無敵の太陽
主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。
2014年12月
グローバリストの奴隷育成
文部科学省の中央教育審議会で子供に英語教育を施す環境作りを議論しているそうだ。(『日本の議論』「英語」は本当に必要なのか / 産経新聞<電子版> 2014年12月20日) 平成28年度にも改定される新学習指導要領では、小学生高学年から英語が科目として導入され るんだって。高校生には英語で討論や交渉力を高めるような教育方針にするという。まったく役人ってのは、どうして余計なことだけでなく、邪魔な改定をする のだろう? 小学生に英語教育など不必要だし、他の教科の時間を削るから有害である。どうせ現場の教師はてんてこまいになって、やる気のない子供は無理強いされてふく れっ面するだけだ。多少興味を示す子供だって、たかが数時間の授業だから挨拶程度でおしまい。すぐペラペラ喋れると期待した子供は授業に失望するだろう。 かくして英語の授業はお遊戯の時間となって、子供の学力はみるみる低下するだけ。したり顔のお役人様にいい英語を教えましょう。
Bloody fool, arsehole ! (アホんだら)
文部官僚や学校教師は立場上の損得勘定をしているから脇に寄せといて、肝心の子供はどのような意見をもっているのか。ベネッセが6200人にアンケート した調査によれば、中高校生の90パーセントが仕事で英語を使うようになる、と予測していることが分かった。テレビや雑誌、学校などで英語の必要性が宣伝 されているから当然だろう。しかし、「自分自身が英語を使うイメージがあるか」との問いに対しては、中学生44パーセント、高校生46パーセントが「ほと んどない」と答えたそうだ。具体的な仕事に就いていない生徒に、切迫した現実的必要性はないだろう。
ところが、英語教育を推進したい のは財界だ。経団連からやって来た三宅龍哉委員は、海外に社員を派遣するときに企業が英語教育をせねばならぬ、と不満の意見を述べた。要は企業が英語教育 費を負担することになるから、学校の方(税立施設)で費用と時間を持ってくれ、と要求しているのだ。虫のいい提案だろう。
もっとけし からんのは、元入試センター教授の小野博・福岡大学客員教授だ。小野氏は「社会情勢の変化により日本企業のアジア進出が更に拡大したり、逆に移民を受け入 れるなど、今後日本社会は変化を余儀なくされる可能性が高い。英語は必ず必要になる」と断言したそうだ。こういう馬鹿が教授になっているのだから、いかに 大学が堕落しているか分かるだろう。イギリス人が日本に移住してくるわけがなく、おもに英語圏のアジア人を想定しているのだろう。たとえば、フィリピン人 のためにどうして我が国の子供が英語を勉強せねばならぬのか。フィリピン人が移民せぬよう防ぐことの方がよっぽど重要である。「社会情勢の変化」という “まやかし”の言葉を用いるところなど、小野氏には如何にも詐欺師的匂いがする。まるで彼は国境を破壊してアジア人を引き入れようとするグローバリストの 手先みたいだ。
小野氏のような腰巾着を登用する財界と役人は、日本人労働者の生活水準をアジア人並(つまり奴隷状態)に下げて、低賃 金でこき使いたいだけだろう。そのために小学生から低賃金労働者にすべく、税金を使って調教しようとする肚は見え透いている。国際企業にとりアジアはリス クが高い。社会インフラが貧弱だったり、政情不安で暴動を気にせねばならない。せっかくの投資がパーになったら大変だ。安全で便利な日本で製品を作りた い。日本にインドやシナ、フィリピンから安い労働者を輸入して、利益を最大限まで上げたい。その時、日本人労働者がアジア人と共同して作業できるために、 共通語たる簡単な英語が必要なだけだろう。その英語だって簡単な単語を並べて、お互いに推理しながらの意思疎通だ。
じゃあ聞くが、英 語を社員に強要する社長や重役たちは本当に英語で会話しているのか? そんなに英語力が重要なら、英米の有能人物を雇えばよいだろう。そんなこと言ったらお偉方は沈黙。つまり、自分たちは“日本人社員”に向かって、“日本 語”で言いたい放題の指図をしたいが、社員どもは雑談でさえ英語を使えと命令するのだ。ユニクロや楽天の社員はどう思っているのだろうか? 日本語では傲慢な態度の重役らは、英米の白人社員の前だと、そのお粗末な英語を披露せねばならぬから、態度が急変して作り笑顔になることがよくある。彼ら は同期の重役仲間とは、日本語で会話しながら“のびのびと”ゴルフを楽しむ。ゴルフ場が会議室。英語で雑談などしない。二極分化している日本では、上流階 級の子弟は、進学校で英才教育を受けながら日本語で会話をし、低能教育しか受けていない低賃金労働者は、社会の底辺から抜け出せぬ人生を送り、職場ではブ ロークン英語を強要される仕組みが出来上がる。
怨みのこもった英語教育熱
日本人が「英語だ、英会話だ」と騒ぐ原因は、多くの国民に学校での英語教育に対する怨みがあるからだろう。十年間くらい勉強したのに、イギリス人やアメ リカ人の前でちっとも流暢に喋れないどころか、外人の話を聴き取ることすらできない。そうした若者が親になったら、自分の子供だけは違った教育で英語を流 暢に話せるようにさせたい、などと決意して欧米系のインターナショナル学校に入れたりするのだ。勉強が出来なかった親に限って、お金で環境さえ整えれば我 が子は自分と違った秀才になると思っていやがる。ばぁーか。蛙の子はカエルだ。日本では英語が喋れるくらいで、自慢になり仕事がもらえる。日テレで英語を 披露していた関根麻里という藝人(何の藝かな?)は、米国なら単なる小娘だからテレビに出られない。オヤジの関根勤のほうがよっぽど外国で通用する。だっ てカマキリ姿でギャグをする藝人の方がアメリカ人にとって面白い。(若きラビット関根の十八番。ただし娘の番組は一度しか観ていないので詳しく語れない。 ゴメンなさい。) つまり、子供にはまづ中身のある教育を施し、立派な日本人に育てることが優先事項である。
元NHKワシントン特派 員だった日高義樹の英語なんて酷かった。テレビ東京のレギュラー番組で、ヘンリー・キッシンジャーにインタヴューしたとき、日高氏は、たんに自分の英語を 自慢したいがために、通訳を附けずに対談していた。もともと教養がない日高氏が、不慣れな英語を使って鋭い質問など出来るはずがない。台本通りの質問を得 意げに吐いていたから、視聴者はつまらないし、どうでもよくなってシラケてしまう。日高のアホは英語より先に政治や歴史を勉強しろ。むかしソニーが輝いて いた頃、盛田昭夫会長の話は傾聴に値するものだった。彼の英語は拙(つたな)くても、思わず聞きたくなるようなモノだった。盛田氏の個人的魅力があったか らかも知れないが、彼は米国で信念と情熱を込めて中身のある議論を交わしていたのだ。対話しているアメリカ人は、極東アジアから来た英語を喋る九官鳥では なく、背骨の通った日本の国士を相手にしていたのである。
つい最近、エアー・バッグ製造のタカタが、缺陷(けっかん)製品のリコール 問題で社長が米国の公聴会に召喚され弁明していた。しかし、彼の英語はどちらかと言えば下手で、筆者は大企業の社長でもこの程度かと思った。(詳しく言え ば、話す英語にリズムや強弱がないのだ) 大切なのは弁明の中身であり、誠意を示す表現なり態度である。見え透いた嘘を流暢な英語で語っても、アメリカ人 は感心しないのだ。個人的魅力がない日本人がいくら英語を喋っても、そのへんのパンク野郎か乞食と同じだろう。日本人は人格形成を蔑ろにして、簡単な英語 で空虚な会話を習得しようとしている。せっかく英語を習得したのに、アメリカ人から「へぇー、英語上手ね。あんた香港からの支那人?」て尋ねられたら、日 本人は「何を無礼者」と怒るだろう。語学より大切なことがあるのだ。
英語学習より英国史が先
数学教育についても言いたいことがあるが、今回は語学教育に限って述べたい。日本人が英語を勉強するときには、何らかの目的があってのことだろう。子供 はいったい英語で何がしたいのかがはっきりしないまま、学校で英語を詰め込まれるのだから、英語嫌いになって当然だ。日本の公教育は子供に勉強が嫌いにな るようプログラムされている。「そんなこととないぞ。こっちとら、一生懸命頑張ってるんだ」と教師は反論するだろう。でも、スクールがギリシア語の「スコ ラ(σχλη)」から由来することは周知の通り。つまりギリシア人は日常の雑用や仕事を奴隷にやらせて暇だから、みんなで集まって宇宙や地球の構造や摂理 を探求するといった趣味に興じていたのだ。だから、幾何学や哲学、論理学といった学問をあれこれ討論しても、定期テストや入試なんか持ち出さなかった。も ちろん最低限の基礎知識は必要だ。まったくの素人では議論にならない。ただ、船大工なら親方が新入り職人をテストすることはあっても、プラトンやソクラテ スが哲学の議論で仲間に学期末試験なんて課さない。謂わば「オタク族」の集まりにそんなの要らないのだ。しかし、現在の学校では、子供を将来の労働者にす べく、効率的に職業訓練を施したいから、実力試験を課して達成度を測りたいのである。食肉にされるブロイラーが餌と抗生物質で効率的に飼育されるのと同じ 要領。家庭で日本語を話している小学生や中学生が、いきなり外国語を強要され、試験でランクづけされたあげく、もっと勉強しろと命令されたら楽しいはずが ない。一週間にたった数時間の授業で文法(syntax/grammar)や発音が全く違う言語を習得するなど無理。苦痛のみが増幅するだけだ。一方、 ヨーロッパ人にとって英語は姉妹語だから簡単(gravy)である。
ここで、英国の有名な偉人ギルバート・K.・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton)を紹介したい。筆者も大好きなイギリス人批評家で、日本でも人気の高い碩学の知識人である。チェスタトンは『デイリー・ニューズ』 紙に『歴史VS.歴史家』という文章を掲載した。若いときに彼は、「学校に通っている児童には歴史のみを教えるべし」と喝破した。 (G.K.Chesterton, History Versus the Historians, Daily News, 25 July, 1908, in Lunacy and Letters, ed. by Dorothy Collins, Sheed & Ward, London, 1958, pp.128-129) チェスタトンが暴論に思えるような意見を述べたのは、当時の古典科目ではラテン語の習得は必修であったからだ。そしてラテン語の教授方法に苦言を呈したの である。「少年は単にラテン語を学ぶだけではラテン語の重要性は分からぬ。しかし、ラテン人の歴史を学ぶことで、それが分かるであろう。」とチェスタトン は提案したのだ。(ラテン人とはローマ人を指す。)
さすがチェスタトンの炯眼(けいがん)は鋭い。彼が言うには、アウステルリッツ (Austerlit)という地名を地理の授業だけで覚えることはナンセンスだ。単なる計算を学ぶ算数の授業だって同じこと。しかし、フランス皇帝ナポレ オン1世が、アウステルリッツでオーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)とロシア皇帝アレクサンドル1世を相手に干戈(かんか)を交 えた一大決戦(Bataille d'Austerlitz)となれば話が違う。子供だって大物武将三人が睨み合った三帝会戦(Dreikaiserschlacht)なら、教師の話を手 に汗握って聞き入るだろう。日本の子供も桶狭間の戦いや川中島の合戦の話は面白い。弱小藩の織田信長が“海道一の弓取り”今川義元の首をとった逆転劇はス リル満載。智将の上杉謙信と猛将の武田信玄がぶつかった戦の講談は大人だって楽しい。砲兵出身の名将ナポレオンが計算をしたり、地図を見ながら策を練る姿 を聞けば、子供たちも地理と算数に興味が沸くだろう。
チェスタトンは一件無味乾燥な科目でも、その背景を教えてもらえば、子供が“知的好奇心(intellectual curiosity)”が芽生えることを指摘しているのだ。幾何学が嫌いな生徒でも、十字軍のロマンティクな物語やサラセン人の世界を知れば、そのへんて こな数字の羅列に興味を示すかも知れない。(ギリシアの「幾何学Algebra」は中東アジアを経由して西洋に導入されたから。) 英語では「何が何だか 分からぬ(It's Greek to me.)」と表現して、ギリシア語などイギリス人には「ちんぷんかんぷん」だろうが、ギリシア人の文化藝術を知れば、その難解な言語を学びたくなる。チェ スタトンは、「歴史はすべての学問を、たとえ人類学でも人間臭くする」と言う。「人類学」を人間に親しみのある学問にするとは、いかにもチェスタトンらし いヒューモアだ。
日本人が外国語習得について考えてみれば、おかしな事に気づくだろう。朝鮮を統治していたのに朝鮮語を喋れる半島在 住の日本人(内地人)がほとんどいなかった。朝鮮総督府の役人でさえ、朝鮮語を学ぼうとする者が滅多にいなかったのだ。理由は簡単。馬鹿らしいから。朝鮮 人なんて不潔で下劣な民族の言葉をどうして一流国の日本人が学ぶ必要があるのか。初めて見る糞尿だらけの極貧国に、日本人が憧れるような文化はない。朝鮮 に渡った日本の知識人だって、儒教を朝鮮人から学ぼうとは思わなかった。小便さえ自分でしなかった両班の姿を見れば笑ってしまうだろう。日本人にはアカン タレと乞食が何を話そうが興味ない。ロシア語なら陸軍将兵も必要を感じたから学ぶ者がいたし、ドイツ語は尊敬するドイツ陸軍とドイツ文化の言葉だから、強 制されなくても日本人は進んで学んだのである。現在、支那語に人気がないのは、支那人を見れは納得できる。だって、支那人と話して嬉しいのか?
我々日本人が英語を学ぶときは、まづ英国史を勉強すべきだ。特殊な職業を目指す子共は別だが、語学能力を本業とせぬ一般の日本人は、イギリス人が如何な る歴史を送ったのか、どんな功績を残したのか、彼らはなぜ大帝国を築くことが出来たのか、などを知るべきだ。そして興味をそそられた者が、イギリス人を自 分で理解するために英語を専攻すべきだ。大学入試のためだけの英語とは違い、そこにはイギリス人が感じた事を彼らの言葉で自分も感じることができる喜びが ある。こうした語学勉強なら一生続けられるだろう。「ハロー、レッツ・スピーク・イングリッシュ」なんて謳う幼児英会話教室は要らない。
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激減する遺伝形質
アメリカやヨーロッパでは非西歐世界からの移民が大問題となっている。日本でも朝鮮人や支那人といったアジア人がが合法・非合法的手段で流れ込み、表 だって反対できない国民の多くが迷惑しているのだ。帝国主義時代の前科に悩む欧米では、第三世界から移民や難民を受け入れるのが当然の義務とする議論が根 強くある。今では多文化・多民族共生教育が大々的に実施され、ヨーロッパの伝統文化は異民族が持ち込む異質な風習・思想に圧迫されるし、イスラム教徒が固 執する宗教戒律は同化政策を完全に拒絶しているのだ。そのうえ、移民の子供たちが地元の西歐白人と結婚するようになれば、生まれてきた混血児は中途半端な 白人になる。とくに褐色や黒色の移民だと、白人の遺伝的形質が大量に損なわれてしまう。アフリカや中東アジアからやって来て、地元の白色西洋人を憎む有色 移民は、ホスト国の住民に殺意さえ抱くことがある。しかし、彼らが自殺や逮捕を覚悟して、銃や刃物でヨーロッパ人を襲撃する必要はない。白人を殺すのに武 器は要らぬ。有色人が白人と交わればいい。混血児が増えていくが、その容姿は有色人に近づく。ヨーロッパ人にとっては悪夢だ。
異人種 との混淆による民族の変化は、科学とは縁遠い一般人にも理解できる。芸能界の情報なら多くの民衆が関心を持つので、異人種混淆の恐怖を目にしているのだ。 口に出して言いづらくても、心の底では納得していることはいくらでもあるだろう。たとえば、スーパー・モデルのシンディー・クロフォード(Cindy Crawford)とハイディ・クルム(Heidi Klum)の子供は、夫による人種的変質が顕著だ。
(左:母シンディー/右息子プレスリー)
スーパー・モデルのシンディー・クロフォードといえば、1990年代に活躍した世界的人気を誇った美女だが、ビジネスマンのランディ・ガーバー氏と結婚 し、二人の子供をもうけた。息子のプレスリー(Presley Walker)と娘のカイア(Kaia Jordan)は、母親の美を受け継ぎマスコミも追いかけ回すほどである。一方、黒人ミュージシャンのシール(Seal)と結婚したハイディ・クルムは、 息子二人ヘンリー(Henry)とヨハン(Johan)と娘のルウ(Lou)をもうけた。
父親譲りのアフリカ人的容姿を持つ子供三人 は、とてもあの美しいファッション・モデルを母にもつとは思えない。故郷ドイツに居るかもしれないハイディの両親や親戚は、どんな感想を持っているのだろ うか。戦後の日本では赤線の娼婦(パンパン)らが、黒人兵との子供を妊娠してしまったが、中絶するか、施設に預けるしかなかった。場合によっては見捨てた り、殺してしまうことさえあったのだ。エリザベス・サンダースホームで黒人混血児を世話した沢田美喜の話は有名である。混血児を抱えた娼婦は、実家の両親 を頼るわけにもいかないし、かといって自分で育てるにしても世間の目が厳しかった。当時の日本で黒人の子供なら、どんな素性かすぐ察しがついたものだ。過 去は隠せても、容姿は隠せない。混血児だってある程度制限のある人生を送ることになるだろう。
(左母シンディー/右娘カイア)
人気モデルで華やかな人生を送ったクルム氏も、子供が同じようなスポットライトを浴びるとは考えないだろう。たとえ、混血児の息子や娘が藝人やモデルに 成るとしても、「黒人」のカテゴリーで活躍することになるはずだ。有名ハリウッド女優のハル・ベリーも母親は、金髪の白人女性だが、ハル自身はは黒人と称 している。オバマ大統領も黒人と自称している。こうした混血児は、白人だと宣言すれば、白人社会からは笑われるし、黒人社会からは裏切り者として仲間はず れにされてしまう。異質な民族同士の子供は悲惨である。たとえば、オーストラリア出身の女優ディチェン・ラッチマン(Dichen Lachman)は、現在は米国で活動しているが、父がドイツ系のオーストラリア人だが、母親がチベット系ネパール人という珍しい混血児である。彼女の顔 を見るとどこの国に属しているのか分からなくなる。書類上の国籍と肉体のすり合わせが難しいだろう。
(左写真クルム一家/右写真クロフォードの家族)
日 本人はまだ本格的な移民問題に直面していないが、アジア人移民の子が日本人と結婚するケースが増えたらどうするのか。いままでは日本人がアイデンティ ティー・クライシスに陥ることはほとんどなかった。両親とも日本人だったので、わざわざ自分は何人かを考えることはなかった。しかし、これからは朝鮮人や 支那人、フィリピン人との混血児が激増して、日本人の自己識別(identity)が社会問題となるだろう。
(左:ディチェン・ラッチマン/右:ハル・ベリーと母)
遺伝子と移民の政治学
アフリカやアジアからの移民に対して、異文化の衝突を理由に反対したり、宗教対立から異議を唱えたりする知識人は結構いるが、遺伝子の面から移民排斥を 訴える学者は滅多にいない。ところが、第三世界からの有色移民に警告を発する学者がいるのだ。オーストラリアの社会行動学者フランク・ソルター (Frank K. Salter)は、元マックス・プランク研究所(Max Planck Institute for Behavioal Physiology)の研究者で、民俗学や心理学、動物学を応用し政治や社会について発言している。ほとんどの学者が移民問題を扱うとき、移民が持ち込 む遺伝子が如何にホスト(受入)国の民族に影響を及ぼすか、という点は避けている。話題になった彼の著作『遺伝利害論(On Genetic Interests)』をここで簡単に紹介したい。
イタリアに遺伝子学と人類学を研究しているルイジ・ルッカ・カヴァリ・スフォル ツッア(Luig Luca Cavalli-Sforza)という学者がいて、世界各地の民族がもつ遺伝子を取りあげ、各民族がどれくらい遺伝子的に離れているのかを研究した。彼の データを基にしてソルター氏は、外国からの異人種・異民族がホスト国の民族にどのような遺伝子上の変化をもたらすかを研究してみた。また、人口動向と遺伝 を研究しているヘンリー・ハーペンディング(Henry Harpending)の公式を用いて、ソルター氏は人種間の遺伝子的距離を測定している。そこで、イングランドのケースを考えてみよう。
(左:デイン人男性モデル/右:デイン人女性モデル)
イギリス人同士の子供なら、両親や祖父母の遺伝子をそのまま受け継ぐから、イギリス人の遺伝子ロス(損失)は起こらない。では、ブリテンのイギリス人1 万人を取り除いて、代わりにデンマークから白色デイン人1万人を入植させてみる。先ほどの公式を使って計算してみると、デイン人の移民により遺伝子上 167名のイギリス人が失われたことになる。もともとイギリス人とデイン人は遺伝子的にとても近いので、イギリス人の肉体には大きな変化が見られない。し かし、デイン人とは非常に違うアフリカのバントゥー(Bantu)族ではどうなるのか。先ほどと同じくバントゥー族1万人を入国させてみる。すると 10,854名のイギリス人が失われる結果となる。(Frank Salter , On Genetic Interests, Transaction Publishers, 2007, pp.65-66) 驚きの数字だ。しかし、入植させた数より多くなってしまうのは、遺伝子レベルで考えたからである。バントゥー族とは、中央アフリカ一帯の広範な地域に住む 地元民族である。まあ、サハラ以南のアフリカ黒人と考えてよい。彼らはいかにも黒い原始人みたいな人種である。経験上の考察からしても、イギリス人の容姿 が劇的に変化することは、容易に推測できるのではないか。
(左バントゥー母子/右バントゥー族)
では、日本人1万人を我が国から取り除いて、バントゥー人1万人を代わりに入れてみる。実感が沸かないが、仮定の話として計算してみる。カヴァリ・スホ ルツッアの調査データから、日本人とバントゥー族の遺伝子相違の係数は2361(ちなみにイギリス人とデイン人との係数はたった21で、イギリス人とバン トゥー族の係数は2288となる)であるから、かなり遺伝子的隔たりがあることが分かるだろう。こうしたアフリカ移民の結果、本来存在したはずの日本人 11,057名が失われてしまうのだ。じつに恐ろしい。アフリカ人が格好いいと思う日本人もいるから、一概に否定できないが、黒人混血児が日本社会で受け 入れ難いのは予測できるだろう。黒人と結婚する日本人はよく考えろ。
遺伝子は相続遺産
米国で白人と黒人との結婚が忌み嫌われるのは、混血児はほとんど白人の遺伝形質を持たなくなるからだ。黒人の遺伝子の方が優性となり、劣性となった白人 遺伝子は体内の奥に押し込まれてしまうのだ。オバマ大統領を日本人が見たら、占領軍の黒人兵を思い出してしまう。もしオバマが無名の一般人だったら、日本 人だってオバマを黒人に分類してしまうだろう。もし、白人の両親が娘の産んだ混血児を見たら、嬉しいはずの孫の誕生を喜べない。たしかに、自分たちの遺伝 子が、孫の体内にあるはずなのに、素直に受け入れられないのだ。祖父母の遺伝子が黒人によって抹殺されたかのように感じてしまう。では、黒人との異人種間 結婚による子孫がどうなるか考えてみたい。
もし、白人と黒人が各世代で結婚を繰り返し、それぞれが3人の子供をつくると仮定しよう。 (日本人と黒人の場合も同様に考えていただきたい。)自分の祖父が黒人女性と結婚し、3人の子供をつくったとする。するとその混血児は半分日本人 (0.5)の遺伝子を持ち、のこり半分が黒人の遺伝子となる。そしてこの混血児がまた、それぞれ黒人と結婚したとしよう。たとえば、自分の父は混血児で、 母が黒人なら、4分の1(0.25)が日本人の遺伝で4分の3(0.75)が黒人の遺伝となるだろう。自分の兄弟二人も同じである。また、おじ或いはおば も混血児だから、黒人配偶者によるいとこ6人は、自分と同じ比率の遺伝子をもった子供である。そして自分の子供3人がまた黒人と結婚し、子供を3人つくっ たとしよう。(二人の兄弟も同様に黒人と結婚する。)すると子供は8分の1(0.125)しか日本人の遺伝子をもたず、残り8分の7(0.875)は黒人 の遺伝子だ。祖父から見れば、ひ孫はほとんど黒人だ。これを単純に計算してみる。
白人祖父と黒人祖母 白人遺伝子 黒人遺伝子
第一世代(両親など子供3人) (0.5 X 3 = 0.15) (0.5 X 3 = 0.15)
第二世代(自分など孫9人) (0.25 X 9 = 2.25) (0.75 X 9 = 6.75)
第三世代(子供つまり曾孫27人) (0.125 X 27 = 3.375) (0.875 X 27 = 23.625)
白人曾祖父がひ孫27人を見たとき、自己の遺伝子は3ないし4人分しかない。外見からして白人とは思えない、ほぼ完璧な黒人である。一方、黒人の曾祖母 からすると、黒い肌のひ孫27人を見ても何ら違和感がない。自分と同族の遺伝子が23ないし24人分もあるのだ。もし、これが日本で起こったらどうなるの か。日本人が各世代でアジア人と結婚して子供をつくったら、ひ孫の世代はアジア大陸の民衆とそっくりの日本人になってしまうだろう。たとえば、支那人と日 本人との間に日支混血児が生まれる。その子が朝鮮人と子供をもうけて、その子がフィリピン人との間に子供をつくったら、ひ孫はとても日本人とは見えない。 東アジア共同体の提唱者は何とも思わないだろうが、普通の日本人なら恐怖の戦慄が背中に走るだろう。目覚めたらアジア人に囲まれているような悪夢が、やが て現実となるのだ。振り向けば祖国が外国になっていた、では冗談じゃない。
最近はアジア人顔の子供をよく見かける。片言かなまりのあ る日本語を話す親の側に、流暢な日本語を喋る子供がいたりする。たまに、黒人の孫を連れた老人を見かけると、何となく気の毒に思えてしまう。日本人だけで 育った祖父母は、幼稚園で他の日本人園児と遊ぶ孫を見ると、ふと涙がこぼれてしまうかも知れない。もちろん歓喜の涙ではなく、不憫さを感じての涙である。 無邪気に笑う孫やひ孫の顔が、日本人ではなくアジア人なのだから、他の子供と比べないよう自戒すればするほど、心に潜む哀しみが疼(うず)くのだ。余生短 い祖父母は孫のために、土地や証券、骨董品などの財産を残してあげようとするだろう。しかし、自分の遺伝子だけはアジア人遺伝子が駆逐している。家系の終 焉が自分の代で見えるなんて、あまりにも悲しいで話ではないか。
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アメリカやヨーロッパでは非西歐世界からの移民が大問題となっている。日本でも朝鮮人や支那人といったアジア人がが合法・非合法的手段で流れ込み、表 だって反対できない国民の多くが迷惑しているのだ。帝国主義時代の前科に悩む欧米では、第三世界から移民や難民を受け入れるのが当然の義務とする議論が根 強くある。今では多文化・多民族共生教育が大々的に実施され、ヨーロッパの伝統文化は異民族が持ち込む異質な風習・思想に圧迫されるし、イスラム教徒が固 執する宗教戒律は同化政策を完全に拒絶しているのだ。そのうえ、移民の子供たちが地元の西歐白人と結婚するようになれば、生まれてきた混血児は中途半端な 白人になる。とくに褐色や黒色の移民だと、白人の遺伝的形質が大量に損なわれてしまう。アフリカや中東アジアからやって来て、地元の白色西洋人を憎む有色 移民は、ホスト国の住民に殺意さえ抱くことがある。しかし、彼らが自殺や逮捕を覚悟して、銃や刃物でヨーロッパ人を襲撃する必要はない。白人を殺すのに武 器は要らぬ。有色人が白人と交わればいい。混血児が増えていくが、その容姿は有色人に近づく。ヨーロッパ人にとっては悪夢だ。
異人種 との混淆による民族の変化は、科学とは縁遠い一般人にも理解できる。芸能界の情報なら多くの民衆が関心を持つので、異人種混淆の恐怖を目にしているのだ。 口に出して言いづらくても、心の底では納得していることはいくらでもあるだろう。たとえば、スーパー・モデルのシンディー・クロフォード(Cindy Crawford)とハイディ・クルム(Heidi Klum)の子供は、夫による人種的変質が顕著だ。
(左:母シンディー/右息子プレスリー)
スーパー・モデルのシンディー・クロフォードといえば、1990年代に活躍した世界的人気を誇った美女だが、ビジネスマンのランディ・ガーバー氏と結婚 し、二人の子供をもうけた。息子のプレスリー(Presley Walker)と娘のカイア(Kaia Jordan)は、母親の美を受け継ぎマスコミも追いかけ回すほどである。一方、黒人ミュージシャンのシール(Seal)と結婚したハイディ・クルムは、 息子二人ヘンリー(Henry)とヨハン(Johan)と娘のルウ(Lou)をもうけた。
父親譲りのアフリカ人的容姿を持つ子供三人 は、とてもあの美しいファッション・モデルを母にもつとは思えない。故郷ドイツに居るかもしれないハイディの両親や親戚は、どんな感想を持っているのだろ うか。戦後の日本では赤線の娼婦(パンパン)らが、黒人兵との子供を妊娠してしまったが、中絶するか、施設に預けるしかなかった。場合によっては見捨てた り、殺してしまうことさえあったのだ。エリザベス・サンダースホームで黒人混血児を世話した沢田美喜の話は有名である。混血児を抱えた娼婦は、実家の両親 を頼るわけにもいかないし、かといって自分で育てるにしても世間の目が厳しかった。当時の日本で黒人の子供なら、どんな素性かすぐ察しがついたものだ。過 去は隠せても、容姿は隠せない。混血児だってある程度制限のある人生を送ることになるだろう。
(左母シンディー/右娘カイア)
人気モデルで華やかな人生を送ったクルム氏も、子供が同じようなスポットライトを浴びるとは考えないだろう。たとえ、混血児の息子や娘が藝人やモデルに 成るとしても、「黒人」のカテゴリーで活躍することになるはずだ。有名ハリウッド女優のハル・ベリーも母親は、金髪の白人女性だが、ハル自身はは黒人と称 している。オバマ大統領も黒人と自称している。こうした混血児は、白人だと宣言すれば、白人社会からは笑われるし、黒人社会からは裏切り者として仲間はず れにされてしまう。異質な民族同士の子供は悲惨である。たとえば、オーストラリア出身の女優ディチェン・ラッチマン(Dichen Lachman)は、現在は米国で活動しているが、父がドイツ系のオーストラリア人だが、母親がチベット系ネパール人という珍しい混血児である。彼女の顔 を見るとどこの国に属しているのか分からなくなる。書類上の国籍と肉体のすり合わせが難しいだろう。
(左写真クルム一家/右写真クロフォードの家族)
日 本人はまだ本格的な移民問題に直面していないが、アジア人移民の子が日本人と結婚するケースが増えたらどうするのか。いままでは日本人がアイデンティ ティー・クライシスに陥ることはほとんどなかった。両親とも日本人だったので、わざわざ自分は何人かを考えることはなかった。しかし、これからは朝鮮人や 支那人、フィリピン人との混血児が激増して、日本人の自己識別(identity)が社会問題となるだろう。
(左:ディチェン・ラッチマン/右:ハル・ベリーと母)
遺伝子と移民の政治学
アフリカやアジアからの移民に対して、異文化の衝突を理由に反対したり、宗教対立から異議を唱えたりする知識人は結構いるが、遺伝子の面から移民排斥を 訴える学者は滅多にいない。ところが、第三世界からの有色移民に警告を発する学者がいるのだ。オーストラリアの社会行動学者フランク・ソルター (Frank K. Salter)は、元マックス・プランク研究所(Max Planck Institute for Behavioal Physiology)の研究者で、民俗学や心理学、動物学を応用し政治や社会について発言している。ほとんどの学者が移民問題を扱うとき、移民が持ち込 む遺伝子が如何にホスト(受入)国の民族に影響を及ぼすか、という点は避けている。話題になった彼の著作『遺伝利害論(On Genetic Interests)』をここで簡単に紹介したい。
イタリアに遺伝子学と人類学を研究しているルイジ・ルッカ・カヴァリ・スフォル ツッア(Luig Luca Cavalli-Sforza)という学者がいて、世界各地の民族がもつ遺伝子を取りあげ、各民族がどれくらい遺伝子的に離れているのかを研究した。彼の データを基にしてソルター氏は、外国からの異人種・異民族がホスト国の民族にどのような遺伝子上の変化をもたらすかを研究してみた。また、人口動向と遺伝 を研究しているヘンリー・ハーペンディング(Henry Harpending)の公式を用いて、ソルター氏は人種間の遺伝子的距離を測定している。そこで、イングランドのケースを考えてみよう。
(左:デイン人男性モデル/右:デイン人女性モデル)
イギリス人同士の子供なら、両親や祖父母の遺伝子をそのまま受け継ぐから、イギリス人の遺伝子ロス(損失)は起こらない。では、ブリテンのイギリス人1 万人を取り除いて、代わりにデンマークから白色デイン人1万人を入植させてみる。先ほどの公式を使って計算してみると、デイン人の移民により遺伝子上 167名のイギリス人が失われたことになる。もともとイギリス人とデイン人は遺伝子的にとても近いので、イギリス人の肉体には大きな変化が見られない。し かし、デイン人とは非常に違うアフリカのバントゥー(Bantu)族ではどうなるのか。先ほどと同じくバントゥー族1万人を入国させてみる。すると 10,854名のイギリス人が失われる結果となる。(Frank Salter , On Genetic Interests, Transaction Publishers, 2007, pp.65-66) 驚きの数字だ。しかし、入植させた数より多くなってしまうのは、遺伝子レベルで考えたからである。バントゥー族とは、中央アフリカ一帯の広範な地域に住む 地元民族である。まあ、サハラ以南のアフリカ黒人と考えてよい。彼らはいかにも黒い原始人みたいな人種である。経験上の考察からしても、イギリス人の容姿 が劇的に変化することは、容易に推測できるのではないか。
(左バントゥー母子/右バントゥー族)
では、日本人1万人を我が国から取り除いて、バントゥー人1万人を代わりに入れてみる。実感が沸かないが、仮定の話として計算してみる。カヴァリ・スホ ルツッアの調査データから、日本人とバントゥー族の遺伝子相違の係数は2361(ちなみにイギリス人とデイン人との係数はたった21で、イギリス人とバン トゥー族の係数は2288となる)であるから、かなり遺伝子的隔たりがあることが分かるだろう。こうしたアフリカ移民の結果、本来存在したはずの日本人 11,057名が失われてしまうのだ。じつに恐ろしい。アフリカ人が格好いいと思う日本人もいるから、一概に否定できないが、黒人混血児が日本社会で受け 入れ難いのは予測できるだろう。黒人と結婚する日本人はよく考えろ。
遺伝子は相続遺産
米国で白人と黒人との結婚が忌み嫌われるのは、混血児はほとんど白人の遺伝形質を持たなくなるからだ。黒人の遺伝子の方が優性となり、劣性となった白人 遺伝子は体内の奥に押し込まれてしまうのだ。オバマ大統領を日本人が見たら、占領軍の黒人兵を思い出してしまう。もしオバマが無名の一般人だったら、日本 人だってオバマを黒人に分類してしまうだろう。もし、白人の両親が娘の産んだ混血児を見たら、嬉しいはずの孫の誕生を喜べない。たしかに、自分たちの遺伝 子が、孫の体内にあるはずなのに、素直に受け入れられないのだ。祖父母の遺伝子が黒人によって抹殺されたかのように感じてしまう。では、黒人との異人種間 結婚による子孫がどうなるか考えてみたい。
もし、白人と黒人が各世代で結婚を繰り返し、それぞれが3人の子供をつくると仮定しよう。 (日本人と黒人の場合も同様に考えていただきたい。)自分の祖父が黒人女性と結婚し、3人の子供をつくったとする。するとその混血児は半分日本人 (0.5)の遺伝子を持ち、のこり半分が黒人の遺伝子となる。そしてこの混血児がまた、それぞれ黒人と結婚したとしよう。たとえば、自分の父は混血児で、 母が黒人なら、4分の1(0.25)が日本人の遺伝で4分の3(0.75)が黒人の遺伝となるだろう。自分の兄弟二人も同じである。また、おじ或いはおば も混血児だから、黒人配偶者によるいとこ6人は、自分と同じ比率の遺伝子をもった子供である。そして自分の子供3人がまた黒人と結婚し、子供を3人つくっ たとしよう。(二人の兄弟も同様に黒人と結婚する。)すると子供は8分の1(0.125)しか日本人の遺伝子をもたず、残り8分の7(0.875)は黒人 の遺伝子だ。祖父から見れば、ひ孫はほとんど黒人だ。これを単純に計算してみる。
白人祖父と黒人祖母 白人遺伝子 黒人遺伝子
第一世代(両親など子供3人) (0.5 X 3 = 0.15) (0.5 X 3 = 0.15)
第二世代(自分など孫9人) (0.25 X 9 = 2.25) (0.75 X 9 = 6.75)
第三世代(子供つまり曾孫27人) (0.125 X 27 = 3.375) (0.875 X 27 = 23.625)
白人曾祖父がひ孫27人を見たとき、自己の遺伝子は3ないし4人分しかない。外見からして白人とは思えない、ほぼ完璧な黒人である。一方、黒人の曾祖母 からすると、黒い肌のひ孫27人を見ても何ら違和感がない。自分と同族の遺伝子が23ないし24人分もあるのだ。もし、これが日本で起こったらどうなるの か。日本人が各世代でアジア人と結婚して子供をつくったら、ひ孫の世代はアジア大陸の民衆とそっくりの日本人になってしまうだろう。たとえば、支那人と日 本人との間に日支混血児が生まれる。その子が朝鮮人と子供をもうけて、その子がフィリピン人との間に子供をつくったら、ひ孫はとても日本人とは見えない。 東アジア共同体の提唱者は何とも思わないだろうが、普通の日本人なら恐怖の戦慄が背中に走るだろう。目覚めたらアジア人に囲まれているような悪夢が、やが て現実となるのだ。振り向けば祖国が外国になっていた、では冗談じゃない。
最近はアジア人顔の子供をよく見かける。片言かなまりのあ る日本語を話す親の側に、流暢な日本語を喋る子供がいたりする。たまに、黒人の孫を連れた老人を見かけると、何となく気の毒に思えてしまう。日本人だけで 育った祖父母は、幼稚園で他の日本人園児と遊ぶ孫を見ると、ふと涙がこぼれてしまうかも知れない。もちろん歓喜の涙ではなく、不憫さを感じての涙である。 無邪気に笑う孫やひ孫の顔が、日本人ではなくアジア人なのだから、他の子供と比べないよう自戒すればするほど、心に潜む哀しみが疼(うず)くのだ。余生短 い祖父母は孫のために、土地や証券、骨董品などの財産を残してあげようとするだろう。しかし、自分の遺伝子だけはアジア人遺伝子が駆逐している。家系の終 焉が自分の代で見えるなんて、あまりにも悲しいで話ではないか。
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人体実験でわかった人種の違い
(左/ダコタ・ジョンソン)
フランス革命の害毒を汲むマルクス主義によって、西歐世界が崩壊の危機にさらされた。保守思想の巨星エドマンド・バーク(Edmund Burke)が彗星の如く現れ、フランスに蔓延したペスト的過激思想を退治する嚆矢(こうし)となったことは有名な話。我が国でも遅まきながら、兇暴なマ ルキストから祖国を守る保守思想が、少しだけ蘇生してきた。日本の歴史を貶め、政治・経済のみならず文化までも根底から破壊しようとする、怨念に凝り固 まった左翼勢力は忌まわしい。日本の伝統と皇室を守ろうとする正常な国民は、そうした蝮(マムシ)の共産主義者に知的戦いを挑む。これに筆者は大賛成。し かし、悠久の歴史を誇る我が国の遺伝子は守らなくてもいいのか、と保守派知識人に問いたい。伝統文化を守ることには皆で一致するのだが、肝心の国民の肉体 は変質してもいいのか?日本の國體(こくたい/constitution)は、数千年の時間をかけて形成されたが、日本人が親子代々受け継いだ国土に、皇 室と共に暮らしてきたことで成り立つ。国民の遺伝子はどうでもよい問題なのか? これは我が国の保守思想家が避けている論点である。
西歐世界はヨーロッパ人、主にゲルマン人とケルト人などの白色人種によって、様々な王国が形成されて今日に至っている。明治維新前後に西洋視察を経験した 日本人は、白人だらけのヨーロッパ諸国を目の当たりにした。まるで長崎のオランダ商人ばかりが住んでいるように思えたであろう。たまに黒人やインド人を見 かけても、下男下女か奴隷だったりするから、社会の主流民族とは見えなかったはずだ。しかし、第20世紀も半ばを過ぎた頃から、異人種間結婚(または同 衾・内縁関係)が段々と増えてきた。1960年代までの米国では、異人種交際、つまり白人と有色人種との交際は忌避されたし、社会からも譴責(けんせき) されたのである。それでも、各国から異なる人種・民族が流入するので、異人種混淆は不可避であった。人道主義や平等思想の建前上、あからさまに有色人種と の交際はダメと白人の親は子供に言いづらい。でも、本心では有色人種との結婚はやめて欲しいのだ。アメリカ白人は露骨に有色移民に反対したくないが、でき れば彼らの流入を阻止して、昔のような白色アメリカを復活させたいと思っている。
白人が主体だったアメリカ社会を変えてしまった要因 は様々あるが、主なものを挙げると、マルクス主義のユダヤ人や下層移民、白人リベラルといった左翼知識人、黒人団体、米国を支配下に置こうとする国際主義 者(グローバリスト)など、詳しく述べたらきりがない。いまの学校で異人種混淆の具体例をあげて警告するわけにもいくまい。そこで、「百聞は一見にしか ず」にしだがい、有名人を例にして考えてもらいたい。
(左ドンジョンソン/右ダコタ・ジョンソン)
1980年代の米国で大ヒットしたTVドラマ『マイアミ・バイス』は、日本でも放送されたので、覚えているかたも多いだろう。主役のドン・ジョンソン (Don Johnson)はその甘いマスクでアメリカ人女性のみならず、日本人女性も虜(とりこ)にしてしまった。南鮮人俳優(所謂“韓流スター”)と違って、本 当の人気を博していたのである。ハンサム俳優のドン・ジョンソンは、美人女優のメラニー・グリフィス(Melanie Griffith)の夫であった。メラニーはあの有名女優ティピ・ヘドレン(Tippi Hedren)の娘である。ティピ・ヘドレンといえばあるふれっど・ヒッチコック監督が惚れ込んだくらいの美女で、『鳥』と『マーニー』で主役を演じたか ら、日本の映画ファンでもよく知っているだろう。若き日のショーン・コネリーと『マーニー』で共演したティピは本当に魅力的であった。(当時、北欧系美人 女優は人気者であった。)007のジェイムズ・ボンドと別人のコネリーを観て感動した人もいたのではないか。母親の仕事柄、メラニーは14歳の頃にドンと 出逢って、1976年1月に結婚したものの、6月には離婚してしまった。まだ幼かったのだろう。そのあとスティーヴ・バアウーと結婚し、息子アレクサン ダーをもうけるが離婚してしまう。1988年にドン・ジョンソンとよりを戻して再婚し、娘のダコタ(Dakota Johnson)が生まれた。ダコタも今は女優になっているから、祖母と母に次いで三代目だ。
(ドンとメラニー)
若いメラニーがドンと初めて結婚した頃の写真をみると、とても爽やかで初々しい感じがする。古き良き時代のアメリカを想い出させるような若いカップル だ。何というか、ちょっとした恋愛映画のいち場面でも観ているかのような、ほろ苦い少女の恋みたいな印象を受ける。若い頃から女にもてたドンに、一人の女 で一生我慢しろとは言いづらいが、再婚して娘ができた頃にはうまくいくよう願ったものだ。父親によく似た美しい娘を悲しませるような離婚はやはりよくな い。子は鎹(かすがい)と言うじゃないか。ちょっと古いか。(若者への註/鎹とは木材を繋義合わせる釘のこと。)しかし、女優の性(さが)かわがままか、 ドンとはうまくいかず1994年にまたもや離婚となる。
その後、映画がきっかけとなって1996年有名俳優アントニオ・バンデラス(AntonioBanderas)と再婚したメラニーは、娘ステラを出産し た。結婚ごとに子供を産むから少子化対策には役立っているし、子供手当も要らないから大したものだ。でも、ステラの顔を見るとやはり、アントニオのラテン 系遺伝子が強いのかと思ってしまう。同じ母親の腹から生まれたにしては、ステラの方が魅力に欠けてのかなぁ。これは主観的判断だから、各人違った感想をも つであろう。日本男子2000人くらいのアンケート調査が欲しいところだ。西欧系白人男子なら、ダコタの方が人気が高くなりそうだし、女優としても彼女の 方がステラより仕事のオファーが多いだろう。実際、ダコタは人気小説『フィフティメシエイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Gray)』の映画化で主役を演じている。共演者は当初チャーリー・ハナム(Charlie Hanamであったが、スケジュールの関係でジェイミー・ドーナン(Jamie Dornan)に替わってしまって、ファンは少々ガッカリ。だってハナムはあの高視聴率ドラマ『サンズ・オブ・アナーキー』で、主役ジャクスを演じた人気 上昇中のハンサム英国俳優である。日本の女性ファンも落胆しただろう。ダコタは親の七光りで主役を得たかも知れないが、ある程度美人でないと映画で主役は 張れないだろう。
(左写真:メラニーとステラとアントニオ/右写真:メラニーと母ティピ)
アントニオ・バンデラスとは長続きしそうだったが、2014年になると関係が怪しくなり、またもや離婚を繰り返してしまった。女優の離婚は珍しくない が、結婚の意義が一般人と違うのだろう。彼女の離婚は家族の問題なので、他人がどうこう言うことではないので、ここではそっとしておく。我々が注目すべき 点は、同じ女性の卵子と子宮で生まれた娘ふたりが、アングロ系とラテン系の精子により違ってしまったことだ。アングロ・アメリカ社会において、北欧ゲルマ ン系のイギリス人やスカンジナヴィアまたはネーデルラント系の住民なら、ダコタの方を仲間として迎えたいだろう。自らの容姿に似た、つまり肉体の質が同じ ような少女の方が、同族の青年たちにふさわしいし、大人たちも安心である。メキシコの原住民や北アフリカのベルベル人みたいな男から、不気味な遺伝子をも らった少女は、できればラテン・アメリカで暮らしてほしい。ステラがアントニオを父として選んだのではないから、彼女には罪がない。しかし、メラニーには 選択権があり、妊娠の結果を予測できたのだから、生まれてくる子供の将来はだいたい察しがついたずだ。
(ショーン・コネリーとティピ・ヘドレン)
黒人の遺伝子は恐ろしい
白人と黒人の異人種間結婚(miscegegenation)は、白色人種にとっては脅威である。白人女性と黒人男性が結婚し、子供が生まれる場合、黒 人の遺伝子の方が優性となるからだ。1660年代の植民地時代のアメリカでは白人と異人種との結婚は罪であった。メリーランドでは1664年に異人種間結 婚が罪になっていたし、ウァージニアで1691年に反異人種間結婚法が成立すると、翌1692年にはメリーランドでも同じ法案が通ったのである。1960 年代になると有名なラヴィング対ヴァージニア裁判が注目を集め、1967年には白人と黒人の結婚を禁じる法律が違法とされてしまった。この判決により、白 人の夫リチャード・ラヴィング(Richard Perry Loving)と黒人妻ミルドレッド(MIldred Delores Jeter)の結婚は承認され、長らく続いた法的な人種隔離が崩れ始めたのである。いったん崩れた壁は修復することができない。修理する白人より、ハン マーで徹底的に壊そうとする者の方が圧倒的に多いからだ。
白人女性と黒人男性の結婚による混血児で有名なのがオバマ大統領である。カ ンザス州の白人娘アン・ダナムの遺伝子より、ケニア人留学生のバラク・オバマの遺伝子の方が、明らかに優性だった。(ただし本当の父親かは不明である。) オバマ大統領には異母兄弟がいるが、アフリカ人の兄弟たちなので皆黒くて違いが鮮明ではない。そこで参考になるのが、ドイツ人スーパー・モデルのハイ ディ・クルム(Heidi Klum)だ。
(左:ハイディ/右:娘レニ)
ハイディ・クルムは2004年にイタリア人フラビオ・ブリアトーレとの間に白人の娘レニ(Helene Boshoven Klum)をもうけるが、2005年黒人ミュージシャンのシール(Seal/ Henry Olusegun Olumide Adeola Samuel)と結婚してしまう。彼との間には息子を二人、ヘンリー(Henry)とヨハン(Johan)をもうけ、2009年には娘のルウ(Lou)を 出産する。ハイディは有名雑誌の『ヴォーグ』や『エル』『マリー・クレア』ならびに『ヴクトリアズ・シークレット』でモデルを務めたくらい人気者である。 金髪のドイツ人美女が、ブラジル人の父とナイジェリア人母との間に生まれた黒人歌手と結婚して、子供を三人産んだのだ。大衆雑誌の『ピープル』などはその 異人種カップルを持て囃したが、白人のなかには眉を顰(ひそ)める者が少なくなかった。長女のレニと父親を異にする兄弟を見たらゾッとしてしまうかも。ま た、義理の娘レニを抱くシールは不思議ではないのだが、事情を知らぬ他人が目撃したら、黒人が白人少女を拉致したのか、と勘違いしてしまうだろう。全然似 ていない親子だからしょうがない。1960年代のアメリカだったら、誰でも警察官を呼んでしまうだろう。それくらい現代のアメリカは昔と違うのだ。
(左:シールとハイディ/右:ヘンリーとヨハン)
芸能界で生きているクルムは、人種を気にしていないように振る舞うが、彼女が育った時代や環境を想い出せば異常だ。せっかく親からもらった美しい容姿を 子供に継承させずに、黒人男性の遺伝子と混ぜて台無しにしてしまったのだ。母親のハイディは黒人男性とセックスしても容姿は変わらないが、その結果の子供 は別の容姿で生まれてくるのである。彼女は両親から受け継いだ美貌で現在の地位があることを自覚していない。希有(けう)な金髪美女だから、さしたる才能 がなくてもファッション・モデルや女優の仕事が舞い込んでくるし、バラエティー番組の仕事で審査員をしたくらいで大金を獲得できるのだ。アフリカ人顔した 黒い肌の子供たちは同様の地位や人生を望めまい。現在の白人社会の病理は、自分の人生だけが素晴らしければそれでよい、とする考えが蔓延(まんえん)して いることだ。親は子供に教育を施すとともに、祖先から受け継いだ遺伝子を子孫に渡す義務がある。命は血の河を流れるのだ。二人の親と四人の祖父母、八人の 曾祖父母、と先祖を遡ってみれば、いかに多くの遺伝子が自分の体に凝縮されているか分かるだろう。
日本では老舗旅館や老舗料亭などが尊敬される。先代や先々代が築いた家業を子孫が受け継ぐ姿は素晴らしい。現在の経営者は、創設者からの伝統を尊び、 代々語り継がれた訓戒を守り、後世に伝える義務を有する。こうした伝統重視の精神は、肉体的に繋がっている子孫が実践している場合が多い。もしも、血が繋 がっていない外国人(例えば支那人や朝鮮人)経営者が跡継だと、経営難に陥るや伝統ある老舗店を、買収を持ちかけてくる他者に売却しかねない。親戚の者が 反対しても、合法的手続きを踏めば問題ない。創業家の経営者なら、ご先祖様に申し訳ない、と思って赤字でも何とかして店を存続させ、いつかは復活させよう と思うだろう。それは自分の利益を超えた血統の重さを感じるからである。
国家においても同様なことが言えるのではないか。現在の日本 は現在生きている日本国民だけのものではない。先人が血と汗と涙で維持してきた貴重な遺産である。国家の存続は崇高な義務を求める。先祖から受け継いだ領 土は、たとえ海に浮かんだ岩礁でも他国に譲ってはならない。奪われた国土は奪還するのが子孫の務めである。百年千年かけても必ず取り戻す。拉致された邦人 は核攻撃を受けようが、絶対奪還する覚悟を持たねばならない。大東亜戦争や日清・日露戦役で、我々の祖先は勇敢に戦って没した。突撃すれば手足を爆弾で吹 き飛ばされようが、心臓を弾丸が打ち抜こうが、渾身の力をふるって敵に挑んだのである。全身から鮮血が流れ出る中で、故郷の両親兄弟、妻や子供を思いなが ら絶命した将兵を、我々は一瞬たりとも忘れてはならない。我々は栄光に包まれた誇りある日本の国民である。勇敢な帝國陸海軍の魂と血を受け継ぐ子孫であ る。誰が何と言おうが、天皇陛下が君臨する日本は世界の奇蹟だ。ローマ人がローマを愛したように、日本人は日本を愛する。我々の愛国心は生まれたときから 心に刻まれているのだ。
日本民族の遺伝子保存というと人種主義みたいで嫌だ、と感じる国民も多いだろう。しかし、我が子を見つめる親 の心と、親を大切に思う子の心は血で繋がっているのだ。我々が相続した日本は、世界各地の雑種民族が勝手に生きている、寄ゴミ捨て場のような島国ではな い。日本の伝統を守るなら、日本人の遺伝子を守ることだって重要じゃないのか。今回は芸能記事みたいだから、次回はちょっとだけアカデミックに論じてみた い。
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(左/ダコタ・ジョンソン)
フランス革命の害毒を汲むマルクス主義によって、西歐世界が崩壊の危機にさらされた。保守思想の巨星エドマンド・バーク(Edmund Burke)が彗星の如く現れ、フランスに蔓延したペスト的過激思想を退治する嚆矢(こうし)となったことは有名な話。我が国でも遅まきながら、兇暴なマ ルキストから祖国を守る保守思想が、少しだけ蘇生してきた。日本の歴史を貶め、政治・経済のみならず文化までも根底から破壊しようとする、怨念に凝り固 まった左翼勢力は忌まわしい。日本の伝統と皇室を守ろうとする正常な国民は、そうした蝮(マムシ)の共産主義者に知的戦いを挑む。これに筆者は大賛成。し かし、悠久の歴史を誇る我が国の遺伝子は守らなくてもいいのか、と保守派知識人に問いたい。伝統文化を守ることには皆で一致するのだが、肝心の国民の肉体 は変質してもいいのか?日本の國體(こくたい/constitution)は、数千年の時間をかけて形成されたが、日本人が親子代々受け継いだ国土に、皇 室と共に暮らしてきたことで成り立つ。国民の遺伝子はどうでもよい問題なのか? これは我が国の保守思想家が避けている論点である。
西歐世界はヨーロッパ人、主にゲルマン人とケルト人などの白色人種によって、様々な王国が形成されて今日に至っている。明治維新前後に西洋視察を経験した 日本人は、白人だらけのヨーロッパ諸国を目の当たりにした。まるで長崎のオランダ商人ばかりが住んでいるように思えたであろう。たまに黒人やインド人を見 かけても、下男下女か奴隷だったりするから、社会の主流民族とは見えなかったはずだ。しかし、第20世紀も半ばを過ぎた頃から、異人種間結婚(または同 衾・内縁関係)が段々と増えてきた。1960年代までの米国では、異人種交際、つまり白人と有色人種との交際は忌避されたし、社会からも譴責(けんせき) されたのである。それでも、各国から異なる人種・民族が流入するので、異人種混淆は不可避であった。人道主義や平等思想の建前上、あからさまに有色人種と の交際はダメと白人の親は子供に言いづらい。でも、本心では有色人種との結婚はやめて欲しいのだ。アメリカ白人は露骨に有色移民に反対したくないが、でき れば彼らの流入を阻止して、昔のような白色アメリカを復活させたいと思っている。
白人が主体だったアメリカ社会を変えてしまった要因 は様々あるが、主なものを挙げると、マルクス主義のユダヤ人や下層移民、白人リベラルといった左翼知識人、黒人団体、米国を支配下に置こうとする国際主義 者(グローバリスト)など、詳しく述べたらきりがない。いまの学校で異人種混淆の具体例をあげて警告するわけにもいくまい。そこで、「百聞は一見にしか ず」にしだがい、有名人を例にして考えてもらいたい。
(左ドンジョンソン/右ダコタ・ジョンソン)
1980年代の米国で大ヒットしたTVドラマ『マイアミ・バイス』は、日本でも放送されたので、覚えているかたも多いだろう。主役のドン・ジョンソン (Don Johnson)はその甘いマスクでアメリカ人女性のみならず、日本人女性も虜(とりこ)にしてしまった。南鮮人俳優(所謂“韓流スター”)と違って、本 当の人気を博していたのである。ハンサム俳優のドン・ジョンソンは、美人女優のメラニー・グリフィス(Melanie Griffith)の夫であった。メラニーはあの有名女優ティピ・ヘドレン(Tippi Hedren)の娘である。ティピ・ヘドレンといえばあるふれっど・ヒッチコック監督が惚れ込んだくらいの美女で、『鳥』と『マーニー』で主役を演じたか ら、日本の映画ファンでもよく知っているだろう。若き日のショーン・コネリーと『マーニー』で共演したティピは本当に魅力的であった。(当時、北欧系美人 女優は人気者であった。)007のジェイムズ・ボンドと別人のコネリーを観て感動した人もいたのではないか。母親の仕事柄、メラニーは14歳の頃にドンと 出逢って、1976年1月に結婚したものの、6月には離婚してしまった。まだ幼かったのだろう。そのあとスティーヴ・バアウーと結婚し、息子アレクサン ダーをもうけるが離婚してしまう。1988年にドン・ジョンソンとよりを戻して再婚し、娘のダコタ(Dakota Johnson)が生まれた。ダコタも今は女優になっているから、祖母と母に次いで三代目だ。
(ドンとメラニー)
若いメラニーがドンと初めて結婚した頃の写真をみると、とても爽やかで初々しい感じがする。古き良き時代のアメリカを想い出させるような若いカップル だ。何というか、ちょっとした恋愛映画のいち場面でも観ているかのような、ほろ苦い少女の恋みたいな印象を受ける。若い頃から女にもてたドンに、一人の女 で一生我慢しろとは言いづらいが、再婚して娘ができた頃にはうまくいくよう願ったものだ。父親によく似た美しい娘を悲しませるような離婚はやはりよくな い。子は鎹(かすがい)と言うじゃないか。ちょっと古いか。(若者への註/鎹とは木材を繋義合わせる釘のこと。)しかし、女優の性(さが)かわがままか、 ドンとはうまくいかず1994年にまたもや離婚となる。
その後、映画がきっかけとなって1996年有名俳優アントニオ・バンデラス(AntonioBanderas)と再婚したメラニーは、娘ステラを出産し た。結婚ごとに子供を産むから少子化対策には役立っているし、子供手当も要らないから大したものだ。でも、ステラの顔を見るとやはり、アントニオのラテン 系遺伝子が強いのかと思ってしまう。同じ母親の腹から生まれたにしては、ステラの方が魅力に欠けてのかなぁ。これは主観的判断だから、各人違った感想をも つであろう。日本男子2000人くらいのアンケート調査が欲しいところだ。西欧系白人男子なら、ダコタの方が人気が高くなりそうだし、女優としても彼女の 方がステラより仕事のオファーが多いだろう。実際、ダコタは人気小説『フィフティメシエイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Gray)』の映画化で主役を演じている。共演者は当初チャーリー・ハナム(Charlie Hanamであったが、スケジュールの関係でジェイミー・ドーナン(Jamie Dornan)に替わってしまって、ファンは少々ガッカリ。だってハナムはあの高視聴率ドラマ『サンズ・オブ・アナーキー』で、主役ジャクスを演じた人気 上昇中のハンサム英国俳優である。日本の女性ファンも落胆しただろう。ダコタは親の七光りで主役を得たかも知れないが、ある程度美人でないと映画で主役は 張れないだろう。
(左写真:メラニーとステラとアントニオ/右写真:メラニーと母ティピ)
アントニオ・バンデラスとは長続きしそうだったが、2014年になると関係が怪しくなり、またもや離婚を繰り返してしまった。女優の離婚は珍しくない が、結婚の意義が一般人と違うのだろう。彼女の離婚は家族の問題なので、他人がどうこう言うことではないので、ここではそっとしておく。我々が注目すべき 点は、同じ女性の卵子と子宮で生まれた娘ふたりが、アングロ系とラテン系の精子により違ってしまったことだ。アングロ・アメリカ社会において、北欧ゲルマ ン系のイギリス人やスカンジナヴィアまたはネーデルラント系の住民なら、ダコタの方を仲間として迎えたいだろう。自らの容姿に似た、つまり肉体の質が同じ ような少女の方が、同族の青年たちにふさわしいし、大人たちも安心である。メキシコの原住民や北アフリカのベルベル人みたいな男から、不気味な遺伝子をも らった少女は、できればラテン・アメリカで暮らしてほしい。ステラがアントニオを父として選んだのではないから、彼女には罪がない。しかし、メラニーには 選択権があり、妊娠の結果を予測できたのだから、生まれてくる子供の将来はだいたい察しがついたずだ。
(ショーン・コネリーとティピ・ヘドレン)
黒人の遺伝子は恐ろしい
白人と黒人の異人種間結婚(miscegegenation)は、白色人種にとっては脅威である。白人女性と黒人男性が結婚し、子供が生まれる場合、黒 人の遺伝子の方が優性となるからだ。1660年代の植民地時代のアメリカでは白人と異人種との結婚は罪であった。メリーランドでは1664年に異人種間結 婚が罪になっていたし、ウァージニアで1691年に反異人種間結婚法が成立すると、翌1692年にはメリーランドでも同じ法案が通ったのである。1960 年代になると有名なラヴィング対ヴァージニア裁判が注目を集め、1967年には白人と黒人の結婚を禁じる法律が違法とされてしまった。この判決により、白 人の夫リチャード・ラヴィング(Richard Perry Loving)と黒人妻ミルドレッド(MIldred Delores Jeter)の結婚は承認され、長らく続いた法的な人種隔離が崩れ始めたのである。いったん崩れた壁は修復することができない。修理する白人より、ハン マーで徹底的に壊そうとする者の方が圧倒的に多いからだ。
白人女性と黒人男性の結婚による混血児で有名なのがオバマ大統領である。カ ンザス州の白人娘アン・ダナムの遺伝子より、ケニア人留学生のバラク・オバマの遺伝子の方が、明らかに優性だった。(ただし本当の父親かは不明である。) オバマ大統領には異母兄弟がいるが、アフリカ人の兄弟たちなので皆黒くて違いが鮮明ではない。そこで参考になるのが、ドイツ人スーパー・モデルのハイ ディ・クルム(Heidi Klum)だ。
(左:ハイディ/右:娘レニ)
ハイディ・クルムは2004年にイタリア人フラビオ・ブリアトーレとの間に白人の娘レニ(Helene Boshoven Klum)をもうけるが、2005年黒人ミュージシャンのシール(Seal/ Henry Olusegun Olumide Adeola Samuel)と結婚してしまう。彼との間には息子を二人、ヘンリー(Henry)とヨハン(Johan)をもうけ、2009年には娘のルウ(Lou)を 出産する。ハイディは有名雑誌の『ヴォーグ』や『エル』『マリー・クレア』ならびに『ヴクトリアズ・シークレット』でモデルを務めたくらい人気者である。 金髪のドイツ人美女が、ブラジル人の父とナイジェリア人母との間に生まれた黒人歌手と結婚して、子供を三人産んだのだ。大衆雑誌の『ピープル』などはその 異人種カップルを持て囃したが、白人のなかには眉を顰(ひそ)める者が少なくなかった。長女のレニと父親を異にする兄弟を見たらゾッとしてしまうかも。ま た、義理の娘レニを抱くシールは不思議ではないのだが、事情を知らぬ他人が目撃したら、黒人が白人少女を拉致したのか、と勘違いしてしまうだろう。全然似 ていない親子だからしょうがない。1960年代のアメリカだったら、誰でも警察官を呼んでしまうだろう。それくらい現代のアメリカは昔と違うのだ。
(左:シールとハイディ/右:ヘンリーとヨハン)
芸能界で生きているクルムは、人種を気にしていないように振る舞うが、彼女が育った時代や環境を想い出せば異常だ。せっかく親からもらった美しい容姿を 子供に継承させずに、黒人男性の遺伝子と混ぜて台無しにしてしまったのだ。母親のハイディは黒人男性とセックスしても容姿は変わらないが、その結果の子供 は別の容姿で生まれてくるのである。彼女は両親から受け継いだ美貌で現在の地位があることを自覚していない。希有(けう)な金髪美女だから、さしたる才能 がなくてもファッション・モデルや女優の仕事が舞い込んでくるし、バラエティー番組の仕事で審査員をしたくらいで大金を獲得できるのだ。アフリカ人顔した 黒い肌の子供たちは同様の地位や人生を望めまい。現在の白人社会の病理は、自分の人生だけが素晴らしければそれでよい、とする考えが蔓延(まんえん)して いることだ。親は子供に教育を施すとともに、祖先から受け継いだ遺伝子を子孫に渡す義務がある。命は血の河を流れるのだ。二人の親と四人の祖父母、八人の 曾祖父母、と先祖を遡ってみれば、いかに多くの遺伝子が自分の体に凝縮されているか分かるだろう。
日本では老舗旅館や老舗料亭などが尊敬される。先代や先々代が築いた家業を子孫が受け継ぐ姿は素晴らしい。現在の経営者は、創設者からの伝統を尊び、 代々語り継がれた訓戒を守り、後世に伝える義務を有する。こうした伝統重視の精神は、肉体的に繋がっている子孫が実践している場合が多い。もしも、血が繋 がっていない外国人(例えば支那人や朝鮮人)経営者が跡継だと、経営難に陥るや伝統ある老舗店を、買収を持ちかけてくる他者に売却しかねない。親戚の者が 反対しても、合法的手続きを踏めば問題ない。創業家の経営者なら、ご先祖様に申し訳ない、と思って赤字でも何とかして店を存続させ、いつかは復活させよう と思うだろう。それは自分の利益を超えた血統の重さを感じるからである。
国家においても同様なことが言えるのではないか。現在の日本 は現在生きている日本国民だけのものではない。先人が血と汗と涙で維持してきた貴重な遺産である。国家の存続は崇高な義務を求める。先祖から受け継いだ領 土は、たとえ海に浮かんだ岩礁でも他国に譲ってはならない。奪われた国土は奪還するのが子孫の務めである。百年千年かけても必ず取り戻す。拉致された邦人 は核攻撃を受けようが、絶対奪還する覚悟を持たねばならない。大東亜戦争や日清・日露戦役で、我々の祖先は勇敢に戦って没した。突撃すれば手足を爆弾で吹 き飛ばされようが、心臓を弾丸が打ち抜こうが、渾身の力をふるって敵に挑んだのである。全身から鮮血が流れ出る中で、故郷の両親兄弟、妻や子供を思いなが ら絶命した将兵を、我々は一瞬たりとも忘れてはならない。我々は栄光に包まれた誇りある日本の国民である。勇敢な帝國陸海軍の魂と血を受け継ぐ子孫であ る。誰が何と言おうが、天皇陛下が君臨する日本は世界の奇蹟だ。ローマ人がローマを愛したように、日本人は日本を愛する。我々の愛国心は生まれたときから 心に刻まれているのだ。
日本民族の遺伝子保存というと人種主義みたいで嫌だ、と感じる国民も多いだろう。しかし、我が子を見つめる親 の心と、親を大切に思う子の心は血で繋がっているのだ。我々が相続した日本は、世界各地の雑種民族が勝手に生きている、寄ゴミ捨て場のような島国ではな い。日本の伝統を守るなら、日本人の遺伝子を守ることだって重要じゃないのか。今回は芸能記事みたいだから、次回はちょっとだけアカデミックに論じてみた い。
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清廉イメージ共産党には不潔な幹部がいる
今回の衆議 院選挙で自民党が圧勝したのは良かったが、次世代の党が惨敗したことと共産党が躍進したことは非常に残念である。日本は本当にオタク族の国だ。一般国民は 既に見限っているのに、共産党ときたら深海魚みたいに暗い海底の水圧に耐えながら棲息し、忘れた頃にチョコンと浮上してくる。国民からの税金と党員からの 搾取で食いつないでいるのだからしぶとい。共産主義は過激が売りだから、ちょっと日和(ひよ)って社会党や民主党に入る左翼は、熱心な共産主義ファンに見 捨てられるのだ。やはり根っからのコアなファンを大切にしなきゃ。なんか演歌の花道やパンク・ロック論みたいだが、共産党は意外と顧客重視の企業みたい だ。そこで今回は、共産党の勝利を祝して、彼らの本性を暴露したい。
一般には「日本共産党」と自称している代々木の政党は、大正11 年(1922年)に結成された「コミンテルン日本支部」が正式名称である。じゃあ本店はどこに? もちろんモスクワ。いまでは大学生ですら、「コミンテルンて何?」と尋ねるくらい、共産党の人気は地に落ちているが、ひと昔は違った。国際共産主義 (Communist International)は燦然と輝いていたのである。現在は見向きもされない政治イデオロギーだが、戦前は学生で共産主義を知らないと馬鹿にされた くらいだ。関西大学の名物教授であった故・谷沢永一やエコノミストの長谷川慶太郎も、若いとき共産主義にかぶれたくらいである。マルクス・レーニン主義を 少しでもかじった世代なら、共産党の創設メンバーである徳田球一の名は誰でも知っている。「とくきゅう」の通称(略名)で知られた古株党員で、株屋の顧問 弁護士をしていたことから別名「株屋のぽん引き」とも呼ばれた。ちなみに共産党員は通称が好きで、宮本顕治は「みやけん」、渡辺政之輔は「わたまさ」、山 本懸蔵は「やまけん」と呼ばれていた。
共産党で大きな顔をしていたこの徳田球一は、治安維持法で1928年(昭和3年)2月26日に逮捕され、府中刑務所に服役していたが、1945年(昭和 45年)の敗戦により、GHQの命令で10月10日に釈放されたのである。共産主義思想で投獄された徳田は、同年10月4日にGHQが発した「自由制限撤 廃指令(SCAPIN93号)」にある、「治安維持法関係の違法者」に該当したので出所できたわけだ。一般国民は学校で治安維持法を“思想弾圧法”としか 教わっていないだろうが、大正から昭和にかけて共産主義思想が猛威を振るっていたことを考えれば、國體(こくたい)、皇室、私有財産などを守るための妥当 な法律であったといえよう。ロマノフ王家の惨殺をみれば分かる通り、共産主義者の兇暴性は日本人にとって切迫した脅威だった。NHKのドキュメンタリー番 組などでは、治安維持法で捕まった共産党員が、獄中でいかに酷い目にあったかが宣伝される。だが、銃弾飛び交う戦場で生死を懸けていた将兵に比べれは、楽 園でくつろぐ極楽とんぼのたわごとだ。飢えや怪我で苦しんでいる兵隊とは違って、徳田は監獄で読書をしていたのである。徳田は語っている、
監獄はどうせろくなところではないが、一つよいことは、世間からへだてられているだけに学問に身がいることだ。(徳田球一 志賀義雄 『獄中十八年』 時事通信社 昭和22年 p.46)
まあそうだろう。“シャバ”にいれば酒や女といった誘惑が多いから、真剣に勉強できない。徳田は渋沢栄一の自叙伝や安田善次郎の本を読んだという。しか しながら獄中で培ったのは裏切者と日本への憎悪であった。官憲に捕まった佐野学や鍋山貞親、三田村四郎などの同志が次々転向したから、転向せず我慢した徳 田はさぞかし裏切者を憎んだであろう。徳田の性格が陰険で歪んでいるのは、その卑しい出生にも原因があった。
徳田球一は明治27年、 沖縄県国頭郡名護村に生まれた。父親は廻船問屋だった祖父と琉球の女との間に生まれ、母親も船問屋の主人と琉球の妾との間に生まれたのである。両親とも妾 の母から生まれたわけだ。父方の祖母は貧農の娘で、豚小屋のようなあばら屋で育ち、女郎に売られてやがで祖父と逢うことになったなったらしい。母方の祖母 は貧乏な職人の家に生まれ、その姉妹二人は女郎に売られたという。彼の祖母は高利貸しをしながら泥藍(どろあい)を売って生活していた。この染料は琉球か ら九州に送る間に目減りするので、それを理由に農家を誤魔化して安く買い高く売っていたそうだ。球一少年はその泥藍の目減りを誤魔化すため、その計算をし ていたのだ。(『獄中十八年』p.14)こんな下層の貧乏家庭で育ったうえに、学校では琉球人という理由で理不尽な扱いを受けたらしい。それなら本州の日 本人に対して怨念を抱くのも分かる。だからといって、共産主義者になってもいいとは思わないが。
昭和20年の敗戦のお陰で、非転向組 の徳田は府中刑務所から釈放されたのである。転向した鍋山貞親によれば、徳田は出所すると、同志の佐野文夫や渡辺政之輔から「委員長職」を依頼され承諾し た。そして徳田は家に帰らず、そのまま女郎屋へ直行したという。(矢次一夫対談集II 『昭和政界秘話』 原書房 1981年 p.47)共産主義者で『無産者新聞』を経営していた門屋博の体験談では、徳田は淋病や梅毒に罹っていたらしい。共産党の命令で徳田の監視役を言いつけら れた門屋は、徳田を自宅に置くことにした。ところが、徳田は朝になると門屋の次男(当時1歳くらい)を連れて、よく近くの銭湯に行ったという。すると門屋 の女房が「あれだけはやめさせてくれ。徳田さんはひどい淋病だというしゃありませんか、子供に移ったらどうするんです」と文句を言った。それでしかたなく 門屋は、関東地方委員長をやっていた南喜一に頼んで、借家を用意してもらい、徳田を移したそうだ。(pp.51-52) 共産党の幹部なんて所詮こんなものだ。カネ、女、酒、権力が欲しくてたまらない俗物が共産党員の正体である。まともな母親ならいくら共産党の幹部だって、 淋病持ちのすけべ男が子供と風呂に入るんじゃ心配して当然。筆やんだって賛成だろう。(「筆やん」とはセクハラ事件で共産党を離れた筆坂秀世・元参議院議 員のこと)
殺人犯だった共産党委員長
元プロ・レスラーのアントニオ猪木には必殺技コブラ・ツイストや四の字固めがあった。しかし、いかに対戦相手が苦しんでも、猪木は殺すことはなかった が、共産党の帝王・宮本顕治は実際に人を殺してしまった。今ではもう過去の人となって一般国民は忘れているが、宮顕(みやけん)といえば日本共産党のミ ニ・スターリンだった。
共産党には「スパイは発見次第必ずけすこと」という鉄の掟(おきて)がある。「消すこと」とは単に監禁した り、拘束することではない。永久にこの世から消すのである。(松本明重 編 『日共リンチ殺人事件』 日本民主同志会本部 昭和51年 p.117) 外国の共産主義者にとっては当然で、日本の支店でも同じ事が行われただけだ。ただし、こうした不都合な事実はテレビで大々的に宣伝しないか ら、リンチ事件を知らぬ若者が増えるのである。
昭和8年11月28日朝、中央委員長の野呂栄太郎が、電車内で警視庁警部と偶然出くわ し、検挙される事態が起きた。片足がなく義足でびっこを引いていた野呂は、肺病をこじらせて留置所で死んでしまった。インテリ派の宮本顕治らは、野呂が大 泉兼蔵だけと連絡関係があったことから、検挙は大泉のスパイ行為によるものと勘ぐってしまった。そこで対立関係にあった労働者派の大泉兼蔵と小畑達夫を一 挙に葬る計画を立てたのである。こうして「査問」と称する拷問が始まった。
宮本は拷問しても周囲の住民に気づかれない秘密の隠れ家 を探したのである。そこで同志の秋笹政之輔が渋谷区幡ヶ谷本町2丁目207番地の家を借りて、拷問のアジトにしたのである。昭和8年12月23日に宮本顕 治、袴田里見、秋笹政之輔、逸見重雄、木島隆明らは大泉と小畑を二階の部屋に連行して、「査問」の名目で拷問を開始し、スパイ容疑を明らかにしようとし た。部屋には木島が用意した斧2丁、出刃包丁2本、硫酸1瓶、細引、針金などの尋問・威嚇道具があった。(p.165)宮本によると拳銃、猿轡(さるぐつ わ)、目隠まで用意していたらしい。
小畑をアジトに連れてきた宮本は、二階の部屋に入ると小畑の頸(くび)に腕を巻いておとなしく させてしまった。宮本は柔道の心得があり、得意技チョーク・スリーパーをかけたのである。「みやけん」は絞め技や関節技が得意なのだ。そして用意した細紐 で小畑の両足首と両手を後ろで縛り付けた。大泉が後で来るはずなので、小畑の両耳に飯粒を詰め込み、猿轡をして押し入れに監禁してしまった。それからしば らくてし逸見が大泉を連れてきた。またもや部屋に入ると逸見が大泉の頸を腕で絞めて畳に倒した。
宮本はまづ小畑から「査問」を始め、 殴る蹴るの暴行を長時間加えたのである。男四人から容赦なく殴られ、思いっきり蹴られたことが後の検死で判明する。袴田は尋問中、ヤカンの水を硫酸だと 偽って、小畑の腹の上にかけた。すると本当に硫酸だと思った小畑は、必死になって水を手で除こうとしたそうだある。その姿があまりにも滑稽だったので、木 島が本物の硫酸をもってきて小畑の腹にかけてしまった。小畑は激痛でもがき苦しんだという。また、秋笹が紙を綴る錐(きり)を持っていたので、彼らは大泉 のヘソをその錐で刺した。すると大泉は悲鳴を上げて痛がったという。もう一人前のザディストの集団である。
スパイであることをガンと して認めなかった小畑は、宮本らに暴行され半殺しの目にあった。(p.229) 顔面、側頭部に皮下出血があり、顔はこぶやあざで無惨なくらい腫れ上がっていた。脚にも筋肉間出血や骨膜下の出血、大小さまざまなアザが出来ていた。こう した拷問により、大泉はスパイであることを認めたが、小畑は否認したままであった。翌24日もリンチが続き逸見が大泉を拷問している間、宮本、木島らは仮 眠をしていた。小畑は体を捻ったりして何とか手足の縄を解くことができた。袴田が窓から逃げようとする小畑に気づき組み付いた。その物音を聞きつけた宮本 と木島は、部屋に駆けつけて小畑を押さえ込んだ。木島が小畑の足首を掴み、袴田が彼の手を握り、逸見が頭を押さえた。「ウォー・ウォー」とうなる小畑に馬 乗りになった宮本は、彼の頸を手で締めた。前日のリンチで飢餓、寒冷、疲労で衰弱していた小畑を、宮本が柔道で鍛えた強力で絞めたのだ。小畑はグッタリし てしまった。故意の殺人ではなくとも、扼殺(やくさつ)したことには変わりない。
拷問されても生き残った大泉は後に、異常な声に気づ いた近所の住民の通報により、警察官が駆けつけて救出された。大泉には内縁の妻熊沢光子がいて、宮本らは夫婦揃って自殺しろと強要したらしい。屍体の処分 に困ったから、自殺を命じて始末しようとしたのだ。一方、小畑の遺体は家の床下に埋められていた。宮本ら昭和8年12月26に逮捕されたのだが、検死官の いい加減な鑑定で小畑のはっきりした死因は特定できなかったのである。木島や逸見、秋笹、袴田は、昭和9年9月に検挙され裁判にかけられた。宮本は無期懲 役で、袴田は懲役13年、秋笹は懲役7年(昭和18年に獄死)、逸見は懲役5年、木島は懲役2年、大泉は懲役5年の判決だった。
幸運 の女神(Fortuna)は気まぐれだ。獄中の宮本顕治に思いがけぬ好機が舞い込んできた。日本の敗戦である。大日本帝国の崩壊が「みやけん」の蘇生につ ながったのである。網走刑務所に収監されていた宮本は、裁判所に提出した「診断書附き釈放上申書」が受理され、釈放の身になってしまった。もちろん宮本は 「肺浸潤」という病名とは無関係の健康体であった。これには裏があった。敗戦で刑務所の看守らは意気消沈していた。米国に占領されて看守と囚人の地位が逆 転するのでは、と心配になったのだ。「みやけん」はGHQによって釈放されるであろうし、ソ連を後ろ盾にした共産党員の天下になったら、刑務所職員は取り 締りの対象になってしまう。そこで宮本は網走刑務所と取引をしたとみる疑いが濃厚なのである。釈放と交換に網走への報復措置を不問にする闇取引があったの だろう。だからあんなべらぼうな診断書を刑務所の所長が提出したのだ。GHQは政治犯を釈放するつもりだったが、一般の刑事犯は解放するつもりはなかっ た。しかし、早合点した刑務所側が宮本を釈放してしまったのである。したがって、無期懲役囚・宮本顕治は恩赦減刑による囚人として、病気による執行停止状 態のまま、共産党委員長を務めていたのである。故・浜田幸一が国会で「みやけん」を人殺し呼ばわりしたのは正しかった。
しかし、悪人 とは悪運が強いもんだ。人殺しでも堂々と国会議員になれたのだから。そういえば在日朝鮮人から献金をを受けて、菅直人は国会で窮地に追い込まれた。しか し、未曾有の東北大震災が起こり、疑惑追及の手を逃れることができた。津波に飲み込まれて死んでいった国民がいるのに、ふてぶてしい菅は生き延びることが できたのである。国民の不幸が菅にとっては天佑となった。我々が悔しいのはこうした悪魔の手先が、国民の一部から依然として支持されていることだ。共産党 の血腥い歴史を知らぬ者が沢山いるのである。共産党によるリンチ事件は他にもあった。大串雅美リンチ、大澤武男リンチ、波多然リンチといった査問事件が続 出していたのである。選挙期間中、笑顔で握手を求めてくる共産党員の手は、どす黒い血で汚れているのだ。ブラック企業への批 判で人気を博していても、共産党自体がブラック集団なのだ。ヤクザより恐ろしい暴力団に気づかぬ国民は、ソ連や東欧諸国を調べてみるべきだ。本当の恐怖政 治を語るポーランドやハンガリーの老人たちは、無邪気に共産党へ票を投じる日本の若者をどう思うだろうか。穏やかに「イディオッタ(ばか)」とつぶやくか も知れない。
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今回の衆議 院選挙で自民党が圧勝したのは良かったが、次世代の党が惨敗したことと共産党が躍進したことは非常に残念である。日本は本当にオタク族の国だ。一般国民は 既に見限っているのに、共産党ときたら深海魚みたいに暗い海底の水圧に耐えながら棲息し、忘れた頃にチョコンと浮上してくる。国民からの税金と党員からの 搾取で食いつないでいるのだからしぶとい。共産主義は過激が売りだから、ちょっと日和(ひよ)って社会党や民主党に入る左翼は、熱心な共産主義ファンに見 捨てられるのだ。やはり根っからのコアなファンを大切にしなきゃ。なんか演歌の花道やパンク・ロック論みたいだが、共産党は意外と顧客重視の企業みたい だ。そこで今回は、共産党の勝利を祝して、彼らの本性を暴露したい。
一般には「日本共産党」と自称している代々木の政党は、大正11 年(1922年)に結成された「コミンテルン日本支部」が正式名称である。じゃあ本店はどこに? もちろんモスクワ。いまでは大学生ですら、「コミンテルンて何?」と尋ねるくらい、共産党の人気は地に落ちているが、ひと昔は違った。国際共産主義 (Communist International)は燦然と輝いていたのである。現在は見向きもされない政治イデオロギーだが、戦前は学生で共産主義を知らないと馬鹿にされた くらいだ。関西大学の名物教授であった故・谷沢永一やエコノミストの長谷川慶太郎も、若いとき共産主義にかぶれたくらいである。マルクス・レーニン主義を 少しでもかじった世代なら、共産党の創設メンバーである徳田球一の名は誰でも知っている。「とくきゅう」の通称(略名)で知られた古株党員で、株屋の顧問 弁護士をしていたことから別名「株屋のぽん引き」とも呼ばれた。ちなみに共産党員は通称が好きで、宮本顕治は「みやけん」、渡辺政之輔は「わたまさ」、山 本懸蔵は「やまけん」と呼ばれていた。
共産党で大きな顔をしていたこの徳田球一は、治安維持法で1928年(昭和3年)2月26日に逮捕され、府中刑務所に服役していたが、1945年(昭和 45年)の敗戦により、GHQの命令で10月10日に釈放されたのである。共産主義思想で投獄された徳田は、同年10月4日にGHQが発した「自由制限撤 廃指令(SCAPIN93号)」にある、「治安維持法関係の違法者」に該当したので出所できたわけだ。一般国民は学校で治安維持法を“思想弾圧法”としか 教わっていないだろうが、大正から昭和にかけて共産主義思想が猛威を振るっていたことを考えれば、國體(こくたい)、皇室、私有財産などを守るための妥当 な法律であったといえよう。ロマノフ王家の惨殺をみれば分かる通り、共産主義者の兇暴性は日本人にとって切迫した脅威だった。NHKのドキュメンタリー番 組などでは、治安維持法で捕まった共産党員が、獄中でいかに酷い目にあったかが宣伝される。だが、銃弾飛び交う戦場で生死を懸けていた将兵に比べれは、楽 園でくつろぐ極楽とんぼのたわごとだ。飢えや怪我で苦しんでいる兵隊とは違って、徳田は監獄で読書をしていたのである。徳田は語っている、
監獄はどうせろくなところではないが、一つよいことは、世間からへだてられているだけに学問に身がいることだ。(徳田球一 志賀義雄 『獄中十八年』 時事通信社 昭和22年 p.46)
まあそうだろう。“シャバ”にいれば酒や女といった誘惑が多いから、真剣に勉強できない。徳田は渋沢栄一の自叙伝や安田善次郎の本を読んだという。しか しながら獄中で培ったのは裏切者と日本への憎悪であった。官憲に捕まった佐野学や鍋山貞親、三田村四郎などの同志が次々転向したから、転向せず我慢した徳 田はさぞかし裏切者を憎んだであろう。徳田の性格が陰険で歪んでいるのは、その卑しい出生にも原因があった。
徳田球一は明治27年、 沖縄県国頭郡名護村に生まれた。父親は廻船問屋だった祖父と琉球の女との間に生まれ、母親も船問屋の主人と琉球の妾との間に生まれたのである。両親とも妾 の母から生まれたわけだ。父方の祖母は貧農の娘で、豚小屋のようなあばら屋で育ち、女郎に売られてやがで祖父と逢うことになったなったらしい。母方の祖母 は貧乏な職人の家に生まれ、その姉妹二人は女郎に売られたという。彼の祖母は高利貸しをしながら泥藍(どろあい)を売って生活していた。この染料は琉球か ら九州に送る間に目減りするので、それを理由に農家を誤魔化して安く買い高く売っていたそうだ。球一少年はその泥藍の目減りを誤魔化すため、その計算をし ていたのだ。(『獄中十八年』p.14)こんな下層の貧乏家庭で育ったうえに、学校では琉球人という理由で理不尽な扱いを受けたらしい。それなら本州の日 本人に対して怨念を抱くのも分かる。だからといって、共産主義者になってもいいとは思わないが。
昭和20年の敗戦のお陰で、非転向組 の徳田は府中刑務所から釈放されたのである。転向した鍋山貞親によれば、徳田は出所すると、同志の佐野文夫や渡辺政之輔から「委員長職」を依頼され承諾し た。そして徳田は家に帰らず、そのまま女郎屋へ直行したという。(矢次一夫対談集II 『昭和政界秘話』 原書房 1981年 p.47)共産主義者で『無産者新聞』を経営していた門屋博の体験談では、徳田は淋病や梅毒に罹っていたらしい。共産党の命令で徳田の監視役を言いつけら れた門屋は、徳田を自宅に置くことにした。ところが、徳田は朝になると門屋の次男(当時1歳くらい)を連れて、よく近くの銭湯に行ったという。すると門屋 の女房が「あれだけはやめさせてくれ。徳田さんはひどい淋病だというしゃありませんか、子供に移ったらどうするんです」と文句を言った。それでしかたなく 門屋は、関東地方委員長をやっていた南喜一に頼んで、借家を用意してもらい、徳田を移したそうだ。(pp.51-52) 共産党の幹部なんて所詮こんなものだ。カネ、女、酒、権力が欲しくてたまらない俗物が共産党員の正体である。まともな母親ならいくら共産党の幹部だって、 淋病持ちのすけべ男が子供と風呂に入るんじゃ心配して当然。筆やんだって賛成だろう。(「筆やん」とはセクハラ事件で共産党を離れた筆坂秀世・元参議院議 員のこと)
殺人犯だった共産党委員長
元プロ・レスラーのアントニオ猪木には必殺技コブラ・ツイストや四の字固めがあった。しかし、いかに対戦相手が苦しんでも、猪木は殺すことはなかった が、共産党の帝王・宮本顕治は実際に人を殺してしまった。今ではもう過去の人となって一般国民は忘れているが、宮顕(みやけん)といえば日本共産党のミ ニ・スターリンだった。
共産党には「スパイは発見次第必ずけすこと」という鉄の掟(おきて)がある。「消すこと」とは単に監禁した り、拘束することではない。永久にこの世から消すのである。(松本明重 編 『日共リンチ殺人事件』 日本民主同志会本部 昭和51年 p.117) 外国の共産主義者にとっては当然で、日本の支店でも同じ事が行われただけだ。ただし、こうした不都合な事実はテレビで大々的に宣伝しないか ら、リンチ事件を知らぬ若者が増えるのである。
昭和8年11月28日朝、中央委員長の野呂栄太郎が、電車内で警視庁警部と偶然出くわ し、検挙される事態が起きた。片足がなく義足でびっこを引いていた野呂は、肺病をこじらせて留置所で死んでしまった。インテリ派の宮本顕治らは、野呂が大 泉兼蔵だけと連絡関係があったことから、検挙は大泉のスパイ行為によるものと勘ぐってしまった。そこで対立関係にあった労働者派の大泉兼蔵と小畑達夫を一 挙に葬る計画を立てたのである。こうして「査問」と称する拷問が始まった。
宮本は拷問しても周囲の住民に気づかれない秘密の隠れ家 を探したのである。そこで同志の秋笹政之輔が渋谷区幡ヶ谷本町2丁目207番地の家を借りて、拷問のアジトにしたのである。昭和8年12月23日に宮本顕 治、袴田里見、秋笹政之輔、逸見重雄、木島隆明らは大泉と小畑を二階の部屋に連行して、「査問」の名目で拷問を開始し、スパイ容疑を明らかにしようとし た。部屋には木島が用意した斧2丁、出刃包丁2本、硫酸1瓶、細引、針金などの尋問・威嚇道具があった。(p.165)宮本によると拳銃、猿轡(さるぐつ わ)、目隠まで用意していたらしい。
小畑をアジトに連れてきた宮本は、二階の部屋に入ると小畑の頸(くび)に腕を巻いておとなしく させてしまった。宮本は柔道の心得があり、得意技チョーク・スリーパーをかけたのである。「みやけん」は絞め技や関節技が得意なのだ。そして用意した細紐 で小畑の両足首と両手を後ろで縛り付けた。大泉が後で来るはずなので、小畑の両耳に飯粒を詰め込み、猿轡をして押し入れに監禁してしまった。それからしば らくてし逸見が大泉を連れてきた。またもや部屋に入ると逸見が大泉の頸を腕で絞めて畳に倒した。
宮本はまづ小畑から「査問」を始め、 殴る蹴るの暴行を長時間加えたのである。男四人から容赦なく殴られ、思いっきり蹴られたことが後の検死で判明する。袴田は尋問中、ヤカンの水を硫酸だと 偽って、小畑の腹の上にかけた。すると本当に硫酸だと思った小畑は、必死になって水を手で除こうとしたそうだある。その姿があまりにも滑稽だったので、木 島が本物の硫酸をもってきて小畑の腹にかけてしまった。小畑は激痛でもがき苦しんだという。また、秋笹が紙を綴る錐(きり)を持っていたので、彼らは大泉 のヘソをその錐で刺した。すると大泉は悲鳴を上げて痛がったという。もう一人前のザディストの集団である。
スパイであることをガンと して認めなかった小畑は、宮本らに暴行され半殺しの目にあった。(p.229) 顔面、側頭部に皮下出血があり、顔はこぶやあざで無惨なくらい腫れ上がっていた。脚にも筋肉間出血や骨膜下の出血、大小さまざまなアザが出来ていた。こう した拷問により、大泉はスパイであることを認めたが、小畑は否認したままであった。翌24日もリンチが続き逸見が大泉を拷問している間、宮本、木島らは仮 眠をしていた。小畑は体を捻ったりして何とか手足の縄を解くことができた。袴田が窓から逃げようとする小畑に気づき組み付いた。その物音を聞きつけた宮本 と木島は、部屋に駆けつけて小畑を押さえ込んだ。木島が小畑の足首を掴み、袴田が彼の手を握り、逸見が頭を押さえた。「ウォー・ウォー」とうなる小畑に馬 乗りになった宮本は、彼の頸を手で締めた。前日のリンチで飢餓、寒冷、疲労で衰弱していた小畑を、宮本が柔道で鍛えた強力で絞めたのだ。小畑はグッタリし てしまった。故意の殺人ではなくとも、扼殺(やくさつ)したことには変わりない。
拷問されても生き残った大泉は後に、異常な声に気づ いた近所の住民の通報により、警察官が駆けつけて救出された。大泉には内縁の妻熊沢光子がいて、宮本らは夫婦揃って自殺しろと強要したらしい。屍体の処分 に困ったから、自殺を命じて始末しようとしたのだ。一方、小畑の遺体は家の床下に埋められていた。宮本ら昭和8年12月26に逮捕されたのだが、検死官の いい加減な鑑定で小畑のはっきりした死因は特定できなかったのである。木島や逸見、秋笹、袴田は、昭和9年9月に検挙され裁判にかけられた。宮本は無期懲 役で、袴田は懲役13年、秋笹は懲役7年(昭和18年に獄死)、逸見は懲役5年、木島は懲役2年、大泉は懲役5年の判決だった。
幸運 の女神(Fortuna)は気まぐれだ。獄中の宮本顕治に思いがけぬ好機が舞い込んできた。日本の敗戦である。大日本帝国の崩壊が「みやけん」の蘇生につ ながったのである。網走刑務所に収監されていた宮本は、裁判所に提出した「診断書附き釈放上申書」が受理され、釈放の身になってしまった。もちろん宮本は 「肺浸潤」という病名とは無関係の健康体であった。これには裏があった。敗戦で刑務所の看守らは意気消沈していた。米国に占領されて看守と囚人の地位が逆 転するのでは、と心配になったのだ。「みやけん」はGHQによって釈放されるであろうし、ソ連を後ろ盾にした共産党員の天下になったら、刑務所職員は取り 締りの対象になってしまう。そこで宮本は網走刑務所と取引をしたとみる疑いが濃厚なのである。釈放と交換に網走への報復措置を不問にする闇取引があったの だろう。だからあんなべらぼうな診断書を刑務所の所長が提出したのだ。GHQは政治犯を釈放するつもりだったが、一般の刑事犯は解放するつもりはなかっ た。しかし、早合点した刑務所側が宮本を釈放してしまったのである。したがって、無期懲役囚・宮本顕治は恩赦減刑による囚人として、病気による執行停止状 態のまま、共産党委員長を務めていたのである。故・浜田幸一が国会で「みやけん」を人殺し呼ばわりしたのは正しかった。
しかし、悪人 とは悪運が強いもんだ。人殺しでも堂々と国会議員になれたのだから。そういえば在日朝鮮人から献金をを受けて、菅直人は国会で窮地に追い込まれた。しか し、未曾有の東北大震災が起こり、疑惑追及の手を逃れることができた。津波に飲み込まれて死んでいった国民がいるのに、ふてぶてしい菅は生き延びることが できたのである。国民の不幸が菅にとっては天佑となった。我々が悔しいのはこうした悪魔の手先が、国民の一部から依然として支持されていることだ。共産党 の血腥い歴史を知らぬ者が沢山いるのである。共産党によるリンチ事件は他にもあった。大串雅美リンチ、大澤武男リンチ、波多然リンチといった査問事件が続 出していたのである。選挙期間中、笑顔で握手を求めてくる共産党員の手は、どす黒い血で汚れているのだ。ブラック企業への批 判で人気を博していても、共産党自体がブラック集団なのだ。ヤクザより恐ろしい暴力団に気づかぬ国民は、ソ連や東欧諸国を調べてみるべきだ。本当の恐怖政 治を語るポーランドやハンガリーの老人たちは、無邪気に共産党へ票を投じる日本の若者をどう思うだろうか。穏やかに「イディオッタ(ばか)」とつぶやくか も知れない。
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スペイン王室の恩人
(レティシア妃)
第一次世界大戦が勃発する前までは、ヨーロッパ諸国に王室があるのは当然であった。フランスを例外としてドイツやオーストリアの王朝が消滅するとは誰も 予測しなかった。名門ハプスブルク家がいなくなったウィーンなど、明かりの消えたカフェみたいだ。やはり王様がいないと庶民は元気が出ない。お祭りだって 王族が出席してこそ盛り上がるし、神様だって踊りたくなる。軍人だって勲章はやはり王様から授与される方がいい。アメリカ軍人だってクリントンやオバマな んかより、エリザベス女王から頂きたいだろう。日本の自衛官なら叙勲式で、菅直人や福田康夫から貰うくらいなら、辞退したいと言いかねない。天皇陛下が下 賜されるから勲章が輝くのである。我々日本人は神様の子孫がいらっしゃるから幸せ。スペインはひととき王室が消滅してしまったから、本当に危ないところで あった。
(レオノール王女)
いまではスペイン国民がお祭りや式典で王族を拝することは当然のこととなった。スペインの民衆にとって嬉しかったのは、フェリペ王子が美豹のジャーナリ ストであるレティシア・ロカサラノ(Letizia Ortiz Rocasolano)女史とご成婚されたことである。笑顔が魅惑的な美人のプリンセスが誕生したのだから、スペインの男どもばかりではなく、女子供老人 までもがはしゃいでしまった。新国王フェリペ6世陛下には、可愛らしいレオノール王女とソフィア王女がお生まれになったから、国民は感謝感激だ。こうした 国民的幸福は何と独裁者のフランコ将軍がもたらしたのである。
日本の歴史教科書では、スペインの歴史はレコンキスタや大航海時代、南 米での大虐殺と植民地化くらいしか触れない。スペインの内戦は、ピカソの絵画「ゲルニカ」で言及するくらいだ。フランコ将軍はたんに独裁者として紹介され るのみ。詳しい経緯は省略。高校生にとって試験に出ないことは無視してもよい。したがって、ほとんどの日本人はスペイン史には興味がない。しかし、スペイ ン近代史は皇室を戴く我が国民にはとても重要な教訓となるから、ちょっとだけ紹介したい。
第19世紀は社会主義の全盛期だった。ヨー ロッパのみならず日本やアジアでもマルクス主義の嵐が吹き荒れて、国家体制の破壊が激化したのである。スペインも例外ではなく、社会主義者とか共産主義者 が暴れまくって、國體(こくたい)を麻のごとく乱していたのだ。スペイン近代史で特筆すべき点は、無政府主義者が共産党よりも無視できぬほど強力な社会的 勢力になったことである。無政府主義者集団(Anarcosindicalismo)の系統には、「全国労働聯合(CNT)」と「イベリア無政府主義者同 盟(FAI)」があり、反政府を掲げて武装蜂起をしたくらいだ。こうした中で、第一次大戦では中立を保ったが、カタルーニャ独立運動の蠢動(しゅんどう) や左翼政党による社会騒擾、プリモ・リベーラ将軍の軍事独裁、モロッコ戦争の泥沼化などが起こったのである。そして1931年の統一地方選挙で共和派が勝 利すると、国王アルフォンソ13世はフランスへ退去し、第二共和政が成立してしまった。左翼政権下にあったスペインでは、陸軍将校がこの第二共和制政府に 対してクーデタを起こし、内戦勃発となった次第である。
フランシスコ・フランコ将軍は祖父や父親が海軍に勤務する家庭に生まれた。ただし祖父も父親も海軍経理士官であったので、上流階級の家柄ではなく小市民 の地位にあったといえよう。フランコ青年は当初、家業ともいうべき海軍士官を目指したが、軍縮のしわ寄せで新規募集が無くなってしまった。そこでやむを得 ず、トレドの陸軍歩兵士官学校に入学したのである。士官学校を卒業して陸軍少尉に任官した後、モロッコ駐屯軍に配属になった。戦争の武勲により21歳で大 尉になり、ゲリラ掃討作戦では負傷するが、その功績により少佐に昇進したのである。28歳の時にはスペインの外人部隊が創設され、その第一大隊長に抜擢さ れる。1926年フランコは33歳の若さで准将に昇進するという快挙をなす。こんな異例の出世は戦前の日本男子にとったら羨望の的であであろう。
1923年にカタルーニャ軍管区司令官のプリモ・リベーラ将軍が、政権を奪取して独裁制を敷いた。この独裁者がフランスの士官学校を模範にして「総合士 官学校」を創設し、フランコはサラゴサの総合士官学校の校長に任命されたのである。フランコのサラゴサ勤務は彼の思想形成に重要な時期となった。当時フラ ンコはフランス語の『反コミンテルン国際協約雑誌』を定期購読していて、その反ボルシェヴィキ論とファシズム礼賛の論陣を読んでいたのだ。1929年には ドイツ陸軍の招待を受けて、ドレスデン歩兵士官学校を訪問する。プロシア以来のドイツ軍隊文化に触れて深い感銘を受けたらしい。この「軍隊文化」というの は、各地にある固有の伝統に根ざす「聯隊文化」である。「聯隊」は郷土の歴史と伝統を重んじ、地域住民の崇敬を受ける存在であった。フランコはこうした聯 隊崇拝の風土に感銘を受け、彼がドイツ陸軍へ傾倒する契機となったのである。(色魔力夫 『フランコ スペイン現代史の迷路』 中央公論新社 2000年 p.46) 我が国でも、乃木希典大将や川上操六大将がドイツに留学して、ドイツの軍人精神と尚武の気風に感動したのと似ている。
当初フランコ将軍は政権闘争には慎重であったが、共和国が左右の政党で分離し抗争が激化したので、反政府側に立って軍を指揮したのである。フランコ将軍の 政治介入は、右派政党に共鳴したというより、共産主義勢力を排除して、祖国優先主義に基づく伝統保守を重要視したからである。だから将軍は左翼から罵られ る国粋主義者というより、祖国の歴史と安寧を第一に考える現実主義者とみた方がよい。スペイン内戦は1936年に国防軍が、左翼共和政に叛旗を翻して反乱 軍となったことで始まった。約三年の長期武力紛争を経て1939年に、反乱軍側が全国を圧制したことで終結したのである。この内戦を詳しく述べると長く なってしまうので、あとは歴史書に譲として、日本人が知るべき事実を少し述べてみたい。
左翼政権の横暴
我が国では経済学部や法学部、教育学部など文系の学界は左翼教授に制圧されているので、まともな教育が大学生に施されないどころか、自覚症状無き精神異 常者にされてしまうケースが非常に多い。歴史学界は日本人とは思えない真っ赤に染まった「ロクでなし」で埋め尽くされているから、フランコ将軍は共産主義 者を弾圧したファシストと烙印を押されたままである。したがって、スペインで左翼活動家や共産主義勢力がどんな非道を行っても、黙認されてしまうのだ。た とえば、マドリッドやバルセロナでは共産主義者や無政府主義者が無法者となって、やりたい放題の暴挙を実行していた。たとえば、ロペス・オチョア (Eduardo López Ochoa)将軍は共和国側についていたが、アストゥリアス地方で暴徒を鎮圧し、人民戦線の左翼指導者を投獄してしまった。すると左翼側は彼をアストゥリ アスの屠殺人(el verdugo de Austurias)と呼んだのである。内戦が勃発すると、暴徒が入院中だった将軍を襲撃し、病院の中庭に引きずり出した。この兇暴な赤い集団は、そこで 将軍の首を刎ね殺してしまったのだ。血に飢えた不逞の輩(やから)は、その生首を棒に刺しマドリット市街に晒(さら)したのである。(Julius Ruiz, The 'Red Terror' and the Spanish Civil War, Cambridge University Press 2012 p.158)これじゃスペイン版フランス革命みたいな虐殺である。
革命家のやり口はどこでも同じで、その牙は国家の伝統や信仰に向かうのだ。フランス革命やロシア革命でもお馴染みの教会弾圧である。左翼は国家を根底か ら破壊することを信条とするから、郷土に根を張る宗教組織を抹殺しようとするのだ。スペイン内戦でも教会は中立を守って闘争に介入したくなかったが、心情 的にはナショナリストの反乱軍側に好意を寄せる者が多かった。アナーキストに信仰心などひとかけらもないから、聖職者を殺すことに抵抗はない。日本人で神 主を殺すなんて考えられない。猫だって化けて夢に現れるくらいだから、普通の日本人は神様に仕える神主や巫女を殺せないのだ。共和国政府側地域において、 28個の司教区があり、大司教は全員無事だったが、司教は内戦勃発時から合計25名が犠牲となった。ただし、一般聖職者の殺害はものすごい数に上る。内戦 全期間で神父が4,184人、修道士が2,356人、修道女が283人、合計 6,823名が犠牲者となった。(『フランコ』p.130および Sarah Metts, The Siege of the Alcázar, Catholic News Agency) 共産主義者や無政府主義者による教会施設の破壊と放火は枚挙にいとまがない。バルセロナでは、カテドラルと修道院一つを例外として、すべての教会や修道院 が破壊されるか放火されるかの惨劇にあった。こうした事実を教えないから、日本の若者は学校教師を信用しないのだ。
ユダヤ人コミュニストの介入
近代ヨーロッパ史で事あるごとに暗躍するのがユダヤ人である。スペインではユダヤ人は迫害されたり、追放されたりの歴史があるのに、招待されてもいない のにスペイン乗り込んできて、悪行の限りを尽くしたのである。まるで火事が大好きな放火魔みたいな人種である。スペインで赤色テロが起きると早速ソ連が手 を突っ込んできた。ソ連秘密警察のアレクサンドル・オルロフ(Aeksandr Mikhailovich Orlov)がモスクワから派遣され、テロ活動を支援した。日本の歴史教科書では、全体主義国のイタリア(ムッソリーニ)やドイツ(ヒトラー)が、ファシ スト独裁者のフランコ将軍を支援したと強調している。しかし、ソ連は2千名以上の人員をスペインに送り込むと同時に、軍需品や兵器を供給したのである。も ちろん代金はたっぷり頂戴した。共和国政府は軍事物資を調達するため、5億1800万ドルも使ったという。外貨準備として大量のゴールドを保有していたス ペインはそれを換金して、7億1400万ドルを得ると4分の3がモスクワに流れ、残りの4分の1がパリの銀行に保管されたという。(Julián Casanova, THe Spanish Republic and Civil War, Cambridge University Press, 2000 p.231)
悪名高いソ連の秘密警察NKVD(内務人民委員部)に所属していたオルロフとは、じつはユダヤ 人で本名はレイバ・ラザレヴッチ・フェルドビン(Leiba Lazarevich Feldbin)である。ただし、1920年以降の正式名はレフ・ニコルスキー(Lev Nikolsky)となり、フランスでの作戦に従事していた頃はレオン・ニコラエフ(León Nikolaeff)と名乗っていた。トロツキーの様な革命家やアメリカのユダヤ移民を調べれば分かるが、ユダヤ人はよく自分の名前を変えてユダヤ人の正 体を隠そうとするから、我々日本人は西洋史を学ぶとき名前だけで早合点してはならない。スペイン内戦には共和国政府に外国人が加勢したことは周知の通り。 国際旅団(International Brigade)が有名だが、その実態はスターリンから派遣された共産主義者の殺人集団である。
この国際旅団には、米国からミルトン・ウルフ(Milton Wolff)やレオン・ローゼンタール(Leon Rosenthal)といったユダヤ人共産主義者に加えて、ユダヤ教のラビであるハイマン・カッツ(Rabbi Hyman Katz)まで参加していた。英国からはホモのジョージ・ネイサン(George Nathan)、ドイツからはカート・ヤリウス・ゴールドシュタイン(Kurt Julius Goldstein)が駆けつけた。しかもポーランドからは、ユダヤ人から成るドムブロウスキー旅団(Dombrowski Brigade)が加勢し、さらにその下部組織ナフタリ・ボトウィン中隊(Naftali Botwin Company)まで引き連れてきたのである。ユダヤ詩人のオレク・ヌス(Olel Nuss)やヘンリィ・トルンチック(Henryk Torunczyk)がいたという。(詳しくはAlbert Prago , Jews in the International Brigades, Jewish Currents, Vol. 13, 1979を参照) まったくユダヤ人は根っから共産主義愛好家なのか、それとも政治暴動にひかれる民族なのか判断に困る。しかし、トラブル・メーカーであ ることは確かだ。スペイン人だって呆れてまたユダヤ人追放をしたくなるだろう。
晩年のフランコ将軍は自身が帝王教育をほどこした「海 軍少尉ファン・カルロス」を後継者に決めていて、ファン・カルロスの父「王位継承権保持者」のドン・ファンではなかった。アルフォンソ13世の四男である ドン・ファンからすれば、自分がフランコ亡き後国王につくつもりだったし、正統な継承者だと主張していた。しかし、ドン・ファンと確執があったものの、最 後まで将軍は若きファン・カルロスを自分の後釜に据えることを譲らなかった。1975年11月20日にフランコ将軍が死去し、翌22日にファン・カルロン 1世がスペイン国王に即位したのである。そのファン・カルロス1世も2014年6月に王位を子息フェリペ王子に譲ることになった。こうしてレティシア王妃 を伴うフィリペ6世が誕生したのである。フランコ将軍は共産主義者やユダヤ人左翼の魔の手を切断して、ファシスト呼ばわりされながらも祖国を救ったのだか ら、本当に英雄であった。我々も左翼には断固戦うべきである。
(レオノール王女/レティシア妃/ソフィア王女)
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(レティシア妃)
第一次世界大戦が勃発する前までは、ヨーロッパ諸国に王室があるのは当然であった。フランスを例外としてドイツやオーストリアの王朝が消滅するとは誰も 予測しなかった。名門ハプスブルク家がいなくなったウィーンなど、明かりの消えたカフェみたいだ。やはり王様がいないと庶民は元気が出ない。お祭りだって 王族が出席してこそ盛り上がるし、神様だって踊りたくなる。軍人だって勲章はやはり王様から授与される方がいい。アメリカ軍人だってクリントンやオバマな んかより、エリザベス女王から頂きたいだろう。日本の自衛官なら叙勲式で、菅直人や福田康夫から貰うくらいなら、辞退したいと言いかねない。天皇陛下が下 賜されるから勲章が輝くのである。我々日本人は神様の子孫がいらっしゃるから幸せ。スペインはひととき王室が消滅してしまったから、本当に危ないところで あった。
(レオノール王女)
いまではスペイン国民がお祭りや式典で王族を拝することは当然のこととなった。スペインの民衆にとって嬉しかったのは、フェリペ王子が美豹のジャーナリ ストであるレティシア・ロカサラノ(Letizia Ortiz Rocasolano)女史とご成婚されたことである。笑顔が魅惑的な美人のプリンセスが誕生したのだから、スペインの男どもばかりではなく、女子供老人 までもがはしゃいでしまった。新国王フェリペ6世陛下には、可愛らしいレオノール王女とソフィア王女がお生まれになったから、国民は感謝感激だ。こうした 国民的幸福は何と独裁者のフランコ将軍がもたらしたのである。
日本の歴史教科書では、スペインの歴史はレコンキスタや大航海時代、南 米での大虐殺と植民地化くらいしか触れない。スペインの内戦は、ピカソの絵画「ゲルニカ」で言及するくらいだ。フランコ将軍はたんに独裁者として紹介され るのみ。詳しい経緯は省略。高校生にとって試験に出ないことは無視してもよい。したがって、ほとんどの日本人はスペイン史には興味がない。しかし、スペイ ン近代史は皇室を戴く我が国民にはとても重要な教訓となるから、ちょっとだけ紹介したい。
第19世紀は社会主義の全盛期だった。ヨー ロッパのみならず日本やアジアでもマルクス主義の嵐が吹き荒れて、国家体制の破壊が激化したのである。スペインも例外ではなく、社会主義者とか共産主義者 が暴れまくって、國體(こくたい)を麻のごとく乱していたのだ。スペイン近代史で特筆すべき点は、無政府主義者が共産党よりも無視できぬほど強力な社会的 勢力になったことである。無政府主義者集団(Anarcosindicalismo)の系統には、「全国労働聯合(CNT)」と「イベリア無政府主義者同 盟(FAI)」があり、反政府を掲げて武装蜂起をしたくらいだ。こうした中で、第一次大戦では中立を保ったが、カタルーニャ独立運動の蠢動(しゅんどう) や左翼政党による社会騒擾、プリモ・リベーラ将軍の軍事独裁、モロッコ戦争の泥沼化などが起こったのである。そして1931年の統一地方選挙で共和派が勝 利すると、国王アルフォンソ13世はフランスへ退去し、第二共和政が成立してしまった。左翼政権下にあったスペインでは、陸軍将校がこの第二共和制政府に 対してクーデタを起こし、内戦勃発となった次第である。
フランシスコ・フランコ将軍は祖父や父親が海軍に勤務する家庭に生まれた。ただし祖父も父親も海軍経理士官であったので、上流階級の家柄ではなく小市民 の地位にあったといえよう。フランコ青年は当初、家業ともいうべき海軍士官を目指したが、軍縮のしわ寄せで新規募集が無くなってしまった。そこでやむを得 ず、トレドの陸軍歩兵士官学校に入学したのである。士官学校を卒業して陸軍少尉に任官した後、モロッコ駐屯軍に配属になった。戦争の武勲により21歳で大 尉になり、ゲリラ掃討作戦では負傷するが、その功績により少佐に昇進したのである。28歳の時にはスペインの外人部隊が創設され、その第一大隊長に抜擢さ れる。1926年フランコは33歳の若さで准将に昇進するという快挙をなす。こんな異例の出世は戦前の日本男子にとったら羨望の的であであろう。
1923年にカタルーニャ軍管区司令官のプリモ・リベーラ将軍が、政権を奪取して独裁制を敷いた。この独裁者がフランスの士官学校を模範にして「総合士 官学校」を創設し、フランコはサラゴサの総合士官学校の校長に任命されたのである。フランコのサラゴサ勤務は彼の思想形成に重要な時期となった。当時フラ ンコはフランス語の『反コミンテルン国際協約雑誌』を定期購読していて、その反ボルシェヴィキ論とファシズム礼賛の論陣を読んでいたのだ。1929年には ドイツ陸軍の招待を受けて、ドレスデン歩兵士官学校を訪問する。プロシア以来のドイツ軍隊文化に触れて深い感銘を受けたらしい。この「軍隊文化」というの は、各地にある固有の伝統に根ざす「聯隊文化」である。「聯隊」は郷土の歴史と伝統を重んじ、地域住民の崇敬を受ける存在であった。フランコはこうした聯 隊崇拝の風土に感銘を受け、彼がドイツ陸軍へ傾倒する契機となったのである。(色魔力夫 『フランコ スペイン現代史の迷路』 中央公論新社 2000年 p.46) 我が国でも、乃木希典大将や川上操六大将がドイツに留学して、ドイツの軍人精神と尚武の気風に感動したのと似ている。
当初フランコ将軍は政権闘争には慎重であったが、共和国が左右の政党で分離し抗争が激化したので、反政府側に立って軍を指揮したのである。フランコ将軍の 政治介入は、右派政党に共鳴したというより、共産主義勢力を排除して、祖国優先主義に基づく伝統保守を重要視したからである。だから将軍は左翼から罵られ る国粋主義者というより、祖国の歴史と安寧を第一に考える現実主義者とみた方がよい。スペイン内戦は1936年に国防軍が、左翼共和政に叛旗を翻して反乱 軍となったことで始まった。約三年の長期武力紛争を経て1939年に、反乱軍側が全国を圧制したことで終結したのである。この内戦を詳しく述べると長く なってしまうので、あとは歴史書に譲として、日本人が知るべき事実を少し述べてみたい。
左翼政権の横暴
我が国では経済学部や法学部、教育学部など文系の学界は左翼教授に制圧されているので、まともな教育が大学生に施されないどころか、自覚症状無き精神異 常者にされてしまうケースが非常に多い。歴史学界は日本人とは思えない真っ赤に染まった「ロクでなし」で埋め尽くされているから、フランコ将軍は共産主義 者を弾圧したファシストと烙印を押されたままである。したがって、スペインで左翼活動家や共産主義勢力がどんな非道を行っても、黙認されてしまうのだ。た とえば、マドリッドやバルセロナでは共産主義者や無政府主義者が無法者となって、やりたい放題の暴挙を実行していた。たとえば、ロペス・オチョア (Eduardo López Ochoa)将軍は共和国側についていたが、アストゥリアス地方で暴徒を鎮圧し、人民戦線の左翼指導者を投獄してしまった。すると左翼側は彼をアストゥリ アスの屠殺人(el verdugo de Austurias)と呼んだのである。内戦が勃発すると、暴徒が入院中だった将軍を襲撃し、病院の中庭に引きずり出した。この兇暴な赤い集団は、そこで 将軍の首を刎ね殺してしまったのだ。血に飢えた不逞の輩(やから)は、その生首を棒に刺しマドリット市街に晒(さら)したのである。(Julius Ruiz, The 'Red Terror' and the Spanish Civil War, Cambridge University Press 2012 p.158)これじゃスペイン版フランス革命みたいな虐殺である。
革命家のやり口はどこでも同じで、その牙は国家の伝統や信仰に向かうのだ。フランス革命やロシア革命でもお馴染みの教会弾圧である。左翼は国家を根底か ら破壊することを信条とするから、郷土に根を張る宗教組織を抹殺しようとするのだ。スペイン内戦でも教会は中立を守って闘争に介入したくなかったが、心情 的にはナショナリストの反乱軍側に好意を寄せる者が多かった。アナーキストに信仰心などひとかけらもないから、聖職者を殺すことに抵抗はない。日本人で神 主を殺すなんて考えられない。猫だって化けて夢に現れるくらいだから、普通の日本人は神様に仕える神主や巫女を殺せないのだ。共和国政府側地域において、 28個の司教区があり、大司教は全員無事だったが、司教は内戦勃発時から合計25名が犠牲となった。ただし、一般聖職者の殺害はものすごい数に上る。内戦 全期間で神父が4,184人、修道士が2,356人、修道女が283人、合計 6,823名が犠牲者となった。(『フランコ』p.130および Sarah Metts, The Siege of the Alcázar, Catholic News Agency) 共産主義者や無政府主義者による教会施設の破壊と放火は枚挙にいとまがない。バルセロナでは、カテドラルと修道院一つを例外として、すべての教会や修道院 が破壊されるか放火されるかの惨劇にあった。こうした事実を教えないから、日本の若者は学校教師を信用しないのだ。
ユダヤ人コミュニストの介入
近代ヨーロッパ史で事あるごとに暗躍するのがユダヤ人である。スペインではユダヤ人は迫害されたり、追放されたりの歴史があるのに、招待されてもいない のにスペイン乗り込んできて、悪行の限りを尽くしたのである。まるで火事が大好きな放火魔みたいな人種である。スペインで赤色テロが起きると早速ソ連が手 を突っ込んできた。ソ連秘密警察のアレクサンドル・オルロフ(Aeksandr Mikhailovich Orlov)がモスクワから派遣され、テロ活動を支援した。日本の歴史教科書では、全体主義国のイタリア(ムッソリーニ)やドイツ(ヒトラー)が、ファシ スト独裁者のフランコ将軍を支援したと強調している。しかし、ソ連は2千名以上の人員をスペインに送り込むと同時に、軍需品や兵器を供給したのである。も ちろん代金はたっぷり頂戴した。共和国政府は軍事物資を調達するため、5億1800万ドルも使ったという。外貨準備として大量のゴールドを保有していたス ペインはそれを換金して、7億1400万ドルを得ると4分の3がモスクワに流れ、残りの4分の1がパリの銀行に保管されたという。(Julián Casanova, THe Spanish Republic and Civil War, Cambridge University Press, 2000 p.231)
悪名高いソ連の秘密警察NKVD(内務人民委員部)に所属していたオルロフとは、じつはユダヤ 人で本名はレイバ・ラザレヴッチ・フェルドビン(Leiba Lazarevich Feldbin)である。ただし、1920年以降の正式名はレフ・ニコルスキー(Lev Nikolsky)となり、フランスでの作戦に従事していた頃はレオン・ニコラエフ(León Nikolaeff)と名乗っていた。トロツキーの様な革命家やアメリカのユダヤ移民を調べれば分かるが、ユダヤ人はよく自分の名前を変えてユダヤ人の正 体を隠そうとするから、我々日本人は西洋史を学ぶとき名前だけで早合点してはならない。スペイン内戦には共和国政府に外国人が加勢したことは周知の通り。 国際旅団(International Brigade)が有名だが、その実態はスターリンから派遣された共産主義者の殺人集団である。
この国際旅団には、米国からミルトン・ウルフ(Milton Wolff)やレオン・ローゼンタール(Leon Rosenthal)といったユダヤ人共産主義者に加えて、ユダヤ教のラビであるハイマン・カッツ(Rabbi Hyman Katz)まで参加していた。英国からはホモのジョージ・ネイサン(George Nathan)、ドイツからはカート・ヤリウス・ゴールドシュタイン(Kurt Julius Goldstein)が駆けつけた。しかもポーランドからは、ユダヤ人から成るドムブロウスキー旅団(Dombrowski Brigade)が加勢し、さらにその下部組織ナフタリ・ボトウィン中隊(Naftali Botwin Company)まで引き連れてきたのである。ユダヤ詩人のオレク・ヌス(Olel Nuss)やヘンリィ・トルンチック(Henryk Torunczyk)がいたという。(詳しくはAlbert Prago , Jews in the International Brigades, Jewish Currents, Vol. 13, 1979を参照) まったくユダヤ人は根っから共産主義愛好家なのか、それとも政治暴動にひかれる民族なのか判断に困る。しかし、トラブル・メーカーであ ることは確かだ。スペイン人だって呆れてまたユダヤ人追放をしたくなるだろう。
晩年のフランコ将軍は自身が帝王教育をほどこした「海 軍少尉ファン・カルロス」を後継者に決めていて、ファン・カルロスの父「王位継承権保持者」のドン・ファンではなかった。アルフォンソ13世の四男である ドン・ファンからすれば、自分がフランコ亡き後国王につくつもりだったし、正統な継承者だと主張していた。しかし、ドン・ファンと確執があったものの、最 後まで将軍は若きファン・カルロスを自分の後釜に据えることを譲らなかった。1975年11月20日にフランコ将軍が死去し、翌22日にファン・カルロン 1世がスペイン国王に即位したのである。そのファン・カルロス1世も2014年6月に王位を子息フェリペ王子に譲ることになった。こうしてレティシア王妃 を伴うフィリペ6世が誕生したのである。フランコ将軍は共産主義者やユダヤ人左翼の魔の手を切断して、ファシスト呼ばわりされながらも祖国を救ったのだか ら、本当に英雄であった。我々も左翼には断固戦うべきである。
(レオノール王女/レティシア妃/ソフィア王女)
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