されてしまうだろう。汚い泥水を飲んで生まれた支那人の子供などといったらPTAで問題になるし、朝日新聞 の連載だって中止になってしまうだろう。作家のペン・クラブだって除名処分じゃないか。汚い支那を目にした漱石は、薄情な支那人を目撃することになった。
奉天の街中を見物した後に漱石は、宿に向かう途中である交通事故を目撃したのである。支那の豆腐やら、肉饅頭やら豆素麺などを売る汚い店が並んでいる所 で、黒い人だかりに目がとまった。六十歳くらいの爺さんが地面に坐っていたのだ。右膝と足の甲の間を二寸ほどえぐりぬいたような、脛の肉が骨の上を滑って 下にずり落ちた様で、一緒に縮れ上がっていた。漱石には「まるで柘榴(ざくろ)を潰して叩きつけた風に見えた」そうである。(p.256) 爺さんの周り に集まった支那人は助けようともせず、口も利かずにただ眺めていたという。爺さんは野次馬にその傷口を曝しているだけだった。
案内係 が漱石にその老人は「馬車に引かれた」らしいとの事情を話した。漱石が医者を呼んでやったらよさそうなものだ、と言ったら、案内係は「ええ、今にどうかす るでしょう」と答えるだけで素っ気なかった。支那人は他人のために何かするような人種ではない。一文にもならないことをする支那人はいないのだ。憐憫(れ んびん)の情など支那人の心には存在しない。日本人の「こころ」を書いた漱石でも、支那人の「こころ」は残酷すぎで書けないだろう。いやな光景を見てし まった漱石が宿の玄関に着いた際、「漸(ようや)く残酷な支那人と縁を切った様な心持ちがして嬉しかった」と感想を吐露している。(p.257)
清潔な日本に住み慣れたからであろうが、支那大陸では何度も異臭に悩まされる漱石であった。胃が弱かった漱石なのに、鼻までも悩まされることになったのだ。奉天の市街地を回りながら、ある店に入ったときのことである。
支那の家に固有な一種の臭いが、たちまち鼻に感じたので、一二歩往来の方へたたずんでいた。(p.258)
昔の東京では「お茶の水」近辺の地下水は、文字通りお茶に適していたらしい。日本人はたいして有り難く思わないが、生水(井戸水)かおしいのは日本の特 徴である。アジアだと水は煮沸して殺菌しないと危なくて飲めない。支那人はウーロン茶をよく飲むが、それは生水が危険だからである。どんな動物の肉でも食 べる支那人が、刺身を食べないのは不思議であろう。危険で食えないのだ。現代では残留農薬が基準値を遙かに超えているのでウーロン茶の方が危険かも知れな い。奉天で随行者の橋本氏と漱石は、日本の感覚で茶を注文したときのことである。
茶を飲むと、酸い様な塩はゆい様な一種の味がする。 少し妙だと思って、茶碗を下に置いてゆっくり橋本の講釈を聞いた。その講釈によると、奉天には昔から今日に至る迄下水と云ふものがない。両便の始末は無論 不完全である。そこで古来から何百年となく奉天の民が垂れ流した糞小便が歳月の力で自然天然に地の底に浸み込んで、いまだに飲料水に祟りをいるんだと云 ふ。(p.259)
説明を聞いた漱石は、一応もっともだが、科学的ではないとあしらった。それでも漱石は不快であったろう。お湯を立てて 貰ったら濁っていたという。(p.260) 汚い水であることは確かだ。屎尿が混じっているとは思えないが、別の汚染物質が混入していることは想像がつく。それが何なのか判明しないところがアジアの 不気味さである。アジア旅行が楽しく感じる日本人はどうかしている。腹が痛くなるまで分からぬのだろう。
宿に泊まった漱石はそこでも不快な思いをしたのである。日本の旅館なら、温泉につかってリラックスしたら、出された料理に舌鼓を打つのが定番だろう。しんし、支那の旅館は一味も二味も違うと言うより、別物と考えたほうがよい。漱石によれば、
その上室の中が妙な臭いを放つ。支那人が執拗く置き去りにして行った臭いだから、いくら綺麗好きの日本人が掃除したって、依然として臭い。宿では近々停 車場附近へ新築をして引移る積だと云っていた。さうしたら、この臭丈は落ちるだらう。然し酸っぱい御茶は奉天のあらん限り人畜に祟るものと覚悟しなければ ならない。(p.261)
英語教師で人気作家としての漱石は有名だが、漢詩の名人であったことはそれほど知られていない。幼少時から 漢籍を学んでいた漱石でも実際の支那を知らなかったのだ。いまの漢文学者や大学教授では漱石の足許にも及ぶまい。それでも漱石は生の支那人との接触がな かったのであろう。漢籍の本を開いても支那人の体臭は体験できない。実際の支那でそのおぞましい実態を経験できたから、漱石には良かったんじゃないか。支 那を礼賛している馬鹿な知識人でも、いったん支那人の正体を知れば、たとえ嘘の文章を発表しても心から賞賛できなくなる。明治の頃は表現の自由が出版界に あった。現代はテレビまであるのに、そこには宮根誠司や池上彰のような愚者がデカい顔して説教を垂れている。テレビ復活を目指している坂東英二やみのもん たは支那人の真実を語れば、意外と人気を回復するんじゃないか。
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ある民族を無闇に罵倒するのは良くない。根拠無しに「殺せ!」と叫んだり「しばいたる!」と脅迫するなら憎悪発言だろう。しかし、近頃は韓国人や支那人 に関する真実を言っても「ヘイト・スピーチ」に分類されるらしい。ヘイト・スピーチ規制法とは、往々にして支那人や朝鮮人が日本人を攻撃するための手段に なってしまう。真実を語る日本人が彼らアジア人の事実を指摘すると、面子を潰された劣等民族は烈火の如く怒る。正直な感想や率直な見解を述べただけで、異 民族を差別する拝外主義者と呼ばれてしまうのだ。往々にして自由な国に住む文明人は、自らその自由を絞め殺してしまうものらしい。
平 成の世と違って明治の頃は意外と自由があった。支那や朝鮮に不都合な事でも割と平気に述べていたのである。明治人は平成の日本人と違って民度が高かった。 民衆は違った意見を認めて度量が広かったし、知識人も不当な圧力を跳ね返すくらい反骨精神に溢れていたのだ。文豪夏目漱石も自由な精神を持つ知識人の一人 であった。現在の学校では漱石の『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』なら子供に勧められるが、『満韓ところどころ』みたいな作品は図書室にそっと置いて、 子供には内緒にしておくだろう。幸田露伴や徳富蘇峰、福澤諭吉などは怒るだろうが、支那人や朝鮮人の子供が混じってしまった今日の学校では、自己検閲が必 須事項になっている。
ひょんなことから漱石は満洲・韓国を見物することになったのである。漱石が南満鉄道会社が何をするのか知らな かったので、呆れた満鉄の総裁が連れてってくれることになった。そこで船に乗って大連に渡ったのである。(夏目漱石 『満韓ところどころ』 漱石全集第8巻 岩波書店 昭和41年)
船が河岸に着くと、漱石の目には不潔な支那人労働者の姿が飛び込んできた。学校教師が聞いたら「ギョッ」とするような感想を漱石は述べたのである。
河岸の上には人が澤山並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄ると 猶(なお)見苦しい。こう澤山塊まると更に不体裁である。・・・船は鷹揚にかの汚らしいクーリー団の前へ横付けになって止まった。止まるや否や、クーリー 団は怒った蜂の巣の様に、急に鳴動し始めた。 (p.160)
支 那人の苦力(クーリー/coolie)と言っても、今の若者はピンとこないだろう。苦力とは支那や印度の下層筋肉労働者で、言語に絶する不潔さでは定評が あった。この下層人夫には脂汗や垢が数年かけて皮膚にこびりついているようで気持ちが悪い。気絶するくらい体臭がきついのだ。品性卑しく、女に飢えれば豚 や馬を獣姦する。仕事が終われば博打で有り金を擦るか、阿片窟でラリっているかだ。
ついでにここで筆者の体験をひとつ紹介。東京は国 分寺行きの中央線に乗っていたときの出来事である。電車内に浮浪者が乗っていて、長椅子の端に坐っていた。その附近には誰も近づかない。強烈な体臭で酸っ ぱく生ゴミの匂いがしていた。筆者はその浮浪者より一般乗客の態度の方が興味があったので、各自の表情を観察できて面白かった。彼らには浮浪者に対する嫌 悪感しかなく、親切心などひとかけらもなかったのだ。学校で習う建前の人道主義など、現実の異臭の前では瞬く間に蒸発してしまうのだ。こんな日本にアジア の貧民が移住してきたら、一般国民はいっせいに悲鳴を上げるだろう。
話を漱石に戻そう。汽車に乗って漱石は満洲へ向かったという。そして清林館(せいりんかん)という宿に泊まることになった。そこで漱石は不快な光景を目撃する。
それ(卓上)を囲んで三人の男が食事をしている。皿小鉢から箸茶碗に至る迄汚い事甚だしい。卓に着いている男に至っては尚更汚かった。まるで大連の埠頭で見る苦力と同様である。 (pp.242-243)
よ く耳にする支那人のあいさつは「おい、飯を食ったか」である。ひと昔人気だったジャキー・チェンの映画でも、街中の支那人が飯を食っているシーンが常に あった。支那人が匪賊や暴徒から逃げるときも、中華鍋を背負って逃げるくらい食事が重要である。いつも食事を心配する支那人は、ネズミやヘビの肉でも油で 炒めて食ってしまうし、正体不明の食材を料理して不潔な食器に盛りつけても平気で食っている。支那人が食中毒を起こすなら、そうとう酷い物を食った時であ ろう。日本人ならどうか。即死だ。
酸っぱい支那のお茶
漱石は汽船に乗りながら、支那大陸における河の水についても語っている。
支那の河は無神経である。人間に至っては固(もと)より無神経で、古来から泥水を飲んで、悠然と子を生んで今日迄栄えている。(p.244)
こ うした漱石の発言は今日なら帰化支那人から批判されてしまうだろう。汚い泥水を飲んで生まれた支那人の子供などといったらPTAで問題になるし、朝日新聞 の連載だって中止になってしまうだろう。作家のペン・クラブだって除名処分じゃないか。汚い支那を目にした漱石は、薄情な支那人を目撃することになった。
奉天の街中を見物した後に漱石は、宿に向かう途中である交通事故を目撃したのである。支那の豆腐やら、肉饅頭やら豆素麺などを売る汚い店が並んでいる所 で、黒い人だかりに目がとまった。六十歳くらいの爺さんが地面に坐っていたのだ。右膝と足の甲の間を二寸ほどえぐりぬいたような、脛の肉が骨の上を滑って 下にずり落ちた様で、一緒に縮れ上がっていた。漱石には「まるで柘榴(ざくろ)を潰して叩きつけた風に見えた」そうである。(p.256) 爺さんの周り に集まった支那人は助けようともせず、口も利かずにただ眺めていたという。爺さんは野次馬にその傷口を曝しているだけだった。
案内係 が漱石にその老人は「馬車に引かれた」らしいとの事情を話した。漱石が医者を呼んでやったらよさそうなものだ、と言ったら、案内係は「ええ、今にどうかす るでしょう」と答えるだけで素っ気なかった。支那人は他人のために何かするような人種ではない。一文にもならないことをする支那人はいないのだ。憐憫(れ んびん)の情など支那人の心には存在しない。日本人の「こころ」を書いた漱石でも、支那人の「こころ」は残酷すぎで書けないだろう。いやな光景を見てし まった漱石が宿の玄関に着いた際、「漸(ようや)く残酷な支那人と縁を切った様な心持ちがして嬉しかった」と感想を吐露している。(p.257)
清潔な日本に住み慣れたからであろうが、支那大陸では何度も異臭に悩まされる漱石であった。胃が弱かった漱石なのに、鼻までも悩まされることになったのだ。奉天の市街地を回りながら、ある店に入ったときのことである。
支那の家に固有な一種の臭いが、たちまち鼻に感じたので、一二歩往来の方へたたずんでいた。(p.258)
昔の東京では「お茶の水」近辺の地下水は、文字通りお茶に適していたらしい。日本人はたいして有り難く思わないが、生水(井戸水)かおしいのは日本の特 徴である。アジアだと水は煮沸して殺菌しないと危なくて飲めない。支那人はウーロン茶をよく飲むが、それは生水が危険だからである。どんな動物の肉でも食 べる支那人が、刺身を食べないのは不思議であろう。危険で食えないのだ。現代では残留農薬が基準値を遙かに超えているのでウーロン茶の方が危険かも知れな い。奉天で随行者の橋本氏と漱石は、日本の感覚で茶を注文したときのことである。
茶を飲むと、酸い様な塩はゆい様な一種の味がする。 少し妙だと思って、茶碗を下に置いてゆっくり橋本の講釈を聞いた。その講釈によると、奉天には昔から今日に至る迄下水と云ふものがない。両便の始末は無論 不完全である。そこで古来から何百年となく奉天の民が垂れ流した糞小便が歳月の力で自然天然に地の底に浸み込んで、いまだに飲料水に祟りをいるんだと云 ふ。(p.259)
説明を聞いた漱石は、一応もっともだが、科学的ではないとあしらった。それでも漱石は不快であったろう。お湯を立てて 貰ったら濁っていたという。(p.260) 汚い水であることは確かだ。屎尿が混じっているとは思えないが、別の汚染物質が混入していることは想像がつく。それが何なのか判明しないところがアジアの 不気味さである。アジア旅行が楽しく感じる日本人はどうかしている。腹が痛くなるまで分からぬのだろう。
宿に泊まった漱石はそこでも不快な思いをしたのである。日本の旅館なら、温泉につかってリラックスしたら、出された料理に舌鼓を打つのが定番だろう。しんし、支那の旅館は一味も二味も違うと言うより、別物と考えたほうがよい。漱石によれば、
その上室の中が妙な臭いを放つ。支那人が執拗く置き去りにして行った臭いだから、いくら綺麗好きの日本人が掃除したって、依然として臭い。宿では近々停 車場附近へ新築をして引移る積だと云っていた。さうしたら、この臭丈は落ちるだらう。然し酸っぱい御茶は奉天のあらん限り人畜に祟るものと覚悟しなければ ならない。(p.261)
英語教師で人気作家としての漱石は有名だが、漢詩の名人であったことはそれほど知られていない。幼少時から 漢籍を学んでいた漱石でも実際の支那を知らなかったのだ。いまの漢文学者や大学教授では漱石の足許にも及ぶまい。それでも漱石は生の支那人との接触がな かったのであろう。漢籍の本を開いても支那人の体臭は体験できない。実際の支那でそのおぞましい実態を経験できたから、漱石には良かったんじゃないか。支 那を礼賛している馬鹿な知識人でも、いったん支那人の正体を知れば、たとえ嘘の文章を発表しても心から賞賛できなくなる。明治の頃は表現の自由が出版界に あった。現代はテレビまであるのに、そこには宮根誠司や池上彰のような愚者がデカい顔して説教を垂れている。テレビ復活を目指している坂東英二やみのもん たは支那人の真実を語れば、意外と人気を回復するんじゃないか。
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虚像を刷り込むユダヤ人
(左写真/リーマン・ブラザーズCEOリチャード・ファルド)
日本人にとって最も重要で関心のある外国は、間違いなくアメリカ合衆国である。知識人や政治家は好き嫌いは別にして対米関係を重要とみなすし、一般国民 はアメリカから大量に輸入された映画や音楽を楽しんでいる。しかしどうした訳か、アメリカの詳しい歴史や社会の異変については関心がないのだ。複雑すぎて 解りづらいのかも知れない。アメリカ人の主流は白人であるが、支配者はユダヤ人である。アングロ・サクソン系のプロテスタント白人が支配者の時代はとっく に終焉を迎えており、ユダヤ人が支配者層に潜り込んで乗っ取りを完了したのである。一部のアメリカ人や日本人がこれに気づいても、あまりにも危険で生々し い現実なので主要メディアではタブーとなっているのだ。全国放送局や大手報道機関はみすみす地雷を踏むことはしない。各界の頂点にはユダヤ人が君臨してい たり、金銭や権能で影響力を行使している。この真実を暴露した者には必ず容赦のない仕置きが待っているのだ。
ある事実を隠蔽しようと する場合、一つの方法として「陽動作戦(diversion)」または「誤導策(misdirection)」がある。たとえば、戦争で味方の軍勢を大小 二つに分けるとしよう。小部隊を囮(おとり)にして敵軍を引きつけ、大軍が待ち伏せる地点に誘導し、敵を取り囲んで殲滅(せんめつ)する。「誤導策」と は、よく手品師が使うトリックである。右手でカードや布をちらつかせて、観客の視線を右手に集中させて、左手で何らかの小細工をするのだ。素人の客は手品 師の左手を観ていないので、誰もトリックに気づかず、意外な結果に驚くのである。狡猾なユダヤ人は映像技術や心理操作に長けているので、無邪気で知能の低 い一般人を映画やテレビ番組を用いて騙す。また、娯楽作品がしばしは洗脳手段として用いられていることはよく知られている。ユダヤ人は積極的にあるイメー ジを刷り込むのと、ある事を別の事にすり替えたり、世間の目をそらす作戦という二つをうまく混ぜるのだ。
美しいユダヤ人という虚像と現実の姿
(左:オリヴァー/右:フェリシティ)
娯楽映画でユダヤ人を描く際、ハリウッドのユダヤ人制作者や演出家はアメリカ人やヨーロッパ人に対し、現実離れした「北欧人のような」偽イメージを植え 付ける。ユダヤ人は西欧人とちっとも変わらない容姿を持ち、西欧社会の味方で、マナーや文化も西洋風である、と観客に印象づけるのだ。たとえば、人気コ ミックを実写化したテレビ・ドラマ『アロー(Arrow)』はユダヤ人の手が多分に加えられた作品である。
(左:ライラ/右:ディグル)
人気ドラマ『アロー』は、主人公のオリヴァー・クイーンがウィリアム・テルのように弓矢を用いて悪党を退治する勧善懲悪物語である。問題はキャラクター設 定や配役にある。オリヴァーの母モイラ(Susanna Thompson 西欧系白人)は大企業の社長夫人で、亭主(オリヴァーの父)をなくした未亡人なのだが、再婚相手は自社の重役ウォルター(Colin Salmonが演じる) であった。だが、このウォルターは黒人。「ああ、またか」とアメリカ白人は思うだろう。大富豪の美しい未亡人が黒人と再婚する設定なのだ。また、オリ ヴァーの助っ人役ジョン・ディグル(David Ramseyが演じる)は正義感に溢れた黒人の元軍人。有能で頼りになる相棒は黒人にして、制作者は黒人観客に媚びているのだ。彼の恋人は白人美女のライ ラ(Audrey Marie Andersonが演じる)であり、彼の子を出産している。ユダヤ人は黒人を馬鹿にしているから、黒人男性の夢をドラマで叶えてあげている。
( 左:モイラ/右:ウォルター)
こうした異人種性交だけでなく、ユダヤ人女性の容姿を歪曲している。オリヴァーのITサポートをするコンピューターの達人フェリシィティはユダヤ人とい う設定である。金髪の白人美女エミリー・ベット・リッカーズ(Emily Bett Rickerds)がフェリシティ演じている。アメリカ人視聴者は、つい自分の周りのユダヤ人と見比べて溜息をつくだろう。「現実と違うだろ!」と怒って もしょうがない。だってプロデューサーには、マーク・グッゲンハイム( Marc Guggenheim)やアンドリュー・クライスバーグ(Andrew Kreisberg)といったユダヤ人がいるのだ。人種混淆で西歐白人を絶滅したいと無意識的に思っているユダヤ人は、ゲルマン系西洋人だけの世界が嫌い である。異様な容姿をした中東アジア人を仲間はずれにしたヨーロッパ人が憎い。白人の遺伝子の中に有色人種の遺伝子を混ぜて復讐したいのである。現実社会 では難しいので、映像の世界でコテンパンにやっつけたいのだ。
ユダヤ人制作者や彼らに媚びる脚本家らは計算高い。ドラマ中のユダヤ人 女性役には意図的に西歐女優を用い、西歐の観客が彼女に感情移入しやすいように仕組んでいる。とくに悲劇ドラマでは、観客が主人公のユダヤ女性を救いたく なるような、つまり観客が彼女の味方になりたいと思うよう計算しているのだ。昔ホロコーストを描いたハーマン・ウォークの『戦争と追憶(War and Remembrance)』をアメリカ人がテレビ・ドラマ化して大ヒットさせた。悲劇のヒロインであるユダヤ人役には、あの007シリーズで有名な英国女 優ジェーン・シーモア(Jane Seymour)が演じていたのである。彼女の父親は英国のポーランド系ユダヤ人で母親はプロテスタントのオランダ人であるから、役にふさわしいかも知れ ない。だが、狡猾なユダヤ人制作者はわざと、あまたいるユダヤ人役者の中から、西欧人と混血して美人に生まれたユダヤ女優を使うのである。そうすることで 西欧人とユダヤ人の両方から批判が出ないようにしているのだ。ナタリー・ポートマンやスカーレット・ヨハンソンなどがそうだ。中東アジアやロシアに沢山い るユダヤ人は、鼻がデカ過ぎたり表情が暗い。彼らは西欧人と容姿が違い魅力に欠けるから、ハリウッドのユダヤ人は中々採用しないのだ。
(左:サイモン・ベイカー/右:ジェレミー・アイアンズ)
ハリウッドは政治や金融を描いたシリアスな作品でも嘘を混ぜてリアルな物語をつくる。リーマン・ブラザーズをモデルにした『マージン・コール (Margin Call)』はハリウッド・ユダヤ人が仕組んだプロパガンダ映画であった。豪華な出演人を揃えたが、いまひとつ日本ではヒットせず知名度が低い。この映画 はウォール・ストリートの投資銀行が没落に瀕する物語なのだが、サブリミナル効果を盛り込んだ作品となっている。主人公のサム・ロジャースを演じるのが名 優ケヴィン・スペイシー(Kevin Spacey)で、彼は見るからに中流階級の白人でブルックリンかシカゴのユダヤ人を連想させるような言動をとらない。ウォール・ストリートの証券・金融 業界を描いているのに、ユダヤ人のキャラクター設定をしないのだ。
さらにサムの上司にはジャード・コーエン(Jared Cohen)がいて、この名前ではユダヤ人というのが直ぐ分かる。「コーエン」というのはユダヤ教徒の司祭に多い名前である。ところがこのキャラクターを 演じるのはオーストラリア出身の人気俳優サイモン・ベイカー(Simon Baker)」である。金髪の二枚目俳優だ。観客だって「えぇー、嘘みたい」とつぶやきたくなるだろう。会社の最高責任者(CEO)ジョン・チュルド役に は、英国の名優ジェレミー・アイアンズ(Jeremy Irons)を登用している。彼は顧客に損をさせても不良資産を処分して会社を救う策を企む。リスク・マネージャーサラ・ロバートソンを演じるのはデミ・ ムーア(Demi Moore)である。みなユダヤ人らしく見えない。そして腹立たしいのは、主人公のサムが会社を救ったが良心の呵責に耐えかねて会社を辞めると言い出す。 観客は「そんな良心的ユダヤ人なんか観たくないぞ、いいかげんにしろ!」とヤジを飛ばしたくなるだろう。
これシリアス・ドラマのはず だったよな? 米国社会に大打撃を与えたリーマン・ブラザースをモデルにした映画じゃなかったのか? こんな疑問は言うだけ無駄。もしも映画制作者が、あくどい真似をしても平然としているユダヤ人俳優を用いて、ふてぶてしいシーンを見せれば、観客もリアル な世界を覗いた気分になって納得するだろう。現実のリーマン・ブラザーズCEOリチャード・ファルド(Richard Fuld)を知っているアメリカ人なら、こんな映画馬鹿らしくて観ることが出来ない。ウォール街にとぐろを巻く、強欲で冷酷なユダヤ人を描かぬプロパガン ダ映画を、いい年をした大人の観客が金を払って観に来るのか? しかし、ユダヤ人の映画会社が民族の裏切り者になるはずはないから、これからも嘘の現実を「リアル」と呼ぶ作品が上映されるであろう。
朝鮮人が力を持つメディア界
日本でも朝鮮人が日本のメディアに深刻な影響力を行使している。悪名高いソフト・バンクのCMを観れば分かる。白戸次郎が犬であり、 日本人の女房との間には黒人の息子がいる設定だ。朝鮮人がなぶり殺して鍋に入れる犬を日本人の父親にしているのだ。朝鮮人送還を行った白洲次郎を憎む孫正 義の怨念はすさまじい。もし犬と朝鮮人女との間にできた息子が黒人というCMをつくったら、間違いなく韓国で例の噴火が起こるだろう。しかも、祖母役の若 尾文子の再婚相手には、朝鮮系俳優松田翔太というハンサム青年を登用するのだ。朝鮮人は二枚目で魅力的な人物であ、といった刷り込みを日本人に対して行っ ている。松田ではなく、孫正義が出演すればいいんじゃないか。芸能界も朝鮮人に支配されて日本人への侮辱が横行している。日本人の藝人は沈黙するしかな い。
ユダヤ人と朝鮮人(それに支那人)は似ている。多民族に寄生して金儲けをする一方で、被害者面をして差別を訴える。ゼニが貯まっ たらメディアや政界、官界に触手を伸ばして、宿主民族を支配しようとするのだ。もとが卑しい身分だから恥を考えずに行動できるところが強みである。宿主を 支配するには暴力を用いてはならぬ。まづその精神を攻撃して麻痺させた後、一気に牛耳るのが味噌。どんな巨体の男でもその脳を掴めば自由に動かせるのだ。 現代の大衆社会ではメディアを外人に握られたら、もう民衆を正常に保つことは非常に困難となる。愛国者は右翼とか差別主義者の烙印を一方的に押されて、社 会の片隅に押し流されてしまうのだ。このブログだって、いつ閉鎖に追い込まれてもおかしくないのである。
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(左写真/リーマン・ブラザーズCEOリチャード・ファルド)
日本人にとって最も重要で関心のある外国は、間違いなくアメリカ合衆国である。知識人や政治家は好き嫌いは別にして対米関係を重要とみなすし、一般国民 はアメリカから大量に輸入された映画や音楽を楽しんでいる。しかしどうした訳か、アメリカの詳しい歴史や社会の異変については関心がないのだ。複雑すぎて 解りづらいのかも知れない。アメリカ人の主流は白人であるが、支配者はユダヤ人である。アングロ・サクソン系のプロテスタント白人が支配者の時代はとっく に終焉を迎えており、ユダヤ人が支配者層に潜り込んで乗っ取りを完了したのである。一部のアメリカ人や日本人がこれに気づいても、あまりにも危険で生々し い現実なので主要メディアではタブーとなっているのだ。全国放送局や大手報道機関はみすみす地雷を踏むことはしない。各界の頂点にはユダヤ人が君臨してい たり、金銭や権能で影響力を行使している。この真実を暴露した者には必ず容赦のない仕置きが待っているのだ。
ある事実を隠蔽しようと する場合、一つの方法として「陽動作戦(diversion)」または「誤導策(misdirection)」がある。たとえば、戦争で味方の軍勢を大小 二つに分けるとしよう。小部隊を囮(おとり)にして敵軍を引きつけ、大軍が待ち伏せる地点に誘導し、敵を取り囲んで殲滅(せんめつ)する。「誤導策」と は、よく手品師が使うトリックである。右手でカードや布をちらつかせて、観客の視線を右手に集中させて、左手で何らかの小細工をするのだ。素人の客は手品 師の左手を観ていないので、誰もトリックに気づかず、意外な結果に驚くのである。狡猾なユダヤ人は映像技術や心理操作に長けているので、無邪気で知能の低 い一般人を映画やテレビ番組を用いて騙す。また、娯楽作品がしばしは洗脳手段として用いられていることはよく知られている。ユダヤ人は積極的にあるイメー ジを刷り込むのと、ある事を別の事にすり替えたり、世間の目をそらす作戦という二つをうまく混ぜるのだ。
美しいユダヤ人という虚像と現実の姿
(左:オリヴァー/右:フェリシティ)
娯楽映画でユダヤ人を描く際、ハリウッドのユダヤ人制作者や演出家はアメリカ人やヨーロッパ人に対し、現実離れした「北欧人のような」偽イメージを植え 付ける。ユダヤ人は西欧人とちっとも変わらない容姿を持ち、西欧社会の味方で、マナーや文化も西洋風である、と観客に印象づけるのだ。たとえば、人気コ ミックを実写化したテレビ・ドラマ『アロー(Arrow)』はユダヤ人の手が多分に加えられた作品である。
(左:ライラ/右:ディグル)
人気ドラマ『アロー』は、主人公のオリヴァー・クイーンがウィリアム・テルのように弓矢を用いて悪党を退治する勧善懲悪物語である。問題はキャラクター設 定や配役にある。オリヴァーの母モイラ(Susanna Thompson 西欧系白人)は大企業の社長夫人で、亭主(オリヴァーの父)をなくした未亡人なのだが、再婚相手は自社の重役ウォルター(Colin Salmonが演じる) であった。だが、このウォルターは黒人。「ああ、またか」とアメリカ白人は思うだろう。大富豪の美しい未亡人が黒人と再婚する設定なのだ。また、オリ ヴァーの助っ人役ジョン・ディグル(David Ramseyが演じる)は正義感に溢れた黒人の元軍人。有能で頼りになる相棒は黒人にして、制作者は黒人観客に媚びているのだ。彼の恋人は白人美女のライ ラ(Audrey Marie Andersonが演じる)であり、彼の子を出産している。ユダヤ人は黒人を馬鹿にしているから、黒人男性の夢をドラマで叶えてあげている。
( 左:モイラ/右:ウォルター)
こうした異人種性交だけでなく、ユダヤ人女性の容姿を歪曲している。オリヴァーのITサポートをするコンピューターの達人フェリシィティはユダヤ人とい う設定である。金髪の白人美女エミリー・ベット・リッカーズ(Emily Bett Rickerds)がフェリシティ演じている。アメリカ人視聴者は、つい自分の周りのユダヤ人と見比べて溜息をつくだろう。「現実と違うだろ!」と怒って もしょうがない。だってプロデューサーには、マーク・グッゲンハイム( Marc Guggenheim)やアンドリュー・クライスバーグ(Andrew Kreisberg)といったユダヤ人がいるのだ。人種混淆で西歐白人を絶滅したいと無意識的に思っているユダヤ人は、ゲルマン系西洋人だけの世界が嫌い である。異様な容姿をした中東アジア人を仲間はずれにしたヨーロッパ人が憎い。白人の遺伝子の中に有色人種の遺伝子を混ぜて復讐したいのである。現実社会 では難しいので、映像の世界でコテンパンにやっつけたいのだ。
ユダヤ人制作者や彼らに媚びる脚本家らは計算高い。ドラマ中のユダヤ人 女性役には意図的に西歐女優を用い、西歐の観客が彼女に感情移入しやすいように仕組んでいる。とくに悲劇ドラマでは、観客が主人公のユダヤ女性を救いたく なるような、つまり観客が彼女の味方になりたいと思うよう計算しているのだ。昔ホロコーストを描いたハーマン・ウォークの『戦争と追憶(War and Remembrance)』をアメリカ人がテレビ・ドラマ化して大ヒットさせた。悲劇のヒロインであるユダヤ人役には、あの007シリーズで有名な英国女 優ジェーン・シーモア(Jane Seymour)が演じていたのである。彼女の父親は英国のポーランド系ユダヤ人で母親はプロテスタントのオランダ人であるから、役にふさわしいかも知れ ない。だが、狡猾なユダヤ人制作者はわざと、あまたいるユダヤ人役者の中から、西欧人と混血して美人に生まれたユダヤ女優を使うのである。そうすることで 西欧人とユダヤ人の両方から批判が出ないようにしているのだ。ナタリー・ポートマンやスカーレット・ヨハンソンなどがそうだ。中東アジアやロシアに沢山い るユダヤ人は、鼻がデカ過ぎたり表情が暗い。彼らは西欧人と容姿が違い魅力に欠けるから、ハリウッドのユダヤ人は中々採用しないのだ。
(左:サイモン・ベイカー/右:ジェレミー・アイアンズ)
ハリウッドは政治や金融を描いたシリアスな作品でも嘘を混ぜてリアルな物語をつくる。リーマン・ブラザーズをモデルにした『マージン・コール (Margin Call)』はハリウッド・ユダヤ人が仕組んだプロパガンダ映画であった。豪華な出演人を揃えたが、いまひとつ日本ではヒットせず知名度が低い。この映画 はウォール・ストリートの投資銀行が没落に瀕する物語なのだが、サブリミナル効果を盛り込んだ作品となっている。主人公のサム・ロジャースを演じるのが名 優ケヴィン・スペイシー(Kevin Spacey)で、彼は見るからに中流階級の白人でブルックリンかシカゴのユダヤ人を連想させるような言動をとらない。ウォール・ストリートの証券・金融 業界を描いているのに、ユダヤ人のキャラクター設定をしないのだ。
さらにサムの上司にはジャード・コーエン(Jared Cohen)がいて、この名前ではユダヤ人というのが直ぐ分かる。「コーエン」というのはユダヤ教徒の司祭に多い名前である。ところがこのキャラクターを 演じるのはオーストラリア出身の人気俳優サイモン・ベイカー(Simon Baker)」である。金髪の二枚目俳優だ。観客だって「えぇー、嘘みたい」とつぶやきたくなるだろう。会社の最高責任者(CEO)ジョン・チュルド役に は、英国の名優ジェレミー・アイアンズ(Jeremy Irons)を登用している。彼は顧客に損をさせても不良資産を処分して会社を救う策を企む。リスク・マネージャーサラ・ロバートソンを演じるのはデミ・ ムーア(Demi Moore)である。みなユダヤ人らしく見えない。そして腹立たしいのは、主人公のサムが会社を救ったが良心の呵責に耐えかねて会社を辞めると言い出す。 観客は「そんな良心的ユダヤ人なんか観たくないぞ、いいかげんにしろ!」とヤジを飛ばしたくなるだろう。
これシリアス・ドラマのはず だったよな? 米国社会に大打撃を与えたリーマン・ブラザースをモデルにした映画じゃなかったのか? こんな疑問は言うだけ無駄。もしも映画制作者が、あくどい真似をしても平然としているユダヤ人俳優を用いて、ふてぶてしいシーンを見せれば、観客もリアル な世界を覗いた気分になって納得するだろう。現実のリーマン・ブラザーズCEOリチャード・ファルド(Richard Fuld)を知っているアメリカ人なら、こんな映画馬鹿らしくて観ることが出来ない。ウォール街にとぐろを巻く、強欲で冷酷なユダヤ人を描かぬプロパガン ダ映画を、いい年をした大人の観客が金を払って観に来るのか? しかし、ユダヤ人の映画会社が民族の裏切り者になるはずはないから、これからも嘘の現実を「リアル」と呼ぶ作品が上映されるであろう。
朝鮮人が力を持つメディア界
日本でも朝鮮人が日本のメディアに深刻な影響力を行使している。悪名高いソフト・バンクのCMを観れば分かる。白戸次郎が犬であり、 日本人の女房との間には黒人の息子がいる設定だ。朝鮮人がなぶり殺して鍋に入れる犬を日本人の父親にしているのだ。朝鮮人送還を行った白洲次郎を憎む孫正 義の怨念はすさまじい。もし犬と朝鮮人女との間にできた息子が黒人というCMをつくったら、間違いなく韓国で例の噴火が起こるだろう。しかも、祖母役の若 尾文子の再婚相手には、朝鮮系俳優松田翔太というハンサム青年を登用するのだ。朝鮮人は二枚目で魅力的な人物であ、といった刷り込みを日本人に対して行っ ている。松田ではなく、孫正義が出演すればいいんじゃないか。芸能界も朝鮮人に支配されて日本人への侮辱が横行している。日本人の藝人は沈黙するしかな い。
ユダヤ人と朝鮮人(それに支那人)は似ている。多民族に寄生して金儲けをする一方で、被害者面をして差別を訴える。ゼニが貯まっ たらメディアや政界、官界に触手を伸ばして、宿主民族を支配しようとするのだ。もとが卑しい身分だから恥を考えずに行動できるところが強みである。宿主を 支配するには暴力を用いてはならぬ。まづその精神を攻撃して麻痺させた後、一気に牛耳るのが味噌。どんな巨体の男でもその脳を掴めば自由に動かせるのだ。 現代の大衆社会ではメディアを外人に握られたら、もう民衆を正常に保つことは非常に困難となる。愛国者は右翼とか差別主義者の烙印を一方的に押されて、社 会の片隅に押し流されてしまうのだ。このブログだって、いつ閉鎖に追い込まれてもおかしくないのである。
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