無敵の太陽
主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。
2014年11月
幼年時代から英邁だった明治天皇
明治天皇は日本史に燦然と輝くお天道様である。太陽が無いと地球上の生物は死滅するように、皇室がないと日本人は存在しない。しかし、敗戦後は日教組に より天皇陛下の御聖蹟(ごせいせき)や皇室伝統について教えることは無くなってしまった。左翼教師から「皇国史観だ、軍国主義だ」と批判され、日本史を習 う青年が皇室を何も知らずに卒業しててしまうのである。英国史を学ぶ生徒がイングランド国王についての知識が無いまま、卒業となったら誰だって驚愕してし まうだろう。皇室あっての我が国なのに、天皇陛下について庶民が全く無知というのは異常である。そこで明治天皇について数あるエピソードの幾つかを紹介し たい。
明治天皇御諱(いみな/実名)は睦仁(むつひと)、孝明天皇の第二の皇子であった。御生母は中山忠能(なかやまただよし)の娘、督権典侍(こうのごんすけ)中山慶子(なかやまけいこ)。孝明天皇が幼き明治天皇を祐宮(さちのみや)と名づけられた。
ご幼少の明治天皇を物語る面白いエピソードがある。宮はご幼少の頃より馬を好まれた。ある時、関白近衛忠煕(このえただひろ)が参殿したときに、宮は 「じいや馬になれ、腹ばいへ」と仰せになった。ご無理と申し上げるが、やむなく膝を折って宮を乗せられたのである。宮は「はいどうどう」と仰って遊ばれ た。摂政関白を四つん這いにさせて馬乗りにしたのは、藤原氏を除いてご幼少の大帝以外にないであろう。( 山本八之烝 『嗚呼 明治大帝』 明治大帝報徳會 大正11年 p.13)
陛下がまだ7歳の時、英照皇太后が木馬をご褒美に賜わ されたところ、非常にお気に入りとなり、毎朝その木馬に乗られたそうである。四足の下に車が取り付けられた木馬に跨り、朱色の手綱をつけ、お側の稚児らに 曳かせて廊下をゴロゴロと行き来していたのである。ある日、何かの弾みでその木馬が壊れてしまい、修理するのに手間が掛かってしまうこととなった。宮はし きりに木馬をせがんだが、容易に直せないから仕方ない。そこで宮がどうしてもせがむので、御局に仕える菊崎という女性(女房)が、「御馬の代わりになりま しょう。いざ、菊崎の背にお召させ給え」と言うと、四つん這いになって進み出た。これを見て宮は「これは良き馬ぞ」とお笑いになりながら、ひらりと跨った のである。
藤崎という女性(女房) が緋色の紐を持ってきて、これを手綱とされるよう進言した。藤崎の口にくわえさせ、手綱代わりとなされた。木馬よりも興味を示された宮は、名馬「菊崎」に 鞭打ってご参内されたのである。廊下の角に来ると、宮は菊崎に「馬や、ひひんと啼(な)け」と仰った。菊崎が「ひひん」と申せば、ご満足の宮であった。こ うして菊崎らを局に帰らせるとき、宮は「権典侍(ごんすけ/御生母)、秣(まぐさ)をたべさせよ、秣は着物がよかろう」と仰った。ご生母慶子が「今日は間 に合わぬので、明日にでも仕立てて差し上げましょう」と申したそうだ。宮は「然らば、まづこれを取らすぞ」と仰り、お菓子や大切な玩具を菊崎・藤崎に賜っ たのである。両名は宮の大御心(おおみごころ)に心を動かされ、感泣したという。(秋山pp.3-5)
帝王になる御学問
皇室の教育は我々庶民とかけ離れている。天皇陛下が一般人とは比較にならぬほど教養が深く、驚くほど学問の筋が良いのは当然かもしれない。祐宮5歳の時 に手習いを始め、漢書は四書五経の素読で伏原宣諭(ふせはらのりさと)卿がご教授申し上げて、國書は中山忠能卿がご教授申し上げた。和歌の稽古は7、8歳 の頃より始められた。陛下が常に和歌を詠まれたのをわれわれは知っている。しかし、平民の世界で言えば、幼稚園児から漢籍の英才教育などまず有り得ない。 しかも、明治の元勲や軍人といった学問を積んだ武士に囲まれた上に、一流の知識人が御教育掛に選ばれたのである。
明治天皇の侍講は豪 華な顔ぶれが揃っていた。熊本藩士の儒者、元田永孚(もとだながさね)は朱子学の大家で有名だ。高辻修長(たかつじのぶなが)博士や権中納言・冷泉為理 (れいぜんためただ)、平田篤胤の子孫である平田鐵胤(ひらたかねたね)も侍講としてご教育の任務を果たした。また、外務卿として有名な副島種臣(そえじ またねおみ)は、漢籍の知識は超一級、政界でも威信を放つ豪傑であった。こうした一流の師を重んぜられた明治天皇は、熱心に学問を積まれ、卓越した資質を もつ名君に成長なされたのである。陛下は「少しでも疑わしきことあれば、充分に御質問あって御會得の行かざるまでは捨て置き給わず何事においても徹底しな いと気が済まないご性格であったので、ご政務についても同様でいらした。」( 秋山四郎 『講話資料』 大日本圖書株式會社 大正2年 p.15)
陛下は何事にも深くご注意あそばされ、一切の政治は自らご裁可され各種の条例法規が制定された経緯をよくご記憶なされていた。ことさら明治天皇の記憶力 は卓越していたのである。一方、大臣らはよく交代していたので、調査が行き届かず、政治問題などについて奏上(そうじょう)したときに、陛下からご下問さ れると答えに窮することがあった。ご質問は急所を突くものだったりするので、よほど調査してからでないと、大臣は陛下の御前に出られない。実に周到なご質 問を給わった元老大官などでも冷や汗を流したことがあるという。( 勝原権之助編 『御德高き明治天皇』 柳澤盛栄堂 大正元年 pp.67-68) 陛下は万事筋道を通し、条理に背くことは決してお取り上げにならなかった。しかし、お心が広い陛下は一言の下にお叱りになることはなかった。
宮のご性質は質実剛健にて、懦弱(だじゃく) を嫌われたのである。ご愛読書も、源平盛衰記、太平記、太閤記などの軍記物で、雨の夜には御学友を集めて、源平の合戦、建武の中興の御事蹟、新田貞義・楠 正成の誠忠、豊臣秀吉の朝鮮征伐を語ったという。遊びは乗馬の他に相撲を好まれ、御学友と相撲を取ったりした。御体格も良かったので皆を負かしたという。 (秋山 pp.15-16)
明治天皇は新しい日本を率先して体現なされた。宮中の伝統を変革しする陛下は、軍服を召されて西洋君主の ように振る舞われた。まるで剛直な武家の棟梁のようである。陛下は、まさに男らしい才幹(virtu)を発揮されたのだ。古来から朝廷、幕府、大名家に至 るまで女性の権力が強いため、君徳を傷つけ御政道を乱したことがあった。明治天皇は宮中を厳格にして、女性がいっさい政道に容喙(ようかい)せぬよう定め た。帝は後宮にいるより、強者(つわもの)揃いの侍従とご一緒だった。村田新八、高島鞆之助、有地品之允、山岡鐵太郎、米田虎雄と過ごされ、元来英気盛ん なご性質の天皇陛下は、更に一層英気を養ったのである。
臣下との交友
吹き上げ御所には鳩かが多く棲んでいて、侍従らが射てそれを陛下に示したが、やがて撃ち尽くしてしまった。有地品之允(ありちしなのじょう)が御濠に群 れる雁を射留めて大いに得意がり、これを献上しようとした。しかし、御濠の雁ではお咎めを受けるのではと推測した有地は、空飛ぶ雁を射留めたりと申し上げ た。高島鞆之助(たかしまとものすけ)が手に取って頭部の傷口を調べると、「これは上から射られた傷なり」と高島の嘘が見破られてしまった。当惑した品之 允をご覧になった陛下はお笑いになり、有地にはお咎めは無かったという。周りの者からは、「御濠に銃を放つは不埒至極なり」と責められ、品之允はしょげ 返ったらしい。その後、品之允を見かけた陛下は「有地、雁はどうじゃ、射て参らせぬか」とお声を掛けられ、叱られた品之允を慰めた。君臣水魚の親しさは麗 しいものである。
習志野にて大演習があった。近衛都督陸軍大将の西郷隆盛を始め、陸軍少将篠原國幹(しのはらくにもと)や野津道貫 (のづみちつら)がお供をした。明治天皇は自ら剣を翳して先頭に立たれ、馬に跨り宮城から習志野まで兵を率いたのである。大元帥陛下が抜刀して兵を率いる は世界に例がないことで、爽快なる御姿は誰もが慴伏(しょうふく)せずにはいられなかった。演習中には露営すること二晩、士卒と辛苦を共にするという陛下 のお考えであった。ある夜は雨風が強く吹き、陛下の天幕が倒れてお体が濡れてしまったのである。部下の手を患わせぬためご自身で天幕を引き起こそうとなさ れた。別の天幕で寝ていた西郷隆盛が物音に気づいて目を覚まし、倒れた天幕へ向かい、闇を覗くとそこに陛下のお姿を発見したのである。「そこにおはします は陛下では」と訪ねた。「いかにも朕なり、天幕倒れたれば、起さんとするなり」と仰った。西郷は驚き、早速天幕を引き起こそうとするが力が及ばず、部下を 呼ぼうとした。すると陛下は「起こすな」と申しつけた。しかし、そこは従わずに部下を呼び起こして天幕を直させたのである。
陛下の傷病兵の御慰問
西郷隆盛が下野して薩摩に帰ったら、不平士族に担がれ西南戦争が起こり、未曾有の戦乱となってしまった。激戦ゆえに死傷者多数にのぼり、官軍だけでも死 者6000人に達し、それに負傷者が加わった。陛下は陸軍臨時病院を設けさせ、傷病兵を療養させたのである。陛下は患者らを御慰問された。身体が自由にな る者は寝台を降りて、右側に立って敬礼をし、体が動かぬ者は寝台の上から敬礼をした。寝たきりの者は目礼をして敬礼の代わりとした。
ある患者は寝台の上に坐っていたが、敬礼しようとした際、激痛を感じ眉をしかめた。陛下はこれを御覧になり、その部屋を出たあと、院長の石黒忠悳・一等軍 医に対し、朕に敬礼するために苦痛を増すことがあってはならぬ、朕がここに臨む趣意に背くから、次の部屋の患者にはあらかじめよく伝えておくよう命じた。 このお言葉を頂いた石黒院長とお供の木戸孝允や側近の者は皆感涙にむせんだ。石黒は次室の入口で、そのお言葉を患者一同に伝えようとしたが、感激のあまり 声が出ない。ようやく伝達すると、これを聞いた傷病兵らも皆感泣したという。(渡邊幾治郎 『明治天皇の聖德 軍事』 千倉書房 昭和16年 pp.99-100) 皆このような陛下の御為ならは命も惜しくはないと思ったそうである。
日清戦争の時、陛下は常に戦地の将兵を気 になされており、戦況の報告だと深夜といえども起床なされ、臣下を召されて子細に軍の行動をお調べになった。常に戦地におられるかの如く、御服は何時も軍 服を召されていたのである。同じ軍服をずっとお召しになっていたので、服の裏が破れてしまった。侍従の日野西資博が新しい服と交換しては、と申し上げても 中々お許しにならない。陛下は「まだよい、今夜脱いでおく故、修繕しておけ」と仰る。そこで日野西が不器用な手つきで針をもって繕ったが、むろん上手く縫 えていない。翌日陛下はこれをお召しになって「日野西、御前なかなか裁縫がうまい」とお褒めの言葉を下さる。
陛下はいつもご自分が一 兵卒であるかのように心がけていらした。戦場で命懸けの激戦に堪える将兵を思ってのことである。侍臣が陛下を気遣って長椅子を御座所に備え付けようとお伺 いを申し上げると、陛下は「それは何だ」とお尋ねになる。「これはご休息あそばされる安楽椅子でございます」と答えた。すると陛下は「戦地に安楽椅子が備 え付けてあるのか」とお尋ねになった。このお言葉ひとつで安楽椅子は御座所に備えられることはなかった。( 渡邊 上掲書 pp.200-201)
ある演習の時の出来事である。陛下は丘陵の下を過ぎようとしたとき、一兵卒が苦しそうに息をして路傍に倒れていた。そこで陛下は侍従武官を呼び、「急病 と見ゆ、侍医に診察させよ」と仰った。侍従武官はその兵卒を抱き起こし、侍医と共に介護したのである。その後、侍従武官はその助けた兵に陛下のお心使いを 伝えたところ、兵は「かく卑しき一兵卒の身をもって天皇陛下の御高恩に浴す。今は死すとも遺憾なし」と言い、感泣していたのである。
我が軍の兵に涙
明治34年に仙台地方で大演習が行われたときの話である。天皇陛下は岡澤侍従武官長に命じて入隊年次の異なる兵卒二人を呼び出した。陛下の御前に新潟県日越村出身の長谷川二四郎・一等兵と同県有田村出身の
高橋久之助・二等兵か現れた。陛下は両名にいろいろとご質問された。
「父母兄弟のことを思い、故郷を想う情に堪えないか」
「故郷を想い退営したいと思ったことはないのか」
「連日の演習に疲れて兵役の苦労に泣くことはないのか」
とお尋ねになり、上手く答えずとも良い、正直に思ったままを申すよう命じたのである。この木訥な兵卒らは、この御下問に答えるべく口を開いた。
「お答えします。男子として兵役に就くことが出来ないことは恥辱であります。我らは幸いにして健康の身体をもって入営することができたのは一身の光栄で あります。我々は真に愚かな者でありますが、国家有事の日には、上は皇室、下は国民の為に忠義を尽くすことが出来れば我々の光栄であります。我々が入営す るとき父母兄弟は喜んで我々を送り、我々が名誉を得ることを冀(こいねが)っていました。我々は兵役を苦しいと思ったことはありません。わずか数日の演習 を厭うようでは軍人の本分に違うものであります。・・・我々は困苦と戦い缺乏(けつぼう)に堪えて、忠義を尽くそうと考えております。」
天皇陛下は二人の兵卒を見つめながら時々うなづかれた。そこで陛下は二人にその背嚢(はいのう)を見せよと命じた。両名は背嚢を開き、陛下に中身をお見 せした。底には弁当箱があり、前夜支給された朝昼の二食があった。朝の分は既に食べてしまったので、昼の分が残っていた。見れば半熟の飯に、塩鮭と梅干、 それにに韮(ニラ)があるのみであった。侍従武官長はこれを見て、こんな粗食で不満を抱くこことはないのか、と二人に訪ねた。「我々は一命を国家に捧げた 軍人であります。こればかりの難儀を不平とするようでは、どうして実践に臨まれましょう、我々は卑賤な者であります。この食物で決して不足はありません」 と答えた。
この問答をお聞きあそばされた陛下は、兵卒の境遇を思い、その龍顔(りゅうがん)を背けられた。陛下の目には玉の露が輝い ていた。武官らは二人の奉答と陛下の涙を拝して、感涙に咽(むせ)ばぬ者はいなかった。侍従武官長は陛下に向かって「この二卒は洵(まこと)に軍人の亀鑑 (きかん)であります」と申し上げた。(渡邊 pp.104-107)
どうだろうか、諸君。これは明治天皇の御聖徳のごく一部であ る。こんなに素晴らしい天皇陛下を我々の祖先は敬愛していたのである。学校では左翼の歴史教師らが、皇室を罵倒する一方で、陛下にまつわる珠玉のエピソー ドを一切教えないのだ。洗脳したい子供らが尊皇精神を持っては困るし、日本に誇りを持たれてはまずい。陛下の美談は闇に葬るに限る。しかし、陛下が国民を 愛した事実は闇の中から何度も浮上してくるのだ。明治天皇の御聖徳を聞くと、日本人に生まれて本当によかったと思う。
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明治天皇は日本史に燦然と輝くお天道様である。太陽が無いと地球上の生物は死滅するように、皇室がないと日本人は存在しない。しかし、敗戦後は日教組に より天皇陛下の御聖蹟(ごせいせき)や皇室伝統について教えることは無くなってしまった。左翼教師から「皇国史観だ、軍国主義だ」と批判され、日本史を習 う青年が皇室を何も知らずに卒業しててしまうのである。英国史を学ぶ生徒がイングランド国王についての知識が無いまま、卒業となったら誰だって驚愕してし まうだろう。皇室あっての我が国なのに、天皇陛下について庶民が全く無知というのは異常である。そこで明治天皇について数あるエピソードの幾つかを紹介し たい。
明治天皇御諱(いみな/実名)は睦仁(むつひと)、孝明天皇の第二の皇子であった。御生母は中山忠能(なかやまただよし)の娘、督権典侍(こうのごんすけ)中山慶子(なかやまけいこ)。孝明天皇が幼き明治天皇を祐宮(さちのみや)と名づけられた。
ご幼少の明治天皇を物語る面白いエピソードがある。宮はご幼少の頃より馬を好まれた。ある時、関白近衛忠煕(このえただひろ)が参殿したときに、宮は 「じいや馬になれ、腹ばいへ」と仰せになった。ご無理と申し上げるが、やむなく膝を折って宮を乗せられたのである。宮は「はいどうどう」と仰って遊ばれ た。摂政関白を四つん這いにさせて馬乗りにしたのは、藤原氏を除いてご幼少の大帝以外にないであろう。( 山本八之烝 『嗚呼 明治大帝』 明治大帝報徳會 大正11年 p.13)
陛下がまだ7歳の時、英照皇太后が木馬をご褒美に賜わ されたところ、非常にお気に入りとなり、毎朝その木馬に乗られたそうである。四足の下に車が取り付けられた木馬に跨り、朱色の手綱をつけ、お側の稚児らに 曳かせて廊下をゴロゴロと行き来していたのである。ある日、何かの弾みでその木馬が壊れてしまい、修理するのに手間が掛かってしまうこととなった。宮はし きりに木馬をせがんだが、容易に直せないから仕方ない。そこで宮がどうしてもせがむので、御局に仕える菊崎という女性(女房)が、「御馬の代わりになりま しょう。いざ、菊崎の背にお召させ給え」と言うと、四つん這いになって進み出た。これを見て宮は「これは良き馬ぞ」とお笑いになりながら、ひらりと跨った のである。
藤崎という女性(女房) が緋色の紐を持ってきて、これを手綱とされるよう進言した。藤崎の口にくわえさせ、手綱代わりとなされた。木馬よりも興味を示された宮は、名馬「菊崎」に 鞭打ってご参内されたのである。廊下の角に来ると、宮は菊崎に「馬や、ひひんと啼(な)け」と仰った。菊崎が「ひひん」と申せば、ご満足の宮であった。こ うして菊崎らを局に帰らせるとき、宮は「権典侍(ごんすけ/御生母)、秣(まぐさ)をたべさせよ、秣は着物がよかろう」と仰った。ご生母慶子が「今日は間 に合わぬので、明日にでも仕立てて差し上げましょう」と申したそうだ。宮は「然らば、まづこれを取らすぞ」と仰り、お菓子や大切な玩具を菊崎・藤崎に賜っ たのである。両名は宮の大御心(おおみごころ)に心を動かされ、感泣したという。(秋山pp.3-5)
帝王になる御学問
皇室の教育は我々庶民とかけ離れている。天皇陛下が一般人とは比較にならぬほど教養が深く、驚くほど学問の筋が良いのは当然かもしれない。祐宮5歳の時 に手習いを始め、漢書は四書五経の素読で伏原宣諭(ふせはらのりさと)卿がご教授申し上げて、國書は中山忠能卿がご教授申し上げた。和歌の稽古は7、8歳 の頃より始められた。陛下が常に和歌を詠まれたのをわれわれは知っている。しかし、平民の世界で言えば、幼稚園児から漢籍の英才教育などまず有り得ない。 しかも、明治の元勲や軍人といった学問を積んだ武士に囲まれた上に、一流の知識人が御教育掛に選ばれたのである。
明治天皇の侍講は豪 華な顔ぶれが揃っていた。熊本藩士の儒者、元田永孚(もとだながさね)は朱子学の大家で有名だ。高辻修長(たかつじのぶなが)博士や権中納言・冷泉為理 (れいぜんためただ)、平田篤胤の子孫である平田鐵胤(ひらたかねたね)も侍講としてご教育の任務を果たした。また、外務卿として有名な副島種臣(そえじ またねおみ)は、漢籍の知識は超一級、政界でも威信を放つ豪傑であった。こうした一流の師を重んぜられた明治天皇は、熱心に学問を積まれ、卓越した資質を もつ名君に成長なされたのである。陛下は「少しでも疑わしきことあれば、充分に御質問あって御會得の行かざるまでは捨て置き給わず何事においても徹底しな いと気が済まないご性格であったので、ご政務についても同様でいらした。」( 秋山四郎 『講話資料』 大日本圖書株式會社 大正2年 p.15)
陛下は何事にも深くご注意あそばされ、一切の政治は自らご裁可され各種の条例法規が制定された経緯をよくご記憶なされていた。ことさら明治天皇の記憶力 は卓越していたのである。一方、大臣らはよく交代していたので、調査が行き届かず、政治問題などについて奏上(そうじょう)したときに、陛下からご下問さ れると答えに窮することがあった。ご質問は急所を突くものだったりするので、よほど調査してからでないと、大臣は陛下の御前に出られない。実に周到なご質 問を給わった元老大官などでも冷や汗を流したことがあるという。( 勝原権之助編 『御德高き明治天皇』 柳澤盛栄堂 大正元年 pp.67-68) 陛下は万事筋道を通し、条理に背くことは決してお取り上げにならなかった。しかし、お心が広い陛下は一言の下にお叱りになることはなかった。
宮のご性質は質実剛健にて、懦弱(だじゃく) を嫌われたのである。ご愛読書も、源平盛衰記、太平記、太閤記などの軍記物で、雨の夜には御学友を集めて、源平の合戦、建武の中興の御事蹟、新田貞義・楠 正成の誠忠、豊臣秀吉の朝鮮征伐を語ったという。遊びは乗馬の他に相撲を好まれ、御学友と相撲を取ったりした。御体格も良かったので皆を負かしたという。 (秋山 pp.15-16)
明治天皇は新しい日本を率先して体現なされた。宮中の伝統を変革しする陛下は、軍服を召されて西洋君主の ように振る舞われた。まるで剛直な武家の棟梁のようである。陛下は、まさに男らしい才幹(virtu)を発揮されたのだ。古来から朝廷、幕府、大名家に至 るまで女性の権力が強いため、君徳を傷つけ御政道を乱したことがあった。明治天皇は宮中を厳格にして、女性がいっさい政道に容喙(ようかい)せぬよう定め た。帝は後宮にいるより、強者(つわもの)揃いの侍従とご一緒だった。村田新八、高島鞆之助、有地品之允、山岡鐵太郎、米田虎雄と過ごされ、元来英気盛ん なご性質の天皇陛下は、更に一層英気を養ったのである。
臣下との交友
吹き上げ御所には鳩かが多く棲んでいて、侍従らが射てそれを陛下に示したが、やがて撃ち尽くしてしまった。有地品之允(ありちしなのじょう)が御濠に群 れる雁を射留めて大いに得意がり、これを献上しようとした。しかし、御濠の雁ではお咎めを受けるのではと推測した有地は、空飛ぶ雁を射留めたりと申し上げ た。高島鞆之助(たかしまとものすけ)が手に取って頭部の傷口を調べると、「これは上から射られた傷なり」と高島の嘘が見破られてしまった。当惑した品之 允をご覧になった陛下はお笑いになり、有地にはお咎めは無かったという。周りの者からは、「御濠に銃を放つは不埒至極なり」と責められ、品之允はしょげ 返ったらしい。その後、品之允を見かけた陛下は「有地、雁はどうじゃ、射て参らせぬか」とお声を掛けられ、叱られた品之允を慰めた。君臣水魚の親しさは麗 しいものである。
習志野にて大演習があった。近衛都督陸軍大将の西郷隆盛を始め、陸軍少将篠原國幹(しのはらくにもと)や野津道貫 (のづみちつら)がお供をした。明治天皇は自ら剣を翳して先頭に立たれ、馬に跨り宮城から習志野まで兵を率いたのである。大元帥陛下が抜刀して兵を率いる は世界に例がないことで、爽快なる御姿は誰もが慴伏(しょうふく)せずにはいられなかった。演習中には露営すること二晩、士卒と辛苦を共にするという陛下 のお考えであった。ある夜は雨風が強く吹き、陛下の天幕が倒れてお体が濡れてしまったのである。部下の手を患わせぬためご自身で天幕を引き起こそうとなさ れた。別の天幕で寝ていた西郷隆盛が物音に気づいて目を覚まし、倒れた天幕へ向かい、闇を覗くとそこに陛下のお姿を発見したのである。「そこにおはします は陛下では」と訪ねた。「いかにも朕なり、天幕倒れたれば、起さんとするなり」と仰った。西郷は驚き、早速天幕を引き起こそうとするが力が及ばず、部下を 呼ぼうとした。すると陛下は「起こすな」と申しつけた。しかし、そこは従わずに部下を呼び起こして天幕を直させたのである。
陛下の傷病兵の御慰問
西郷隆盛が下野して薩摩に帰ったら、不平士族に担がれ西南戦争が起こり、未曾有の戦乱となってしまった。激戦ゆえに死傷者多数にのぼり、官軍だけでも死 者6000人に達し、それに負傷者が加わった。陛下は陸軍臨時病院を設けさせ、傷病兵を療養させたのである。陛下は患者らを御慰問された。身体が自由にな る者は寝台を降りて、右側に立って敬礼をし、体が動かぬ者は寝台の上から敬礼をした。寝たきりの者は目礼をして敬礼の代わりとした。
ある患者は寝台の上に坐っていたが、敬礼しようとした際、激痛を感じ眉をしかめた。陛下はこれを御覧になり、その部屋を出たあと、院長の石黒忠悳・一等軍 医に対し、朕に敬礼するために苦痛を増すことがあってはならぬ、朕がここに臨む趣意に背くから、次の部屋の患者にはあらかじめよく伝えておくよう命じた。 このお言葉を頂いた石黒院長とお供の木戸孝允や側近の者は皆感涙にむせんだ。石黒は次室の入口で、そのお言葉を患者一同に伝えようとしたが、感激のあまり 声が出ない。ようやく伝達すると、これを聞いた傷病兵らも皆感泣したという。(渡邊幾治郎 『明治天皇の聖德 軍事』 千倉書房 昭和16年 pp.99-100) 皆このような陛下の御為ならは命も惜しくはないと思ったそうである。
日清戦争の時、陛下は常に戦地の将兵を気 になされており、戦況の報告だと深夜といえども起床なされ、臣下を召されて子細に軍の行動をお調べになった。常に戦地におられるかの如く、御服は何時も軍 服を召されていたのである。同じ軍服をずっとお召しになっていたので、服の裏が破れてしまった。侍従の日野西資博が新しい服と交換しては、と申し上げても 中々お許しにならない。陛下は「まだよい、今夜脱いでおく故、修繕しておけ」と仰る。そこで日野西が不器用な手つきで針をもって繕ったが、むろん上手く縫 えていない。翌日陛下はこれをお召しになって「日野西、御前なかなか裁縫がうまい」とお褒めの言葉を下さる。
陛下はいつもご自分が一 兵卒であるかのように心がけていらした。戦場で命懸けの激戦に堪える将兵を思ってのことである。侍臣が陛下を気遣って長椅子を御座所に備え付けようとお伺 いを申し上げると、陛下は「それは何だ」とお尋ねになる。「これはご休息あそばされる安楽椅子でございます」と答えた。すると陛下は「戦地に安楽椅子が備 え付けてあるのか」とお尋ねになった。このお言葉ひとつで安楽椅子は御座所に備えられることはなかった。( 渡邊 上掲書 pp.200-201)
ある演習の時の出来事である。陛下は丘陵の下を過ぎようとしたとき、一兵卒が苦しそうに息をして路傍に倒れていた。そこで陛下は侍従武官を呼び、「急病 と見ゆ、侍医に診察させよ」と仰った。侍従武官はその兵卒を抱き起こし、侍医と共に介護したのである。その後、侍従武官はその助けた兵に陛下のお心使いを 伝えたところ、兵は「かく卑しき一兵卒の身をもって天皇陛下の御高恩に浴す。今は死すとも遺憾なし」と言い、感泣していたのである。
我が軍の兵に涙
明治34年に仙台地方で大演習が行われたときの話である。天皇陛下は岡澤侍従武官長に命じて入隊年次の異なる兵卒二人を呼び出した。陛下の御前に新潟県日越村出身の長谷川二四郎・一等兵と同県有田村出身の
高橋久之助・二等兵か現れた。陛下は両名にいろいろとご質問された。
「父母兄弟のことを思い、故郷を想う情に堪えないか」
「故郷を想い退営したいと思ったことはないのか」
「連日の演習に疲れて兵役の苦労に泣くことはないのか」
とお尋ねになり、上手く答えずとも良い、正直に思ったままを申すよう命じたのである。この木訥な兵卒らは、この御下問に答えるべく口を開いた。
「お答えします。男子として兵役に就くことが出来ないことは恥辱であります。我らは幸いにして健康の身体をもって入営することができたのは一身の光栄で あります。我々は真に愚かな者でありますが、国家有事の日には、上は皇室、下は国民の為に忠義を尽くすことが出来れば我々の光栄であります。我々が入営す るとき父母兄弟は喜んで我々を送り、我々が名誉を得ることを冀(こいねが)っていました。我々は兵役を苦しいと思ったことはありません。わずか数日の演習 を厭うようでは軍人の本分に違うものであります。・・・我々は困苦と戦い缺乏(けつぼう)に堪えて、忠義を尽くそうと考えております。」
天皇陛下は二人の兵卒を見つめながら時々うなづかれた。そこで陛下は二人にその背嚢(はいのう)を見せよと命じた。両名は背嚢を開き、陛下に中身をお見 せした。底には弁当箱があり、前夜支給された朝昼の二食があった。朝の分は既に食べてしまったので、昼の分が残っていた。見れば半熟の飯に、塩鮭と梅干、 それにに韮(ニラ)があるのみであった。侍従武官長はこれを見て、こんな粗食で不満を抱くこことはないのか、と二人に訪ねた。「我々は一命を国家に捧げた 軍人であります。こればかりの難儀を不平とするようでは、どうして実践に臨まれましょう、我々は卑賤な者であります。この食物で決して不足はありません」 と答えた。
この問答をお聞きあそばされた陛下は、兵卒の境遇を思い、その龍顔(りゅうがん)を背けられた。陛下の目には玉の露が輝い ていた。武官らは二人の奉答と陛下の涙を拝して、感涙に咽(むせ)ばぬ者はいなかった。侍従武官長は陛下に向かって「この二卒は洵(まこと)に軍人の亀鑑 (きかん)であります」と申し上げた。(渡邊 pp.104-107)
どうだろうか、諸君。これは明治天皇の御聖徳のごく一部であ る。こんなに素晴らしい天皇陛下を我々の祖先は敬愛していたのである。学校では左翼の歴史教師らが、皇室を罵倒する一方で、陛下にまつわる珠玉のエピソー ドを一切教えないのだ。洗脳したい子供らが尊皇精神を持っては困るし、日本に誇りを持たれてはまずい。陛下の美談は闇に葬るに限る。しかし、陛下が国民を 愛した事実は闇の中から何度も浮上してくるのだ。明治天皇の御聖徳を聞くと、日本人に生まれて本当によかったと思う。
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他人は別の生き物
地球儀を眺めると、日本人は何て不幸なんだ、と思いたくなる。支那人や朝鮮人が隣人となっているのだ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する 大陸や半島から、我々を守ってくれる玄界灘に感謝すべきだろう。しかし、現代ではその天然防壁は無力化されている。支那人が気軽に大量入国してくるのだ。 渡る世間が鬼ばかりか、支那人ばかりになる前に、我々は侵入者を研究しなければならない。
一口に支那人といっても、ピンからキリまで 居るから厄介だ。モンゴル人のように支那人を料理別で分類した方が便利なときもある。だが、地方によってそれぞれ特色がある支那人だが、それでも共通した 気質をもつ。どの民族にも良い人悪い人がいるが、支那人の場合は、良い人は砂金より少なく、悪い人とさらに悪い人、極悪人であふれている。そこで濱野斗南 の『支那人氣質』(世界出版社 大正15年)を参考にして論じよう。
集団生活をする人間には、仲間に対する感情(pathos)をも ち、彼に何か異変が起これば、それを知ったものは自己の感情が共振するものだ。これが同情(sympathy)である。しかし、家族しか知らず国家をもた ぬ支那人には、他人に対する同情がないのである。濱野氏が語る。ある街路に一人の行き倒れが苦しんでいるが、その周囲に大勢の見物人が集まっていたとい う。しかし、誰一人としてこの急病人を助けようとはせず、警察にも知らせなかったらしい。そこへ人だかりを見つけた巡査が通りかかり、職務上しょうがない から病院に担ぎ込むことになったという。その警官は病人を介護するというより、厄介者扱いをしたのである。(pp.30-31) 日本の警察官ならこんなことは絶対ない。支那人は賄賂も取らずに親切にする警官に驚くだろう。支那人は日本に来て始めて見返りのない他人の親切を経験する のである。
支那人には他人への配慮も、公共心もない。最近でも2011年に、広東省の仏山市で起きた幼女ひき逃げ事件を思い出す。繁 華街の道路で2歳の小悦悦が車にひかれて倒れていたが、側を通る大人は誰も助けようとしなかった。すると別の車がその幼女を再び轢いてしまったのである。 監視カメラの映像が世界中に公開されたとき、文明国の人々は驚いた。支那人とは、別の世界に住む非哺乳類である。2012年にも浙江省で、5歳の幼児か轢 かれたが、誰も助けなかったので死亡してしまった。(レコードチャイナ 2012年12月12日) そんなことはない。支那人だって人助けをする。しか し、それは倒れた人を介抱する振りをして、ポケットなどを探って金目の物を物色する場合である。子供だと大金を期待できぬから誰も助けなかったのである。 幼児がローレックスの高級腕時計をしていわけないだろう。
支那人の性格を問われたら何が思い浮かぶだろうか。まづ私利私欲を追求し、 面子を偏重する形式主義者で旧弊因習を墨守する支那人か。いづれにしても、立派で尊敬に値する支那人を連想するのはまず有り得ない。支那人は物欲・金銭欲 がことさら強く、よく言えば節約質素、悪く言えば吝嗇貪欲(りんしょくどんよく)である。その多くは過度の節約と不正な金銭欲に陥っている。たとえば、俥 夫が銅銭1文の相違で口論の果てに警察の厄介になることがある。そんなはした金で延々と口論するなど日本人には馬鹿らしくて出来ないが、支那人には時間が 貴重で、金銭よりも大切なときがあるとことを理解できない。支那社会を貫くのは、公正とか正義、法律ではなく、金銭を得て享楽を手にするという即物的思考 である。政治家や役人の瀆職(とくしょく)はよくあることで、さして珍しくない。賣官(ばいかん)や賄賂(わいろ)もあちこちで行われている。司法組織も 例外ではない。司法官が他の官吏を弾劾するとき、依頼者から弾劾料として賄賂を貰うことがあった。正義の女神テーミスは支那にくると目隠しを取り、天秤の 皿には金貨が置かれてしまうのだ。
呆れてしまう支那人の面子
支那人は面子にこだわる。これは朝鮮人にも見られる性質である。どんな下層のつまらぬ人間でも自分の面子を気にするという。たとえば、在日朝鮮人でも金 がないのに太腹なところを見せたいから、無理して中古のベンツを乗り回して友人に見せびらかしたりする。金欠なら正直に生きればいいのに、朝鮮人や支那人 は過度に見栄を張ったりするのだ。濱野氏がある面白いエピソードを紹介している。
満洲旗人(きじん)とは、日本の旗本武士みたいなも ので、清朝のころは社会的地位が高かった。その旗人が苦しいときも見栄を張ったという滑稽な話がある。北京の小さな茶館ではたった2文で半日過ごせるし、 客がお茶を持参していれば1文で足りるという。ある日のこと、一人の旗人がやって来てボーイに茶を注文した。その旗人はお茶を携帯していて、茶碗に持って きた茶葉を入れボーイに湯を注ぐよう命じた。そこでボーイが
「お茶が少な過ぎやしませんか?」と尋ねた。
すると旗人は「ふふん」と鼻で笑い
「御前なんかに何が解るもんか、この茶は西洋の、しかもフランスから取り寄せた極上の玉露なんだ。こう三片か四片入れれば沢山なんだ」
と言ったので、ボーイは黙ってお湯を注いだ。彼は茶碗の中をのぞき込むと、茶葉が二、三片しか浮いておらず、それも平常飲む香片茶であった。お湯を茶碗 に注いだものの、黄色い「キ」の字も出ないほどの、ほとんど無色の白湯であった。ボーイは心中おかしくてたまらなかったが、それでも我慢してお客を見てい たという。
するとその旗人は腰のあたりから2文銭を出して、焼き餅を一つ買ってムシャムシャ食い始めた。いかにも美味しそうに、細か に噛みしめながら食べていたという。一つの焼き餅を一時間も掛かって食い終わったかと思いきや、今度は唾を付けながら人差し指で、テーブルの上に字を書き 始めたそうだ。指を嘗めては書くその姿をボーイは不思議そうに見ていた。
「この人はなぜこんなに勉強するのか」と思いながら、ボーイはどんな字を書くのだろうと注意して観察したのである。
それを凝視してみてようやくその「習字」の意図が判明したのである。それは旗人が焼き餅を食うとき充分注意したのだが、餅の上にふりかけてある胡麻がど うしてもテーブルの上にこぼれてしまうのである。旗人は舌を出してこぼれた胡麻を嘗めたがったが、ひと目もあることだし、それは恥ずかしくてできな い。 手で掃いて拾って食べるわけにもいかない。彼にも面子がある。そこで字を書く振りをして、唾のついた指先でその胡麻を拾っては口に入れていたのだ。 旗人はこうして字を書き、テーブルの上には胡麻が一粒もなくなったのである。ところが、今度は何か思案するような態度で、ちょっと考えてはハッと気づくよ うなしぐさをしては、テーブルをトントン叩き始めた。そうしてまた指に唾を付けて字を書いたのである。その訳とは? 焼き餅から胡麻がこぼれて、テーブル の板と板の継ぎ目に挟まり、いくら指に唾を付けても拾うことができない。そこでわざと物を忘れたかのように振る舞って、急にハッと思い出したかの如くテー ブルを叩く。すると板の継ぎ目から振動で胡麻が飛び出す。そして字を書く真似をしてそれを口の中に入れるのである。(pp.22-25)
ここまでくると面子の問題というより、ケチの極み、あるいは「みっともなさ」の見本であろう。これが支那人気質である。
卑劣と残酷の支那大陸
支那人と日本人の違いがはっきりと現れる点は、戦さに対する考え方にある。武士道を極めた日本人は、騎士道を誇る西欧人とは理解し合えるし、共感や好意 をもつことができる。アジア大陸の両端に位置する文明国にだけ、封建制が発達したことは偶然の一致かもしれないが、興味深い歴史的現象である。一方、支那 では尚武の精神は誕生せず、野蛮な殺人集団、殺戮の暴徒しか存在しなかったのである。よく耳にする「好鐵不打釘、好人不當兵」の通り、良い人は兵にならな い。しかし、良い人とはいっても、これは狡賢い人の意味である。兵卒になって戦場で死ぬより、兵を指揮する地位について勝利の果実を食べるのが賢いのだ。 馬鹿は戦い、賢者は指揮する。死んでは何の得にもならないからだ。
では、兵になる支那人とはとんな者か。兵卒になる奴はたいてい衣食 に困った者が、募集に応じて軍隊に入る。窮民(きゅうみん)が兵卒になるのだから、社会的に尊敬される職業ではない。下人や賤民が兵隊を構成するんなら、 指揮官は部下を信用しないのも当然である。逃亡兵が出ないように入れ墨を施したこともあったという。我が軍の将兵も南京戦で、蒋介石の国民党軍がおよそ近 代的軍隊でないことを目撃したのである。南京防衛軍総司令官の唐生智(とうせいち)は部下を見捨てて自分だけ逃げた。そのとき支那兵が逃亡しないよう督戦 隊が銃で脅していたのである。鎖に繋がれた支那兵を見て我が軍の将兵はビックリ。それでも逃亡兵が出てしまい、督戦隊と支那兵同士の殺し合いが始まったの である。仰天の支那大陸。支那人が殺した支那兵は、日本兵による犯行とされてしまったのはご承知の通り。テレビ朝日やNHKの重役は切腹しろ。
むかしは海賊と海軍が渾然一体、兼業というのか普通だったが、支那では今でも暴力団と解放軍が表裏一体である。土匪が兵士となり、土匪の頭目か゜軍団長 や師団長となる。国家の軍隊と言っても、実態は匪賊が軍服を着ただけの地方軍閥、頭目の私兵である。匪賊をあつめて傭兵にしただけ。これでは戦争になった ら、掠奪、強姦、放火のやりたい放題になるのも無理はない。
こうした半兵半匪の集団は争乱になったら残虐行為のオンパレードである。 目抜き通りの至る所で銃殺、斬殺公然と行われ、その屍体は血まみれのまま、数日間は路地に晒される。なかには犬に四肢をかみ切られた無惨な屍体が道端に転 がっていたりするが、一般の支那人はこれを目撃しても案外平然としている。支那人は屍体くらいで驚かない。面の皮が厚くと心臓が丈夫。中性子爆弾の全面戦 争になったって、最後に生き残るのは支那人だろう。よく知られた張作霖は裏切り者の郭松齢夫妻を惨殺したし、奉天派の張宗昌(ちょうそうしょう)はその残 酷性で悪名高かった。直魯聯軍は北京占領後、天端刑場で死刑囚の生首を陳列したし、河南土匪軍は人質を酷刑に処したのである。
土匪に よる残虐さを物語る一例を挙げる。広東である富豪が土匪に拉致して家族に5万元の身代金を要求した。家族はその法外な値段を聞き、値切り交渉をなして、4 万元から3万元まで値切ったという。最終的に2万元で話がまとまり、家族が現金を持って受け渡し場所に向かったという。しかし、お金はそっくり土匪に取り 上げられてしまい、家族は遺族になっていたのである。拉致された富豪は指を切断され、頭髪を焼かれ、身体には蜂の巣の如く銃創を受けていた。この悲劇は交 渉が長引いたことで、土匪の頭目が怒りのあまり人質を嬲(なぶ)り殺しにしてしまったのである。(p.50)軍隊でも土匪を捕らえると同じように惨殺を加 える。また、強盗が逮捕されると警察は人民への見せしめとしてその犯人を犯罪現場、つまり被害者の家の前に連行して銃殺するのである。時には五寸釘を打ち 付けてその屍体を一日中市中に晒すこともあった。
支那では土匪と一般犯罪者の差がほとんどない。支那には日本人には理解できぬむごい犯 罪がしょっちゅう起きる。ある香具師(やし)が五六歳の少年少女を誘拐して秘密の場所に監禁した。やっと身体が入るくらいの樽を作ってその中に一人づつ捕 獲した少年少女を押し込める。僅かに手足と首だけが樽の外に出るようにして、食べ物を与えたという。数年ないし十数年かけて人為的に不具者を作り、自然的 不具者のごとく偽り、見世物にするという残酷な犯罪があった。(p.51) 動物に行っても残酷なのに、人間の子供に対して何とも感じない支那人がいるのである。現在でも、貪欲な支那人が貧民の子供を利用して乞食にする犯行があ る。子供の手足をわざとへし折ったり損傷させて、身体障碍者に仕立てて乞食する。そうした児童乞食が集めた金を巻き上げる非道が公然と行われているのだ。
日本人は本当にお人好しだ。大量に流入してくる支那人には多数の犯罪者や犯罪予備軍が紛れている。一般人のように見えても、いつ犯罪者に変身するか分か らないのだ。日本人はまるで南極のペンギンと同じである。人間が近づいても警戒心がなく、簡単に捕まってしまう。野犬なら腹が膨れるほどペンギンを食べる ことが出来るだろう。移民の群れを迎えることは、日本人に支那人の遺伝子が混じるだけでは済まない。善良な日本人が殺戮されたり、駆逐されて支那人が日本 の主流民族になるのだ。弱肉強食の熾烈な暗黒大陸から支那人はやって来るのである。日本人はもう少し現実を見るべきだ。
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地球儀を眺めると、日本人は何て不幸なんだ、と思いたくなる。支那人や朝鮮人が隣人となっているのだ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する 大陸や半島から、我々を守ってくれる玄界灘に感謝すべきだろう。しかし、現代ではその天然防壁は無力化されている。支那人が気軽に大量入国してくるのだ。 渡る世間が鬼ばかりか、支那人ばかりになる前に、我々は侵入者を研究しなければならない。
一口に支那人といっても、ピンからキリまで 居るから厄介だ。モンゴル人のように支那人を料理別で分類した方が便利なときもある。だが、地方によってそれぞれ特色がある支那人だが、それでも共通した 気質をもつ。どの民族にも良い人悪い人がいるが、支那人の場合は、良い人は砂金より少なく、悪い人とさらに悪い人、極悪人であふれている。そこで濱野斗南 の『支那人氣質』(世界出版社 大正15年)を参考にして論じよう。
集団生活をする人間には、仲間に対する感情(pathos)をも ち、彼に何か異変が起これば、それを知ったものは自己の感情が共振するものだ。これが同情(sympathy)である。しかし、家族しか知らず国家をもた ぬ支那人には、他人に対する同情がないのである。濱野氏が語る。ある街路に一人の行き倒れが苦しんでいるが、その周囲に大勢の見物人が集まっていたとい う。しかし、誰一人としてこの急病人を助けようとはせず、警察にも知らせなかったらしい。そこへ人だかりを見つけた巡査が通りかかり、職務上しょうがない から病院に担ぎ込むことになったという。その警官は病人を介護するというより、厄介者扱いをしたのである。(pp.30-31) 日本の警察官ならこんなことは絶対ない。支那人は賄賂も取らずに親切にする警官に驚くだろう。支那人は日本に来て始めて見返りのない他人の親切を経験する のである。
支那人には他人への配慮も、公共心もない。最近でも2011年に、広東省の仏山市で起きた幼女ひき逃げ事件を思い出す。繁 華街の道路で2歳の小悦悦が車にひかれて倒れていたが、側を通る大人は誰も助けようとしなかった。すると別の車がその幼女を再び轢いてしまったのである。 監視カメラの映像が世界中に公開されたとき、文明国の人々は驚いた。支那人とは、別の世界に住む非哺乳類である。2012年にも浙江省で、5歳の幼児か轢 かれたが、誰も助けなかったので死亡してしまった。(レコードチャイナ 2012年12月12日) そんなことはない。支那人だって人助けをする。しか し、それは倒れた人を介抱する振りをして、ポケットなどを探って金目の物を物色する場合である。子供だと大金を期待できぬから誰も助けなかったのである。 幼児がローレックスの高級腕時計をしていわけないだろう。
支那人の性格を問われたら何が思い浮かぶだろうか。まづ私利私欲を追求し、 面子を偏重する形式主義者で旧弊因習を墨守する支那人か。いづれにしても、立派で尊敬に値する支那人を連想するのはまず有り得ない。支那人は物欲・金銭欲 がことさら強く、よく言えば節約質素、悪く言えば吝嗇貪欲(りんしょくどんよく)である。その多くは過度の節約と不正な金銭欲に陥っている。たとえば、俥 夫が銅銭1文の相違で口論の果てに警察の厄介になることがある。そんなはした金で延々と口論するなど日本人には馬鹿らしくて出来ないが、支那人には時間が 貴重で、金銭よりも大切なときがあるとことを理解できない。支那社会を貫くのは、公正とか正義、法律ではなく、金銭を得て享楽を手にするという即物的思考 である。政治家や役人の瀆職(とくしょく)はよくあることで、さして珍しくない。賣官(ばいかん)や賄賂(わいろ)もあちこちで行われている。司法組織も 例外ではない。司法官が他の官吏を弾劾するとき、依頼者から弾劾料として賄賂を貰うことがあった。正義の女神テーミスは支那にくると目隠しを取り、天秤の 皿には金貨が置かれてしまうのだ。
呆れてしまう支那人の面子
支那人は面子にこだわる。これは朝鮮人にも見られる性質である。どんな下層のつまらぬ人間でも自分の面子を気にするという。たとえば、在日朝鮮人でも金 がないのに太腹なところを見せたいから、無理して中古のベンツを乗り回して友人に見せびらかしたりする。金欠なら正直に生きればいいのに、朝鮮人や支那人 は過度に見栄を張ったりするのだ。濱野氏がある面白いエピソードを紹介している。
満洲旗人(きじん)とは、日本の旗本武士みたいなも ので、清朝のころは社会的地位が高かった。その旗人が苦しいときも見栄を張ったという滑稽な話がある。北京の小さな茶館ではたった2文で半日過ごせるし、 客がお茶を持参していれば1文で足りるという。ある日のこと、一人の旗人がやって来てボーイに茶を注文した。その旗人はお茶を携帯していて、茶碗に持って きた茶葉を入れボーイに湯を注ぐよう命じた。そこでボーイが
「お茶が少な過ぎやしませんか?」と尋ねた。
すると旗人は「ふふん」と鼻で笑い
「御前なんかに何が解るもんか、この茶は西洋の、しかもフランスから取り寄せた極上の玉露なんだ。こう三片か四片入れれば沢山なんだ」
と言ったので、ボーイは黙ってお湯を注いだ。彼は茶碗の中をのぞき込むと、茶葉が二、三片しか浮いておらず、それも平常飲む香片茶であった。お湯を茶碗 に注いだものの、黄色い「キ」の字も出ないほどの、ほとんど無色の白湯であった。ボーイは心中おかしくてたまらなかったが、それでも我慢してお客を見てい たという。
するとその旗人は腰のあたりから2文銭を出して、焼き餅を一つ買ってムシャムシャ食い始めた。いかにも美味しそうに、細か に噛みしめながら食べていたという。一つの焼き餅を一時間も掛かって食い終わったかと思いきや、今度は唾を付けながら人差し指で、テーブルの上に字を書き 始めたそうだ。指を嘗めては書くその姿をボーイは不思議そうに見ていた。
「この人はなぜこんなに勉強するのか」と思いながら、ボーイはどんな字を書くのだろうと注意して観察したのである。
それを凝視してみてようやくその「習字」の意図が判明したのである。それは旗人が焼き餅を食うとき充分注意したのだが、餅の上にふりかけてある胡麻がど うしてもテーブルの上にこぼれてしまうのである。旗人は舌を出してこぼれた胡麻を嘗めたがったが、ひと目もあることだし、それは恥ずかしくてできな い。 手で掃いて拾って食べるわけにもいかない。彼にも面子がある。そこで字を書く振りをして、唾のついた指先でその胡麻を拾っては口に入れていたのだ。 旗人はこうして字を書き、テーブルの上には胡麻が一粒もなくなったのである。ところが、今度は何か思案するような態度で、ちょっと考えてはハッと気づくよ うなしぐさをしては、テーブルをトントン叩き始めた。そうしてまた指に唾を付けて字を書いたのである。その訳とは? 焼き餅から胡麻がこぼれて、テーブル の板と板の継ぎ目に挟まり、いくら指に唾を付けても拾うことができない。そこでわざと物を忘れたかのように振る舞って、急にハッと思い出したかの如くテー ブルを叩く。すると板の継ぎ目から振動で胡麻が飛び出す。そして字を書く真似をしてそれを口の中に入れるのである。(pp.22-25)
ここまでくると面子の問題というより、ケチの極み、あるいは「みっともなさ」の見本であろう。これが支那人気質である。
卑劣と残酷の支那大陸
支那人と日本人の違いがはっきりと現れる点は、戦さに対する考え方にある。武士道を極めた日本人は、騎士道を誇る西欧人とは理解し合えるし、共感や好意 をもつことができる。アジア大陸の両端に位置する文明国にだけ、封建制が発達したことは偶然の一致かもしれないが、興味深い歴史的現象である。一方、支那 では尚武の精神は誕生せず、野蛮な殺人集団、殺戮の暴徒しか存在しなかったのである。よく耳にする「好鐵不打釘、好人不當兵」の通り、良い人は兵にならな い。しかし、良い人とはいっても、これは狡賢い人の意味である。兵卒になって戦場で死ぬより、兵を指揮する地位について勝利の果実を食べるのが賢いのだ。 馬鹿は戦い、賢者は指揮する。死んでは何の得にもならないからだ。
では、兵になる支那人とはとんな者か。兵卒になる奴はたいてい衣食 に困った者が、募集に応じて軍隊に入る。窮民(きゅうみん)が兵卒になるのだから、社会的に尊敬される職業ではない。下人や賤民が兵隊を構成するんなら、 指揮官は部下を信用しないのも当然である。逃亡兵が出ないように入れ墨を施したこともあったという。我が軍の将兵も南京戦で、蒋介石の国民党軍がおよそ近 代的軍隊でないことを目撃したのである。南京防衛軍総司令官の唐生智(とうせいち)は部下を見捨てて自分だけ逃げた。そのとき支那兵が逃亡しないよう督戦 隊が銃で脅していたのである。鎖に繋がれた支那兵を見て我が軍の将兵はビックリ。それでも逃亡兵が出てしまい、督戦隊と支那兵同士の殺し合いが始まったの である。仰天の支那大陸。支那人が殺した支那兵は、日本兵による犯行とされてしまったのはご承知の通り。テレビ朝日やNHKの重役は切腹しろ。
むかしは海賊と海軍が渾然一体、兼業というのか普通だったが、支那では今でも暴力団と解放軍が表裏一体である。土匪が兵士となり、土匪の頭目か゜軍団長 や師団長となる。国家の軍隊と言っても、実態は匪賊が軍服を着ただけの地方軍閥、頭目の私兵である。匪賊をあつめて傭兵にしただけ。これでは戦争になった ら、掠奪、強姦、放火のやりたい放題になるのも無理はない。
こうした半兵半匪の集団は争乱になったら残虐行為のオンパレードである。 目抜き通りの至る所で銃殺、斬殺公然と行われ、その屍体は血まみれのまま、数日間は路地に晒される。なかには犬に四肢をかみ切られた無惨な屍体が道端に転 がっていたりするが、一般の支那人はこれを目撃しても案外平然としている。支那人は屍体くらいで驚かない。面の皮が厚くと心臓が丈夫。中性子爆弾の全面戦 争になったって、最後に生き残るのは支那人だろう。よく知られた張作霖は裏切り者の郭松齢夫妻を惨殺したし、奉天派の張宗昌(ちょうそうしょう)はその残 酷性で悪名高かった。直魯聯軍は北京占領後、天端刑場で死刑囚の生首を陳列したし、河南土匪軍は人質を酷刑に処したのである。
土匪に よる残虐さを物語る一例を挙げる。広東である富豪が土匪に拉致して家族に5万元の身代金を要求した。家族はその法外な値段を聞き、値切り交渉をなして、4 万元から3万元まで値切ったという。最終的に2万元で話がまとまり、家族が現金を持って受け渡し場所に向かったという。しかし、お金はそっくり土匪に取り 上げられてしまい、家族は遺族になっていたのである。拉致された富豪は指を切断され、頭髪を焼かれ、身体には蜂の巣の如く銃創を受けていた。この悲劇は交 渉が長引いたことで、土匪の頭目が怒りのあまり人質を嬲(なぶ)り殺しにしてしまったのである。(p.50)軍隊でも土匪を捕らえると同じように惨殺を加 える。また、強盗が逮捕されると警察は人民への見せしめとしてその犯人を犯罪現場、つまり被害者の家の前に連行して銃殺するのである。時には五寸釘を打ち 付けてその屍体を一日中市中に晒すこともあった。
支那では土匪と一般犯罪者の差がほとんどない。支那には日本人には理解できぬむごい犯 罪がしょっちゅう起きる。ある香具師(やし)が五六歳の少年少女を誘拐して秘密の場所に監禁した。やっと身体が入るくらいの樽を作ってその中に一人づつ捕 獲した少年少女を押し込める。僅かに手足と首だけが樽の外に出るようにして、食べ物を与えたという。数年ないし十数年かけて人為的に不具者を作り、自然的 不具者のごとく偽り、見世物にするという残酷な犯罪があった。(p.51) 動物に行っても残酷なのに、人間の子供に対して何とも感じない支那人がいるのである。現在でも、貪欲な支那人が貧民の子供を利用して乞食にする犯行があ る。子供の手足をわざとへし折ったり損傷させて、身体障碍者に仕立てて乞食する。そうした児童乞食が集めた金を巻き上げる非道が公然と行われているのだ。
日本人は本当にお人好しだ。大量に流入してくる支那人には多数の犯罪者や犯罪予備軍が紛れている。一般人のように見えても、いつ犯罪者に変身するか分か らないのだ。日本人はまるで南極のペンギンと同じである。人間が近づいても警戒心がなく、簡単に捕まってしまう。野犬なら腹が膨れるほどペンギンを食べる ことが出来るだろう。移民の群れを迎えることは、日本人に支那人の遺伝子が混じるだけでは済まない。善良な日本人が殺戮されたり、駆逐されて支那人が日本 の主流民族になるのだ。弱肉強食の熾烈な暗黒大陸から支那人はやって来るのである。日本人はもう少し現実を見るべきだ。
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イスラエルは米国の味方
(左側: スティーヴン・スピルバーグ/ 中央: マイケル・アイズナー・ ディズニー社CEO/ 右側: バリー・メイヤー・ワーナー・ブラザーズ会長)
ア メリカ合衆国はもともと西欧系白人が自由に暮らすための国だったのに、移民を許したため次第にユダヤ人に支配されてしまった。特に、第二次大戦中に迫害か ら逃れるため、歐洲から北米にやって来た。パレスチナに行けばいいのに、砂漠の貧乏国は嫌だったから、何が何でもアングロ・サクソン諸国に住みたい。嫌が るアメリカ白人を押しのけて、ユダヤ難民が米国になだれ込んできた。定着したユダヤ人はその同胞を呼び寄せたり、入国できるよう手配したりして、連鎖的に 流入してきたのである。「類は友を呼ぶ」通り。気がつくとユダヤ人が各界で幅を利かせていた。ユダヤ人は米国で商売するとき、仲間内でいろいろ便宜を図っ たり、優遇したり、連携したりして勢力を増していったのである。映画業界のユダヤ人も、着実に商売を世界に向けて拡大し、裏でカルテルを組んで映画業界を 独占していったのである。グローバリストとは、国境や国籍を無視する守銭奴のユダヤ人にふさわしい名称である。
1980年代バブル絶 頂期には、お金で太った松下電器やソニーがユダヤ人の映画界に参入したのである。結果は惨憺たるものであった。間抜けでお人好しの日本人が、狡猾で強欲な ユダヤ人の縄張りで銭儲けできるなどと考えたのが甘かったのだ。この巨大産業はユダヤ人が仲間内で儲ける賭場であり、政商が暗躍する国際ビジネスである。 そして、イスラエルと提携してアメリカの世論操作を手伝っているのである。まづは、簡単な現象から指摘したい。
アメリカ・ドラマを注 意して観ると、いつもイスラエルが合衆国の友好国に描かれている。米国の国家機密や軍事技術を盗んだり、恐喝やテロを仕組んだりする脚本は全くない。たと えば、悪名高いジョナサン・ポラード(Jonathan Jay Pollard) は、ユダヤ系アメリカ人でイスラエルに米国の機密情報を渡した廉で刑務所に服役している。しかし、彼のことはテレビ・ドラマや映画では、全くと言っていい ほど触れられていない。ユダヤ人の映画業界人にとって、ユダヤ系売国奴を取り上げるのはタブーとなっているからだ。米国政治家の多くがイスラエルに弱みや スキャンダルを握られて、命令に従っているのに、そうした事はドラマのネタにならないし、触れてはならない掟がある。タブーとは地雷と同じで、避けて通る ものである。アクション・ドラマではモサド(Mossad イスラエル諜報機関)は、米国を助ける外国の諜報機関とキャラクター設定される。具体例を挙げてみる。
(1) NCISはCBSの人気 ドラマで、十年以上続く高視聴率番組である。合衆国海軍に関係する事件を科学的に捜査する物語であるが、そこにイスラエルの連絡要員ジィヴァ・ダウィが海 軍捜査局にやってきて、仲間になる筋書き。同僚の捜査官トニーと恋仲になるプロットもあった。このジィヴァはモサド長官の娘という設定。外国の諜報機関に 属する者が、米国の軍事捜査局に配属になるとは、あまりにも馬鹿らしい人物設定である。これでは内部情報が筒抜けであろう。ハリウッドのユダヤ人は、ここ までイスラエルに媚びをうっているのだ。この美人で有能な捜査官はやがて米国に帰化する。演じているコート・デ・パブロ(Vote de Pablo)はチリ出身の女優でユダヤ人ではない。
(2) コバート・アフェアーズ (Covert Affairs)も、スパイ・ドラマ。主役のパイパー・ペラボ(Piper Perabo)は北欧系の金髪の美人女優で、CIA局員アニーを演じている。そのアニーに協力するのが、モサドの工作員イーラン・ラヴィンである。(オ デット・フェールOded Fehrが演じている) ハンサムで有能なキャラクターに設定されている。
(3) ストライク・バック(Strike Back)は英国軍の海外極秘部隊をテーマにしたドラマ。ハンサムで女たらしのアメリカ軍人スコットに惚れてしまう、モサド・エージェントがレベッカ・レ ヴィー。美人エージェントのレベッカを演じるのは、ベルギー出身の女優リン・ルネ(Lyne Renee)。
そもそもテレビ・ドラマ はフィクションだから、いちいち目くじらを立てなくてもいいように思える。だが、どのイスラエル人スパイも、ハンサムか美人というのは、制作者にイスラエ ルへ媚びる姿勢があるからではないか。そして何百万のアメリカ人視聴者に、親イスラエル感情を植え付ける意図があるのだろう。イスラエルは米国のよき友人 かつ同盟国という幻想を刷り込む(imprinting)ためである。だから、モサドのエージェントが中東アジア人のブスやハゲ・デフ・チビのセム人では ダメなのだ。
(左側:オデット・フェール/中央:リン・ルネ/右側: コート・デ・パブロ)
イスラエル人ばかではなく、アメリカのユダヤ人のイメージも美化している。たとえば、日本でも大人気となったコメデー・ドラマ『フレンズ』。物語ではモ ニカ・ゲラー(コートニー・コックス)とロス(デイヴッド・シュワイマー)はユダヤ人兄弟という設定になっていた。ユダヤ人ロスの恋人か美女のレイチェル (ジェニファー・アニストン)である。コックスとアニストンはユダヤ人ではないヨーロッパ系女優で、シュワイマーはユダヤ人俳優。このドラマの脚本は二人 のユダヤ人が書いていた。デヴィッド・クレイン(David Crane)とマータ・カウフマン(Marta Kauffman)である。同胞のユダヤ人を素晴らしく描いて、彼らに媚びると人気が上がり、批評家からも絶賛される。視聴率が上がれば海外に輸出して大 儲けができる。日本でもかなり稼いだ。
(左側: コートニー・コックス/ 右側:ジェニファー・アニストン /下 :デイヴィド・シュワイマー)
ハリウッドの大御所プロテューサーが工作員
日本では全く報道されなかった、大物ハリウッド・プロデューサのースキャンダルがあった。映画界の大御所アーノン・ミルシャン(Arnon Milchan)だ。日本では知られていないが、ジュリア・ロバーツ主演で大ヒットした『プティー・ウーマン』、ブラッド・ピット主演の『ファイト・クラ ブ』、ラッセル・クロー出演の『L.A.コンフィデンシャル』を手掛けた名プロデューサーである。 驚くなかれ、彼はイスラエル生まれのユダヤ人で、1960年代にイスラエル諜報部にリクルートされた。当時の国防副大臣で後に首相・大統領になったあのシ トモン・ペレス(Shimon Peres) が彼を引き抜いたのである。ミルシャンはイスラエルの核兵器開発を担当する部門(Lekem)に配属され、武器のディーラーとして役20年間、イスラエル に協力していたのである。1973年のヨム・キップル戦争時、イスラエルのために米国で武器の調達に精を出していたのである。(Tim Walker, Revealed:Arnon Milchan - the HOllywood producer behind hits Pretty Woman, Fight Club and LA Confidential who became a real-life James Bond, The Independent ,22 November 2013 )
ミルシャンは武器調達のために、かの有名な映画監督シドニー・ポラックまでも引き込んでいたのである。ポラックはアメリカ人だからNoと言えたが、Noと 言わなかった。(Stuart Winer, Hollywood producer Arnon Milchan reveals past as secret agent, The Times of Israel, November 25, 2013) ポラックもユダヤ人で、ウクライナからやって来た移民の子孫であったから、イスラエルに協力したのである。血はパスポートよりも濃くて重いのだ。ポラック の監督作品には、『追憶』『出逢い』『トッツィー』『愛と哀しみの果て』『サブリナ』『ザ・ファーム』といった有名な映画がある。ミルシャンはテレビのイ ンタヴューで極秘活動を語っていたが、彼が行ったスパイ活動や秘密工作をすべて話したわけではなかろう。一生喋れない作戦もあったはずだ。
こうしてハリウッドを観てみると、ユダヤ人は国籍・国境を超えてユダヤ民族のために奉仕することが分る。映画界のユダヤ人同士が、あうんの呼吸で協力し 合い、ユダヤ社会と自己の利益を促進するのだ。間抜けなキリスト教徒の西欧系白人を上手く利用して、イスラエルの国益のために使うのだ。場合によっては、 中東地域にアメリカ軍を派遣するよう、メデアを通して世論操作をし、イスラエルのために米兵が死ぬよう画策するのである。ムスリム・テロリストに敢然と立 ち向かう、合衆国海兵隊員の活躍をドラマにすれば、バカなアメリカ兵は英雄になれると思ってしまう。ハリウッドのユダヤ人は、イスラエルの安全保障をあた かもアメリカの国益であるかのように見せかけるのだ。彼らは、こうした騙しの手口に長けている。報道番組制作者もテレビ局の重役・経営者もユダヤ人が大半 を占めている。彼らが連携してアメリカ人をイスラエルのためにこき使うのだ。何も知らない日本人は、アメリカから流れてくるニュース番組や娯楽映画をただ 観ているだけ。もういいかげん、ユダヤ人の巧妙な情報操作に気づくべきである。
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(左側: スティーヴン・スピルバーグ/ 中央: マイケル・アイズナー・ ディズニー社CEO/ 右側: バリー・メイヤー・ワーナー・ブラザーズ会長)
ア メリカ合衆国はもともと西欧系白人が自由に暮らすための国だったのに、移民を許したため次第にユダヤ人に支配されてしまった。特に、第二次大戦中に迫害か ら逃れるため、歐洲から北米にやって来た。パレスチナに行けばいいのに、砂漠の貧乏国は嫌だったから、何が何でもアングロ・サクソン諸国に住みたい。嫌が るアメリカ白人を押しのけて、ユダヤ難民が米国になだれ込んできた。定着したユダヤ人はその同胞を呼び寄せたり、入国できるよう手配したりして、連鎖的に 流入してきたのである。「類は友を呼ぶ」通り。気がつくとユダヤ人が各界で幅を利かせていた。ユダヤ人は米国で商売するとき、仲間内でいろいろ便宜を図っ たり、優遇したり、連携したりして勢力を増していったのである。映画業界のユダヤ人も、着実に商売を世界に向けて拡大し、裏でカルテルを組んで映画業界を 独占していったのである。グローバリストとは、国境や国籍を無視する守銭奴のユダヤ人にふさわしい名称である。
1980年代バブル絶 頂期には、お金で太った松下電器やソニーがユダヤ人の映画界に参入したのである。結果は惨憺たるものであった。間抜けでお人好しの日本人が、狡猾で強欲な ユダヤ人の縄張りで銭儲けできるなどと考えたのが甘かったのだ。この巨大産業はユダヤ人が仲間内で儲ける賭場であり、政商が暗躍する国際ビジネスである。 そして、イスラエルと提携してアメリカの世論操作を手伝っているのである。まづは、簡単な現象から指摘したい。
アメリカ・ドラマを注 意して観ると、いつもイスラエルが合衆国の友好国に描かれている。米国の国家機密や軍事技術を盗んだり、恐喝やテロを仕組んだりする脚本は全くない。たと えば、悪名高いジョナサン・ポラード(Jonathan Jay Pollard) は、ユダヤ系アメリカ人でイスラエルに米国の機密情報を渡した廉で刑務所に服役している。しかし、彼のことはテレビ・ドラマや映画では、全くと言っていい ほど触れられていない。ユダヤ人の映画業界人にとって、ユダヤ系売国奴を取り上げるのはタブーとなっているからだ。米国政治家の多くがイスラエルに弱みや スキャンダルを握られて、命令に従っているのに、そうした事はドラマのネタにならないし、触れてはならない掟がある。タブーとは地雷と同じで、避けて通る ものである。アクション・ドラマではモサド(Mossad イスラエル諜報機関)は、米国を助ける外国の諜報機関とキャラクター設定される。具体例を挙げてみる。
(1) NCISはCBSの人気 ドラマで、十年以上続く高視聴率番組である。合衆国海軍に関係する事件を科学的に捜査する物語であるが、そこにイスラエルの連絡要員ジィヴァ・ダウィが海 軍捜査局にやってきて、仲間になる筋書き。同僚の捜査官トニーと恋仲になるプロットもあった。このジィヴァはモサド長官の娘という設定。外国の諜報機関に 属する者が、米国の軍事捜査局に配属になるとは、あまりにも馬鹿らしい人物設定である。これでは内部情報が筒抜けであろう。ハリウッドのユダヤ人は、ここ までイスラエルに媚びをうっているのだ。この美人で有能な捜査官はやがて米国に帰化する。演じているコート・デ・パブロ(Vote de Pablo)はチリ出身の女優でユダヤ人ではない。
(2) コバート・アフェアーズ (Covert Affairs)も、スパイ・ドラマ。主役のパイパー・ペラボ(Piper Perabo)は北欧系の金髪の美人女優で、CIA局員アニーを演じている。そのアニーに協力するのが、モサドの工作員イーラン・ラヴィンである。(オ デット・フェールOded Fehrが演じている) ハンサムで有能なキャラクターに設定されている。
(3) ストライク・バック(Strike Back)は英国軍の海外極秘部隊をテーマにしたドラマ。ハンサムで女たらしのアメリカ軍人スコットに惚れてしまう、モサド・エージェントがレベッカ・レ ヴィー。美人エージェントのレベッカを演じるのは、ベルギー出身の女優リン・ルネ(Lyne Renee)。
そもそもテレビ・ドラマ はフィクションだから、いちいち目くじらを立てなくてもいいように思える。だが、どのイスラエル人スパイも、ハンサムか美人というのは、制作者にイスラエ ルへ媚びる姿勢があるからではないか。そして何百万のアメリカ人視聴者に、親イスラエル感情を植え付ける意図があるのだろう。イスラエルは米国のよき友人 かつ同盟国という幻想を刷り込む(imprinting)ためである。だから、モサドのエージェントが中東アジア人のブスやハゲ・デフ・チビのセム人では ダメなのだ。
(左側:オデット・フェール/中央:リン・ルネ/右側: コート・デ・パブロ)
イスラエル人ばかではなく、アメリカのユダヤ人のイメージも美化している。たとえば、日本でも大人気となったコメデー・ドラマ『フレンズ』。物語ではモ ニカ・ゲラー(コートニー・コックス)とロス(デイヴッド・シュワイマー)はユダヤ人兄弟という設定になっていた。ユダヤ人ロスの恋人か美女のレイチェル (ジェニファー・アニストン)である。コックスとアニストンはユダヤ人ではないヨーロッパ系女優で、シュワイマーはユダヤ人俳優。このドラマの脚本は二人 のユダヤ人が書いていた。デヴィッド・クレイン(David Crane)とマータ・カウフマン(Marta Kauffman)である。同胞のユダヤ人を素晴らしく描いて、彼らに媚びると人気が上がり、批評家からも絶賛される。視聴率が上がれば海外に輸出して大 儲けができる。日本でもかなり稼いだ。
(左側: コートニー・コックス/ 右側:ジェニファー・アニストン /下 :デイヴィド・シュワイマー)
ハリウッドの大御所プロテューサーが工作員
日本では全く報道されなかった、大物ハリウッド・プロデューサのースキャンダルがあった。映画界の大御所アーノン・ミルシャン(Arnon Milchan)だ。日本では知られていないが、ジュリア・ロバーツ主演で大ヒットした『プティー・ウーマン』、ブラッド・ピット主演の『ファイト・クラ ブ』、ラッセル・クロー出演の『L.A.コンフィデンシャル』を手掛けた名プロデューサーである。 驚くなかれ、彼はイスラエル生まれのユダヤ人で、1960年代にイスラエル諜報部にリクルートされた。当時の国防副大臣で後に首相・大統領になったあのシ トモン・ペレス(Shimon Peres) が彼を引き抜いたのである。ミルシャンはイスラエルの核兵器開発を担当する部門(Lekem)に配属され、武器のディーラーとして役20年間、イスラエル に協力していたのである。1973年のヨム・キップル戦争時、イスラエルのために米国で武器の調達に精を出していたのである。(Tim Walker, Revealed:Arnon Milchan - the HOllywood producer behind hits Pretty Woman, Fight Club and LA Confidential who became a real-life James Bond, The Independent ,22 November 2013 )
ミルシャンは武器調達のために、かの有名な映画監督シドニー・ポラックまでも引き込んでいたのである。ポラックはアメリカ人だからNoと言えたが、Noと 言わなかった。(Stuart Winer, Hollywood producer Arnon Milchan reveals past as secret agent, The Times of Israel, November 25, 2013) ポラックもユダヤ人で、ウクライナからやって来た移民の子孫であったから、イスラエルに協力したのである。血はパスポートよりも濃くて重いのだ。ポラック の監督作品には、『追憶』『出逢い』『トッツィー』『愛と哀しみの果て』『サブリナ』『ザ・ファーム』といった有名な映画がある。ミルシャンはテレビのイ ンタヴューで極秘活動を語っていたが、彼が行ったスパイ活動や秘密工作をすべて話したわけではなかろう。一生喋れない作戦もあったはずだ。
こうしてハリウッドを観てみると、ユダヤ人は国籍・国境を超えてユダヤ民族のために奉仕することが分る。映画界のユダヤ人同士が、あうんの呼吸で協力し 合い、ユダヤ社会と自己の利益を促進するのだ。間抜けなキリスト教徒の西欧系白人を上手く利用して、イスラエルの国益のために使うのだ。場合によっては、 中東地域にアメリカ軍を派遣するよう、メデアを通して世論操作をし、イスラエルのために米兵が死ぬよう画策するのである。ムスリム・テロリストに敢然と立 ち向かう、合衆国海兵隊員の活躍をドラマにすれば、バカなアメリカ兵は英雄になれると思ってしまう。ハリウッドのユダヤ人は、イスラエルの安全保障をあた かもアメリカの国益であるかのように見せかけるのだ。彼らは、こうした騙しの手口に長けている。報道番組制作者もテレビ局の重役・経営者もユダヤ人が大半 を占めている。彼らが連携してアメリカ人をイスラエルのためにこき使うのだ。何も知らない日本人は、アメリカから流れてくるニュース番組や娯楽映画をただ 観ているだけ。もういいかげん、ユダヤ人の巧妙な情報操作に気づくべきである。
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華麗なる家系のドイツ人神父
ブルノー・ビッテル(Bruno Bitter/1898-1987)神父が靖国神社を救ったことは、一般国民にあまり知られていない。こんにち我々が靖国神社に参拝できるのはビッテル神 父のお陰と言えよう。そこでビッテル神父のことについて紹介したい。(朝日ソノラマ編集部 『マッカーサーの涙』 昭和48年を参照)
ビッテル師は聖職者になる前、ドイツ陸軍士官で精鋭部隊に属していた。ブルノー・ビッテル中尉は第一次世界大戦で勇猛果敢に戦い、鉄十字勲章を授与され たのである。ドイツが大戦に敗れ、ビッテル中尉は英国軍の捕虜になってしまう。この勇士は英国で2年間の捕虜生活を送ったとき、大いに考えた末、聖職者に なる決意を固めたという。そしてカトリック教会のエリート修道会であるイエズス會に入ったのである。
ビッテル神父の御尊父フランツ・ ビッテル氏は、ワイマール共和国で中央党の指導的立場にあった政治家で、晩年は最高裁判所判事を務められた。その中央党はヒトラー政権の誕生で自然消滅し たのである。名門ビッテル家の遺産を象徴するのが、バイエルンのベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)だろう。ミュンヘンにほど近い丘の頂に 建てられた豪華な邸宅である。ヒトラーが要人を招いた有名な別荘だ。ビッテル神父はヒトラーにも会って話をしたくらいで、名家のご子息であった。
現在のカトリック教会は深刻な神父不足でドイツから多くの司祭が派遣されることはないが、昭和の末までは優秀な神父がヨーロッパから日本に来ていたので ある。たとえば、ヘルマン・ホイヴェルス神父(イエズス會士で上智大学長)やヨゼフ・ピタウ神父(上智大学長で後に枢機卿)、ピーター・ミルワード神父 (人気の英語教師でシェイクスピア研究家)、ヨセフ・ロゲンドルフ神父(日本文学専攻)など錚々たる人物がやって来たのである。とくにドイツからの宣教師 は有能で立派な聖職者が多かった。上智大学の初代学長を務められたヘルマン・ホフマン(Hermann Hoffman)神父や二代目のホイヴェルス(Hermann Heuvers)神父に加えて、中世哲学の大家で有名なクラウス・リーゼンフーバー神父は、ドイツ出身のイエズス會士である。神父が貴族的雰囲気を醸し出 す高貴なヨーロッパ紳士であるのは、やはり立派な家系の出身だからであろう。神父は育ちのよさがオーラとして現れるほどの人格者で、聖トマス・アクィナス に関する一級の碩学である。リーゼンフーバー神父の兄上であるハインツ・リーゼンフーバー(Heinz Riesenhuber)氏は、ドイツの政党CDU所属の政治家で、コール政権では文部科学大臣(Bundesministerium für Bildung und Forschung)を務められたことで有名である。
これらの偉人に比べたら、同じイエズス會士のルベン・ アビト(Ruben L.F. Habito)なんか屁みたいなものである。フィリピン出身のアブト神父はアクネス・チャンと対談して日本への嫌みを述べている。たとえば、「今の日本国 歌は侵略の歴史と結びついている歌ですが」と反日のチャン氏に擦り寄っている。( 『アジアのことが気にいらないあなたに』 めこん 1989年 p.124) よく言いやがる。日本の侵略を非難するくせに、スペイン人の血統を持つと自 慢したくなるフィリピン人は何だ? 敗戦国スペインがフィリピンを住民附きで、米国に売却したことは周知の事実だ。その中古蛮人を買った米国人に媚びへつらい、英語を公用語にして平然として いるフィリピン土人は正常なのか? こんなアホ神父でも精鋭のイエズス會士になれるのだから、時代の変化は嘆かわしい。
赴任国日本でビッテル神父は奇妙な再会をはたす。ひょんなことからアメリカ占領軍のチャールス・ウィロビー将軍とビッテル神父は帝国ホテルで会った。将 軍に会うとビッテル神父は無意識的に「ワイデンバッハ将軍、ようこそ」と言ったそうだ。ウィロビーはドイツ語の「ワイデンバッハ」にあたる名である。 ツェッペ・ワイデンバッハ男爵家といえばドイツのハイデルベルクの名家である。将軍は驚き、「あなたはドイツ人ですか」と尋ね、神父は「そうです」と答え た。将軍のお父上もドイツ人であった。ウィロビー将軍は第一次大戦でアメリカ軍将校として従軍していた。会話を進めるうちに、将軍と神父はヴェルダンで対 戦したことを知る。ビッテル神父は第18騎甲歩兵連隊第一歩兵大隊第二中隊に属していたのである。両者とも西部戦線で戦っており、派手な銃撃戦があったと いう。ウィロビー将軍は昂奮して、神父を自室に招いて語り合ったらしい。神父は部屋に入るとアメリカ軍部隊との交戦を語り、戦闘地点の「ヒル304」を将 軍に告げたところ、彼は叫ぶように言った。「私はあなたを狙撃し、あなたは私を狙撃したんだ」と声を上げるや、ウィロビー将軍は神父に握手を求めた。互い の武勇を認め、両名は深い共感を抱いたのである。戦場で一戦交えた者同士の尊敬があった。司令部GIIの将軍はこの元軍人神父を友人としたのである。
上智大学と軍部との対立
上智大学の神父らは戦中の国家神道に対して不快な思いを持っていた。上智大学の学生3名が軍事教練で靖国神社まで行軍したとき、配属将校の指示に従わず 神殿に参拝しなかった。それを聞きつけた北原一視大佐(上智大配属将校)は、その件をホフマン学長に問いただしたのである。ホフマン学長は「靖国神社につ いては問題があるので、学生を連れて参拝はしません」と答えた。学長の真意は、大学側つまり教会がどちらの立場を取るのか決着が付いていないので、決着が 付くまで学生たちを靖国神社に引率するのは控えて欲しい、とのことだった。ところが、北原大佐は、それをかなり誤解したのである。彼は陸軍省に上智大の態 度はけしからん、と報告したらしい。学校当局の反応は軍部の反感を買い、この事件は新聞でも取り上げられたのである。昭和7年ににも、靖国神社で満州事変 や第一次上海事変で戦没した英霊を祭るとき、カトリック信徒の学生数人が礼拝を頑なに拒否したことがあった。学生を引率してた軍事教官が陸軍省に報告した ところ、軍部は激怒したという。だが、当時の陸軍省次官は小磯国昭中将で、丹羽孝三・学長代理が話をつけて丸く納まったことがある。
今回の事件を読売新聞は「上智大学他二校」のとった態度は「軍教精神に背く」行為であるとみなし、「軍部激怒、文部省狼狽」と見出しをつけた。報知新聞は 「カトリック教会は國體(こくたい)を危うくする邪教である」とまで書いた。当時の陸軍大臣は荒木貞夫中将である。皇道派の荒木陸相は、政友会を目の敵に していたので、政友会の鳩山一郎・文部大臣を攻撃するために、上智大の問題を利用した節がある。上智靖国問題は政争に巻き込まれていたのである。軍人の権 勢争いとは別に、一般人の中にはキリスト教徒に怒りをぶつけて、自分の愛国心を誇示したい輩がいたことも確かで、いつの世にも困り者はいるものだ。
上智大学には右翼団体に属する学生が毎日押し寄せギャアギャア騒ぐし、新聞も軍部の尻馬に乗って上智大を非難する記事ばかり載せたのである。ついには 「文部大臣もカトリック側であり非国民だ、天誅を加えるべし」と鳩山文相暗殺計画の噂まで流れたくらいである。青年会館では「上智大学糾弾大演説会」まで 開かれた。狂信的連中は「上智大学をつぶせ!」と叫んでいた。丹羽氏は大学を去った。丹羽氏によると、彼のもとに取材に来た各紙の記者は、しきりに軍部の 横暴を非難していたが、翌日の新聞を読むと逆のことを書いていたという。新聞記者なんてこんなものである。長いものには巻かれて、強い者にはなびく。羽織 ゴロとよばれた新聞屋にガッツがあるわけないだろう。
この件の解決を計るべく、上智大のロス司教がローマ教皇と連絡を取り、ヴァチカ ンの公式見解をまとめたのである。それは、靖国神社は祖国のために戦場で斃(たお)れた無名戦士の墓と考えるべき聖域であり、信仰と関係なくすべての人が 敬意を評すべき対象である、との趣旨であった。そもそも、神道は他宗教を攻撃したり、頑迷な教義をもつ宗教ではない。「宗教(レリギオ /religion)」といった堅苦しいものではなくて、胸の内側から沸いてくる自然な感情の発露である。ご先祖様に感謝し、こころの中で手を合わせて敬 うのが本来の神道である。キリスト教徒に参拝を強制するなど、軍部は我が国の神聖な信仰を貶めていたのである。昭和天皇も靖国強制参拝など望まれていな かっただろう。虎の威を借る狐もどきの軍人が、政治的に国家神道を作り上げただけである。靖国の英霊を参拝することは、キリスト教徒にとって何ら問題はな い。キリスト教徒に扮した左翼が靖国神社反対を叫んでいるのである。
占領軍の国家神道解体策
一般の米国人にとって日本人は邪悪なカルト信仰に鼓舞された未開部族程度にしか見られていなかった。憎きナチ・ドイツと同盟を組んだ全体主義国家という イメージがつきまとうのである。日本人は天皇陛下を神の権化(incarnation)として崇拝して、世界征服を目論む軍国主義者であるから、民衆政体 をとる自由主義国のアメリカは正義の代表として、東洋の極悪人を征伐する意気込みであった。アメリカ人がこう考えてしまうのも仕方なかった。まづキリスト 教では主イエズスが天主(God)、つまりロゴス(言葉)の受肉化した者であったし(聖ヨハネの福音書 1:1-14)、ローマ帝国では皇帝崇拝があった のである。しかも、日本人はこのゴッド(God)を「神」と訳して慣例化してしまったので、八百万の神が唯一絶対神と同一視されたのである。我が国には便 所の神様や野球の神様、最近ではラーメンの神様までいるくらいだから、天地創造の超越神なんて発想はなかった。更に悪いのは、対米戦前に英文科の学者や学 生を動員して対米宣伝活動を全くしていなかったのだ。理工系学生は大切に扱っていた軍部も、文学部の学生なんか無駄飯食い程度にしか考えていなかったので ある。心理戦や謀略戦について全然分かっていなかったのだ。こんなことでも分かるくらい、軍国主義者なんか一人も日本にいなかったのである。
ビッテル神父はローマ教皇使節として占領軍総司令部から公認され、ハーバート・ウィラー大佐を通してGHQと協力するようになっていた。1945年11 月にマッカーサー元帥の副官ウィラー大佐から、ビッテル神父に電話が掛かってきた。マッカーサー元帥のある覚え書きを示すため、使者を寄越すとのことで あった。メモを読むとビッテル神父は、管区長のパトリック・バーン神父を呼んだのである。その覚え書きによれば、司令部の将校らが靖国神社焼却を主張して いたのである。そして靖国神社焼却に関して、キリスト教会側の見解を打診してきたのである。総司令部民間情報教育局(CIE)は、国家神道は廃止すべきだ が一般信仰の神道は残してもよい、と本国政府からの訓令を受けていた。CIEのダイク准将やバンズ海軍大尉などは少数派で、多数派は強硬論に傾いていた。 驚くことに、日本の仏教界、神道系の諸宗派、外務省や文部省の官僚などが神宮神社撲滅に賛成しそうだった。とくに仏教界は強硬論者だった。仏教の僧侶たち は明治維新後の廃仏毀釈を根に持っていたのかもしれない。
靖国神社の招魂祭を前にして、占領軍はどうすべきか模索していたのである。 ビッテル神父は米軍将校たちの単純な発想を推測していた。護国神社が全廃されれば、キリスト教の発展が容易になり、キリスト教会はきっと喜ぶであろう、と アメリカ人将校らは思っていたのである。ウィロビーは我が国を共産主義勢力の防波堤にしようと思っていたから、日本弱体化には反対であった。慎重だった マッカーサーは神父らの反対意見で靖国神社廃絶を防ごうとしていたのかもしれない。
ビッテル神父はもし占領軍が靖国神社を焼き払った ら、その行為は米国の汚点となり、歴史的不名誉になると諭した。自然法の原理に基づくと、いかなる国家も、祖国の為に死んだ人々に対して敬意を払う権利と 義務がある。それは戦勝国、敗戦國を問わず、平等の真理でなくてはならぬ。無名戦士の墓を想起すれば自然と理解できるはずである。靖国神社の焼却は米軍の 占領政策に反する犯罪的行為である。神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教など、いかなる信仰であろうとも、国家のために死んだ者の霊はすべて靖国神社に祭ら れることを進言したのである。ビッテル神父の助言はマッカーサー元帥も反論できなかった。こうしたビッテル神父のお陰で、靖国神社の招魂祭は予定通り行わ れ、天皇陛下も無事ご参拝なされたのである。
さすがビッル神父。そんじょそこらのプロテスタント牧師とひと味もふた味も違う。いや桁 が違う。月とスッポン、鶴とカラスの違いがある。軍人魂をもつ聖職者ならではの重厚さがある。マッカーサー将軍も、高貴なヨーロッパ人司祭にして、屈強な ドイツ軍人の意見を軽んずるわけにはいくまい。軽率なアメリカ人宣教師なら靖国神やその他の神社・神宮の廃絶に喜んで賛成しただろう。だが、ビッテル神父 はカトリック教会の伝統を受け継いでいたのである。ヨーロッパがまだ異教世界であった頃、カトリック教会のローマ人宣教師らは、ゲルマン人の信仰をいきな り根絶やしにせず、徐々にキリスト信仰へと導いたのである。ゲルマン人の民族信仰を温存しつつ、キリスト教に収斂(しゅうれん)させる手法をとったのであ る。こうした古き良きカトリック伝統を、ビッテル神父は体現していたのである。
我々はいま靖国神社に参拝できる幸せを当然のように考 えている。しかし、敗戦直後には、この英霊を祭る招魂社が存亡の危機に瀕していたのである。どんな偉い地位の日本人が占領軍に抗議したところで、そんな反 抗など蟷螂の斧(とうろうのおの/非力なもの)である。どんなに愛国心の強い日本人が米軍将校に斬りかかっても、または切腹して抗議しても神道の狂信者、 カルト宗教の手先くらいにしか思われず、かえって逆効果になったであろう。こう考えれば、ビッテル神父の反対論は千鈞の重みがある。我々日本国民は英霊を 救ったビッテル神父に感謝する日を制定したってよいくらいだ。やれ8月8日は「フジテレビの日」だとか、11月22日は「いい夫婦の日」だ、3月14日は 「ホワイト・デー」でプレゼントを買いましょうなどといって、浮かれている日本人は反省すべきだ。
もし、靖国神社が廃絶されドッグ・ レース場にでもなっていたら、生き残った我々は殉死した英霊に対して申し訳がたたない。戦死した我が軍の将兵が仲間と再会する聖域がなくなってしまうの だ。戦場で血を流した英霊が、祖国に還ってきて涙を流すことになったら我々は土下座しても謝りきれない。我々はビッテル神父に心から感謝したい。日本人を 理解し、愛したカトリック神父には自然と頭が下がる。昇天なさったブルノー・ビッテル神父の霊に祈りをささげるのは、英霊の子孫たる日本国民の努めであろ う。
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ブルノー・ビッテル(Bruno Bitter/1898-1987)神父が靖国神社を救ったことは、一般国民にあまり知られていない。こんにち我々が靖国神社に参拝できるのはビッテル神 父のお陰と言えよう。そこでビッテル神父のことについて紹介したい。(朝日ソノラマ編集部 『マッカーサーの涙』 昭和48年を参照)
ビッテル師は聖職者になる前、ドイツ陸軍士官で精鋭部隊に属していた。ブルノー・ビッテル中尉は第一次世界大戦で勇猛果敢に戦い、鉄十字勲章を授与され たのである。ドイツが大戦に敗れ、ビッテル中尉は英国軍の捕虜になってしまう。この勇士は英国で2年間の捕虜生活を送ったとき、大いに考えた末、聖職者に なる決意を固めたという。そしてカトリック教会のエリート修道会であるイエズス會に入ったのである。
ビッテル神父の御尊父フランツ・ ビッテル氏は、ワイマール共和国で中央党の指導的立場にあった政治家で、晩年は最高裁判所判事を務められた。その中央党はヒトラー政権の誕生で自然消滅し たのである。名門ビッテル家の遺産を象徴するのが、バイエルンのベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)だろう。ミュンヘンにほど近い丘の頂に 建てられた豪華な邸宅である。ヒトラーが要人を招いた有名な別荘だ。ビッテル神父はヒトラーにも会って話をしたくらいで、名家のご子息であった。
現在のカトリック教会は深刻な神父不足でドイツから多くの司祭が派遣されることはないが、昭和の末までは優秀な神父がヨーロッパから日本に来ていたので ある。たとえば、ヘルマン・ホイヴェルス神父(イエズス會士で上智大学長)やヨゼフ・ピタウ神父(上智大学長で後に枢機卿)、ピーター・ミルワード神父 (人気の英語教師でシェイクスピア研究家)、ヨセフ・ロゲンドルフ神父(日本文学専攻)など錚々たる人物がやって来たのである。とくにドイツからの宣教師 は有能で立派な聖職者が多かった。上智大学の初代学長を務められたヘルマン・ホフマン(Hermann Hoffman)神父や二代目のホイヴェルス(Hermann Heuvers)神父に加えて、中世哲学の大家で有名なクラウス・リーゼンフーバー神父は、ドイツ出身のイエズス會士である。神父が貴族的雰囲気を醸し出 す高貴なヨーロッパ紳士であるのは、やはり立派な家系の出身だからであろう。神父は育ちのよさがオーラとして現れるほどの人格者で、聖トマス・アクィナス に関する一級の碩学である。リーゼンフーバー神父の兄上であるハインツ・リーゼンフーバー(Heinz Riesenhuber)氏は、ドイツの政党CDU所属の政治家で、コール政権では文部科学大臣(Bundesministerium für Bildung und Forschung)を務められたことで有名である。
これらの偉人に比べたら、同じイエズス會士のルベン・ アビト(Ruben L.F. Habito)なんか屁みたいなものである。フィリピン出身のアブト神父はアクネス・チャンと対談して日本への嫌みを述べている。たとえば、「今の日本国 歌は侵略の歴史と結びついている歌ですが」と反日のチャン氏に擦り寄っている。( 『アジアのことが気にいらないあなたに』 めこん 1989年 p.124) よく言いやがる。日本の侵略を非難するくせに、スペイン人の血統を持つと自 慢したくなるフィリピン人は何だ? 敗戦国スペインがフィリピンを住民附きで、米国に売却したことは周知の事実だ。その中古蛮人を買った米国人に媚びへつらい、英語を公用語にして平然として いるフィリピン土人は正常なのか? こんなアホ神父でも精鋭のイエズス會士になれるのだから、時代の変化は嘆かわしい。
赴任国日本でビッテル神父は奇妙な再会をはたす。ひょんなことからアメリカ占領軍のチャールス・ウィロビー将軍とビッテル神父は帝国ホテルで会った。将 軍に会うとビッテル神父は無意識的に「ワイデンバッハ将軍、ようこそ」と言ったそうだ。ウィロビーはドイツ語の「ワイデンバッハ」にあたる名である。 ツェッペ・ワイデンバッハ男爵家といえばドイツのハイデルベルクの名家である。将軍は驚き、「あなたはドイツ人ですか」と尋ね、神父は「そうです」と答え た。将軍のお父上もドイツ人であった。ウィロビー将軍は第一次大戦でアメリカ軍将校として従軍していた。会話を進めるうちに、将軍と神父はヴェルダンで対 戦したことを知る。ビッテル神父は第18騎甲歩兵連隊第一歩兵大隊第二中隊に属していたのである。両者とも西部戦線で戦っており、派手な銃撃戦があったと いう。ウィロビー将軍は昂奮して、神父を自室に招いて語り合ったらしい。神父は部屋に入るとアメリカ軍部隊との交戦を語り、戦闘地点の「ヒル304」を将 軍に告げたところ、彼は叫ぶように言った。「私はあなたを狙撃し、あなたは私を狙撃したんだ」と声を上げるや、ウィロビー将軍は神父に握手を求めた。互い の武勇を認め、両名は深い共感を抱いたのである。戦場で一戦交えた者同士の尊敬があった。司令部GIIの将軍はこの元軍人神父を友人としたのである。
上智大学と軍部との対立
上智大学の神父らは戦中の国家神道に対して不快な思いを持っていた。上智大学の学生3名が軍事教練で靖国神社まで行軍したとき、配属将校の指示に従わず 神殿に参拝しなかった。それを聞きつけた北原一視大佐(上智大配属将校)は、その件をホフマン学長に問いただしたのである。ホフマン学長は「靖国神社につ いては問題があるので、学生を連れて参拝はしません」と答えた。学長の真意は、大学側つまり教会がどちらの立場を取るのか決着が付いていないので、決着が 付くまで学生たちを靖国神社に引率するのは控えて欲しい、とのことだった。ところが、北原大佐は、それをかなり誤解したのである。彼は陸軍省に上智大の態 度はけしからん、と報告したらしい。学校当局の反応は軍部の反感を買い、この事件は新聞でも取り上げられたのである。昭和7年ににも、靖国神社で満州事変 や第一次上海事変で戦没した英霊を祭るとき、カトリック信徒の学生数人が礼拝を頑なに拒否したことがあった。学生を引率してた軍事教官が陸軍省に報告した ところ、軍部は激怒したという。だが、当時の陸軍省次官は小磯国昭中将で、丹羽孝三・学長代理が話をつけて丸く納まったことがある。
今回の事件を読売新聞は「上智大学他二校」のとった態度は「軍教精神に背く」行為であるとみなし、「軍部激怒、文部省狼狽」と見出しをつけた。報知新聞は 「カトリック教会は國體(こくたい)を危うくする邪教である」とまで書いた。当時の陸軍大臣は荒木貞夫中将である。皇道派の荒木陸相は、政友会を目の敵に していたので、政友会の鳩山一郎・文部大臣を攻撃するために、上智大の問題を利用した節がある。上智靖国問題は政争に巻き込まれていたのである。軍人の権 勢争いとは別に、一般人の中にはキリスト教徒に怒りをぶつけて、自分の愛国心を誇示したい輩がいたことも確かで、いつの世にも困り者はいるものだ。
上智大学には右翼団体に属する学生が毎日押し寄せギャアギャア騒ぐし、新聞も軍部の尻馬に乗って上智大を非難する記事ばかり載せたのである。ついには 「文部大臣もカトリック側であり非国民だ、天誅を加えるべし」と鳩山文相暗殺計画の噂まで流れたくらいである。青年会館では「上智大学糾弾大演説会」まで 開かれた。狂信的連中は「上智大学をつぶせ!」と叫んでいた。丹羽氏は大学を去った。丹羽氏によると、彼のもとに取材に来た各紙の記者は、しきりに軍部の 横暴を非難していたが、翌日の新聞を読むと逆のことを書いていたという。新聞記者なんてこんなものである。長いものには巻かれて、強い者にはなびく。羽織 ゴロとよばれた新聞屋にガッツがあるわけないだろう。
この件の解決を計るべく、上智大のロス司教がローマ教皇と連絡を取り、ヴァチカ ンの公式見解をまとめたのである。それは、靖国神社は祖国のために戦場で斃(たお)れた無名戦士の墓と考えるべき聖域であり、信仰と関係なくすべての人が 敬意を評すべき対象である、との趣旨であった。そもそも、神道は他宗教を攻撃したり、頑迷な教義をもつ宗教ではない。「宗教(レリギオ /religion)」といった堅苦しいものではなくて、胸の内側から沸いてくる自然な感情の発露である。ご先祖様に感謝し、こころの中で手を合わせて敬 うのが本来の神道である。キリスト教徒に参拝を強制するなど、軍部は我が国の神聖な信仰を貶めていたのである。昭和天皇も靖国強制参拝など望まれていな かっただろう。虎の威を借る狐もどきの軍人が、政治的に国家神道を作り上げただけである。靖国の英霊を参拝することは、キリスト教徒にとって何ら問題はな い。キリスト教徒に扮した左翼が靖国神社反対を叫んでいるのである。
占領軍の国家神道解体策
一般の米国人にとって日本人は邪悪なカルト信仰に鼓舞された未開部族程度にしか見られていなかった。憎きナチ・ドイツと同盟を組んだ全体主義国家という イメージがつきまとうのである。日本人は天皇陛下を神の権化(incarnation)として崇拝して、世界征服を目論む軍国主義者であるから、民衆政体 をとる自由主義国のアメリカは正義の代表として、東洋の極悪人を征伐する意気込みであった。アメリカ人がこう考えてしまうのも仕方なかった。まづキリスト 教では主イエズスが天主(God)、つまりロゴス(言葉)の受肉化した者であったし(聖ヨハネの福音書 1:1-14)、ローマ帝国では皇帝崇拝があった のである。しかも、日本人はこのゴッド(God)を「神」と訳して慣例化してしまったので、八百万の神が唯一絶対神と同一視されたのである。我が国には便 所の神様や野球の神様、最近ではラーメンの神様までいるくらいだから、天地創造の超越神なんて発想はなかった。更に悪いのは、対米戦前に英文科の学者や学 生を動員して対米宣伝活動を全くしていなかったのだ。理工系学生は大切に扱っていた軍部も、文学部の学生なんか無駄飯食い程度にしか考えていなかったので ある。心理戦や謀略戦について全然分かっていなかったのだ。こんなことでも分かるくらい、軍国主義者なんか一人も日本にいなかったのである。
ビッテル神父はローマ教皇使節として占領軍総司令部から公認され、ハーバート・ウィラー大佐を通してGHQと協力するようになっていた。1945年11 月にマッカーサー元帥の副官ウィラー大佐から、ビッテル神父に電話が掛かってきた。マッカーサー元帥のある覚え書きを示すため、使者を寄越すとのことで あった。メモを読むとビッテル神父は、管区長のパトリック・バーン神父を呼んだのである。その覚え書きによれば、司令部の将校らが靖国神社焼却を主張して いたのである。そして靖国神社焼却に関して、キリスト教会側の見解を打診してきたのである。総司令部民間情報教育局(CIE)は、国家神道は廃止すべきだ が一般信仰の神道は残してもよい、と本国政府からの訓令を受けていた。CIEのダイク准将やバンズ海軍大尉などは少数派で、多数派は強硬論に傾いていた。 驚くことに、日本の仏教界、神道系の諸宗派、外務省や文部省の官僚などが神宮神社撲滅に賛成しそうだった。とくに仏教界は強硬論者だった。仏教の僧侶たち は明治維新後の廃仏毀釈を根に持っていたのかもしれない。
靖国神社の招魂祭を前にして、占領軍はどうすべきか模索していたのである。 ビッテル神父は米軍将校たちの単純な発想を推測していた。護国神社が全廃されれば、キリスト教の発展が容易になり、キリスト教会はきっと喜ぶであろう、と アメリカ人将校らは思っていたのである。ウィロビーは我が国を共産主義勢力の防波堤にしようと思っていたから、日本弱体化には反対であった。慎重だった マッカーサーは神父らの反対意見で靖国神社廃絶を防ごうとしていたのかもしれない。
ビッテル神父はもし占領軍が靖国神社を焼き払った ら、その行為は米国の汚点となり、歴史的不名誉になると諭した。自然法の原理に基づくと、いかなる国家も、祖国の為に死んだ人々に対して敬意を払う権利と 義務がある。それは戦勝国、敗戦國を問わず、平等の真理でなくてはならぬ。無名戦士の墓を想起すれば自然と理解できるはずである。靖国神社の焼却は米軍の 占領政策に反する犯罪的行為である。神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教など、いかなる信仰であろうとも、国家のために死んだ者の霊はすべて靖国神社に祭ら れることを進言したのである。ビッテル神父の助言はマッカーサー元帥も反論できなかった。こうしたビッテル神父のお陰で、靖国神社の招魂祭は予定通り行わ れ、天皇陛下も無事ご参拝なされたのである。
さすがビッル神父。そんじょそこらのプロテスタント牧師とひと味もふた味も違う。いや桁 が違う。月とスッポン、鶴とカラスの違いがある。軍人魂をもつ聖職者ならではの重厚さがある。マッカーサー将軍も、高貴なヨーロッパ人司祭にして、屈強な ドイツ軍人の意見を軽んずるわけにはいくまい。軽率なアメリカ人宣教師なら靖国神やその他の神社・神宮の廃絶に喜んで賛成しただろう。だが、ビッテル神父 はカトリック教会の伝統を受け継いでいたのである。ヨーロッパがまだ異教世界であった頃、カトリック教会のローマ人宣教師らは、ゲルマン人の信仰をいきな り根絶やしにせず、徐々にキリスト信仰へと導いたのである。ゲルマン人の民族信仰を温存しつつ、キリスト教に収斂(しゅうれん)させる手法をとったのであ る。こうした古き良きカトリック伝統を、ビッテル神父は体現していたのである。
我々はいま靖国神社に参拝できる幸せを当然のように考 えている。しかし、敗戦直後には、この英霊を祭る招魂社が存亡の危機に瀕していたのである。どんな偉い地位の日本人が占領軍に抗議したところで、そんな反 抗など蟷螂の斧(とうろうのおの/非力なもの)である。どんなに愛国心の強い日本人が米軍将校に斬りかかっても、または切腹して抗議しても神道の狂信者、 カルト宗教の手先くらいにしか思われず、かえって逆効果になったであろう。こう考えれば、ビッテル神父の反対論は千鈞の重みがある。我々日本国民は英霊を 救ったビッテル神父に感謝する日を制定したってよいくらいだ。やれ8月8日は「フジテレビの日」だとか、11月22日は「いい夫婦の日」だ、3月14日は 「ホワイト・デー」でプレゼントを買いましょうなどといって、浮かれている日本人は反省すべきだ。
もし、靖国神社が廃絶されドッグ・ レース場にでもなっていたら、生き残った我々は殉死した英霊に対して申し訳がたたない。戦死した我が軍の将兵が仲間と再会する聖域がなくなってしまうの だ。戦場で血を流した英霊が、祖国に還ってきて涙を流すことになったら我々は土下座しても謝りきれない。我々はビッテル神父に心から感謝したい。日本人を 理解し、愛したカトリック神父には自然と頭が下がる。昇天なさったブルノー・ビッテル神父の霊に祈りをささげるのは、英霊の子孫たる日本国民の努めであろ う。
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女をモノ扱いする支那社会
支那人女が偽装結婚で滞在許可を狙ったり、日本国籍を取得しようと目論むのはよくあることだ。最近も、定住ビザを取得する目的で偽装結婚をしたとして、横 浜市に住む支那人・王万金が捕まった。支那籍の王は自称サービス業者の原田博と共犯して、鶴見区役所に嘘の婚姻届を提出したという。王には夫婦としての居 住実態が無く、原田と離婚した翌年には、別の支那人男と結婚していたのである。(TBS News, 2014年11月4日) こうして定住ビザを取得した支那人女が、別の支那人男を日本に引き込み、我が国は支那人であふれかえることとなる。こうした偽装 結婚の氾濫もさることながら、支那人の結婚観とは何だ? 日本人にとり、結婚とは慶事であり、人生の重大事である。それなのに支那人ときたら、お金かビザのために結婚するのだ。彼らの頭がおかしいのは確かだが、 それは陰惨な歴史から由来するのである。(以下の記事は、井出季和太 著 『支那の奇習と異聞』 平野書房 1935年 pp.1-34 を参照)
支那社会では男の子が尊重される。男は家を継ぐことが出来て、家の経済を助けるが、女は費用をかけたって、他家に嫁ぐから金の無駄。もし離婚してくれば家の厄介者となる。ここで、ひとつ支那の奇習をご紹介。
童養媳(どうようそく)は普通の婚姻による嫁ではなく、正式な結婚の前に夫の家に入る見習い妻のようなものだ。結婚前にやってくる女の子は11歳ないし 8、9歳の子供で、16、7歳になれば正式に結婚する。えぇー、小学生じゃないか、と驚くなかれ。昔は初潮を迎えれば、セックスできる女と見なされたので ある。可哀想なのは、この童養媳は姑により酷使され、毎日茶を煮たり飯を炊いたり、洗濯をしたり、と一切の家事や雑用を命令されたのである。姑(しゅうと め)が義理の父母を兼ねているときは、童養媳をいっそう残酷に扱うのである。些細なことでも、もし気にくわないときは罵り、殴打することもあるし、食事を 与えないこともある。これがために娘の成長にも影響するし、盗み食いの悪習も身につけてしまうのだ。童養媳がいざ結婚しても良い結果は生まれない。結婚の ロマンスなど一切無いから、夫婦間に反目が起これば、同床異夢の生活を送ることになる。冷め切った夫婦は、一年中口をきかぬこともあるだ。
それでも、支那では妻を娶るのが一般的だが、淫乱で妖艶な風土をもつ広東省では、婿取りの悪習がある。婿殿といっても、日本でよくある家業を存続させる ための夫ではなく、礼儀や羞恥心もない豚や犬のような生活をしている男である。当時は後家の婿取りが流行していた。ある婦人が孀(やもめ)になり孤独にな ると、まづ婿を取りを考える。雇われ婿に条件をつけて、姑や子の養育をさせておきながら、愛人を家に引き入れるのだ。幾人かの夫は平気で同居し、まるで兄 弟のように同棲するのだ。実におぞましい。淫乱生活の結果で生まれた子は、誰が父親か分からない。当然だ。しかし、世間はこれを怪しまない。かえってその 婦人は能力があると言われるのだ。支那人は脳に精子が詰まっているのだろう。よかった、我々は日本に生まれて。
1993年に上映された『幸福の条件(Indecent Proposal)』を覚えている方もいるだろう。往年のハンサム男優ロバート・レッドフォーとデミ・ムーアが共演した作品だ。物語はこうだ。デイヴィッ ドとダイアナ(デミ扮する) が一攫千金をねらってカジノで博打を行うが、所持金をすべて失いスッカラカンになってしまう。そこへ億万長者のジョン(レッドフォード) が現れ、夫のデ イヴィッドに夫人を一晩貸してくれたら、100万ドル差し上げよう、と提案する。夫婦は迷いながらも、その不謹慎な申し出(indecent proposal) を承諾してしまう。こんな話は、レッドフォードのような二枚目が、デミ・ムアーのような美女に提案するから、観客も納得するのだ。豚のように太った成金の 不細工男が言ったら気持ち悪い。ところが、支那では女房の貸し借りをしていたのである。支那人は女をレンタル便器のように扱っているのだ。自分の女房を他 人に貸し出すなんて神経は、善良な日本人には理解できない。
支那には「典妻(てんさい)」という風習がある。これは女房の質入れであ る。夫が金銭を得るために一定期間他人に自分の妻を占有しようさせ、期間の満了と共にお金を弁済し、妻を取り戻す契約である。妻を質入れする夫は「質入 主」で「出典人(しゅってんにん)」と呼ばれ、妻を受け取った「質受人」は「承典人(しょうてんにん)」と呼ばれた。質入れ期間に生まれた子は質受人に属 する。期間中に妻が死んだときは、双方で立ち会って埋葬する。典妻の契約は法律で認められていないから、その期間に生まれた子は庶子である。典妻の動機 は、①金銭を得ること、②性欲を満たすこと、③子を得ることである。レンタル妻の期間は普通10年にわたる。5年くらいの場合もあるが、極く稀である。質 値段は安く、10年もので僅か30元そこそこで、5年ものならば10元くらいであった。典妻の第一目的は子孫をもつためであるから、質受人は受け取る女の 醜美は気にとめないし、けっこう待遇を良くした。だが、ある程度の時が経っても子を産まず、あるいは産んでも障碍児(しょうがいじ)ならば虐待することも あった。たいていは、罵倒したり殴打して残酷な扱いをする。レンタル女の夫がこれを聞きつけても介入する権利は無く、女は黙って堪えるしかない。
子供を欲しくて妾を囲おうとした男が居ても、本妻の嫉妬を懼れて養子を迎えようとする場合がある。しかし、実の子ではないから家庭内でゴタゴタが起き る。そこで典妻の契約をする。一方、貸し出される女の方は“貧乏の子だくさん”というケースがあり、そのうえ怠け者の亭主を抱えていたりするので、恥を忍 んで典妻に応じるのである。典妻を迎える目的は、男の家で子孫を育て祖宗の嗣子(しし) をもつことにある。後継者を他人の子宮で作るのだ。女を迎えるに当たって、彼女の窮状、容姿・年齢・性格などの条件を媒酌人に依頼する。女の方は男の家が 金持ちであるかどうか、忠実であるか、男の容姿や体形・年齢などは特に要望しない。条件が合えば日取りを決める。お金目当ての女ということだ。
典妻と一味違う「租妻(そさい)」があった。これは妻の賃貸借である。典妻と異なるのは、一定の金銭を貰って妻を他人の自由に委ねること。つまり男の性 的欲望を満たすことを主目的にする。妻を売春婦にして派遣するという風習である。だから期限も比較的短いものが多く、淫売式精神を加味している。夫が貧し く妻を扶養できぬときは、他人に賃貸するのだ。夫は媒酌人を介して期間と賃料を協議して契約書を作成する。賃貸条件や連れ子の有無、病死したときの責任ま で記載する。租妻は妾と違い、権夫(ごんふ)と原夫(げんふ)がある。租妻の産んだ子はどうなるかはあらかじめ契約しておく必要がある。妻を賃貸すること で商売の元手を得たり、債務の弁済をしたり、子供の教育もできる。また、異郷の旅行者も人妻を借りることが出来る。家に来た客が期限を決めて人妻を借りて セックスする。その期間は夫が外出して、嫌なシーンを避ける。期限がくれば妻がその客と親しくなっていようとも、客を拒み滞在を許さない。もし客が延長を 申し出れば、新たな契約が必要となる。また、浙江省では客人を接待するために妻を無償で一夜の提供をすることがある。
こうした常軌を 逸した慣習が、アジア大陸にはある。支那人や朝鮮人の家に嫁いでしまった日本人女性が体験する、「世にもおぞましい」アジア的結婚生活の根底にある。核家 庭に生まれて、箱入り娘として大切に育てられた日本人娘が、支那人や朝鮮人に嫁いだら、下女の扱いを受けるだけでは済まない。無知蒙昧で頑迷なジジイやバ バア、親類一同が無邪気な日本人妻によってたかって意地悪をするのだ。ドブに堆積したヘドロのような因習に、どっぷり漬かった陰湿な家庭で、彼女らは泣き ながら堪えるしかないのである。先祖の供養だとか“儒教的しきたり”とか、訳の解らぬ行事に押しつぶされるのである。後悔しても遅いのだ。
何が何でも男の子を欲しがる支那人
支那や朝鮮は徹底した男尊女卑社会である。日本の社会は実質的に、女性の楽園であり、カカア天下である。支那・朝鮮では、子供をもつことについても、男 の子を後継者と見なすが、女の子は別人扱いとして顧みない。妻が妊娠して女の子が生まれると大変な不幸であるから、分娩前に神様に祈ったり、易者に占って 貰ったりする。三人以上女児が生まれたら、母親は三日間慟哭(どうこく)して食事もろくに取らないし、人に顔を見せない。姑も恨んで物を言わず、嘆いてふ さぎこむ。支那人や朝鮮人が、如何に精神異常文化を持っているかが解る。
男の子が生まれて2歳にもならないうちから、父母はその子の 妻を見つけ始める。いったん決まった女はたとえ夫となる男が馬鹿・白痴であっても、恐ろしい親の剣幕に従わねばならない。しかも、貧しい家の多くでは、童 養媳をはなはだ過酷に使うのである。生き地獄のような生活を送る者もいたのである。「等郎嫂(とうろうそう)」という蛮習がある。ある夫婦がまだ生まれぬ 子のために、一人の娘を貰って「小媳婦(しょうそくふ)」とし、未来の子の妻とすべく待っている。夫を待つ女ということ。もし、この女の子が相当な年に なっても、夫が生まれぬ場合、この小媳婦を他家へ嫁がせる。この女は処女であっても再婚者とされ、処女よりも身分が下となり、中流家庭の子とは結婚できな くなってしまう。等郎媳は童養媳と同じく、いづれ息子と結婚することになるのだが、年が離れていたり、幼年時代から一緒に居たことで二人とも様々な悪印象 が残る。これでは夫婦の感情が悪くなるのも当然だ。しかるに自分の息子を溺愛する親は、その夫婦間が悪いと見れば、別の媳婦(そくふ) を娶ってやるのだ。既に同居している女は、別の新人が来れば退けられ、世捨て人のような生活を送らねばならない。貧乏家庭なら、この女を金に換えて他家へ 再婚させるが、裕福な名家だと世間体もあって、売り飛ばすわけにもいかない。したがって中古女房は、陰惨な家庭につながれたまま、寂しい人生となる。
支那人の結婚観をこうして見てくると、もう我々の結婚観とは異質なものであることが分かるだろう。「二婚親(にこんしん)」も嫌な風習である。これは夫 が死んだ者とか、夫婦間の不和で親または夫に売られた者が再婚する者を指す。奇妙なのは二婚親の値段が未婚の処女より高いことである。数回重婚して男の子 を持つ場合、「随身賠價(ずいしんばいか)」として娶る者には歓迎される。それは跡継を欲する情が激しいので一挙両得となるからだ。ただし、重婚者は歓迎 されるが、一般の価格は低い。二婚親を娶るときは姑が、妻を売却する側の夫と金額交渉し、「出字(売渡証書)」を貰う。まあ、中古品の譲渡証明書である。 妻が不貞をはたらけば、よそへ嫁がねば、売却されてしまうのだ。夫に捨てられた婦人を買い取り、二婚親として仲介売買する「贅媽(ぜいま)」というババア もいたのである。女はもう中古自動車みたいだ。
そして、支那版夫婦スワッピング見たいな風習もあった。甘粛省では男が多く女が少ない ので、男女関係が自由であった。兄が死ねば弟がその嫂(あによめ)を妻とし、弟が死ねば兄がその義理の妹を妻とする。兄弟で一人の妻を共有することが珍し くなかった。一人の女を兄弟で輪姦するようなものだ。妻が兄弟それぞれの宿を回って床に就くことがある。子供が生まれれば長子は兄の子とし、次の子は次男 の弟に与え、三番目は三男に与える、といったルールであった。
支那にはインドの悪習と似たものがある。夫を亡くした寡婦が殉死する風 習である。寡婦が自殺するとき舅と姑に相談すると、義理の両親はこれを婦徳と賞めて庭に高台を造り、吉日を選んで親族や朋友に手紙を出す。儀式に連なる客 は皆清潔な衣冠を着けて席に着く。すると婦人は親戚や舅姑に最後の別れを告げて、台の上に上り、赤い縄を首に巻いて自殺する。客は断末魔の赤縄の動きを眺 めても助けようとはせず、かえって両手を胸の前で合わせて主人のために慶賀し、烈婦としてその女を祝福するのだ。主人もまた顔に喜びの表情を浮かべるの だ。もう「ぞっとする」なんて表現では言い表せない。支那人なんてもう、どうなってもいいじゃないか。
支那人の感覚や性格は、精神異常者(psychopath) か、屍体愛者(necrophilia) のようである。死者のために「冥婚(めいこん)」まである。これは未婚男女の死後結婚である。男女が共に死んだ場合と、男女のいずれかが死んだ場合とがあ る。男子が先に死んだときには、富貴の家や中産家でも両親は、ほぼ同年齢で同時期に死んだ女の子を物色する。見つけたら媒酌人を介して、その娘の家と相談 して死児の婚姻を契約し、その婚姻を取り決める。婚姻の儀式を執行して祖廟に納めるが、女の棺は男の墓に運び右側に埋葬する。その時から死んだ女は男の家 の嫁とされ、その名前を家の系図に載せ両家は縁戚となる。
許嫁(いいなずけ)の男が婚姻前に死んだら、許嫁の女はその男の家に嫁ぎ、 男の位牌と結婚を挙げる。その後は夫の喪に服して終生貞節を守り舅姑に奉仕する。これを「守清(しゅせい)」と呼び、これを破り他家へ嫁ぐ女は不逞であ り、無礼者として地元の人々から嗤われる。それに両親からも排斥されてしまう。その許嫁の女が守清を欲しないとき、他の女が代理となる。その男の家の財産 や地位に目が眩んだ女が転がり込んで、「守清」の生活をする。この風習は年老いた者か、容姿が醜くくて結婚できぬ者がなる。未婚の男が未婚の死んだ女を娶 ることもある。これは「娶鬼妻」と名付けられ、多くの女の骸骨を墓から掘り出し、その男に届けるという古来の風習である。
ああ、もう 嫌だ。こんな呪われた支那人のことなかんて知りたくもない。江戸時代の日本人は、実際の支那大陸を知らなかったので、漢籍だけ学んで勝手に支那を理想化し ていたのである。現実を知らずに、書物の中にいる支那人を尊敬していたのである。いまでも支那人の正体を知らぬ日本人が、支那人と「見合い結婚」という人 身売買契約で、支那人妻を迎えている。農村の愚かな中高年男性が、支那人女に引っかかっている惨状が、時々ニュースで流れる。支那人の実態を分かったとき は手遅れという場合もある。保険金を掛けられた夫が、自分の両親もろとも殺されて“あの世行き”になることがある。馬鹿者は痛い目に遭わないと分からな い、というが、死んだら後悔すら出来ないのだから不憫である。南無阿弥陀仏。アーメン。
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支那人女が偽装結婚で滞在許可を狙ったり、日本国籍を取得しようと目論むのはよくあることだ。最近も、定住ビザを取得する目的で偽装結婚をしたとして、横 浜市に住む支那人・王万金が捕まった。支那籍の王は自称サービス業者の原田博と共犯して、鶴見区役所に嘘の婚姻届を提出したという。王には夫婦としての居 住実態が無く、原田と離婚した翌年には、別の支那人男と結婚していたのである。(TBS News, 2014年11月4日) こうして定住ビザを取得した支那人女が、別の支那人男を日本に引き込み、我が国は支那人であふれかえることとなる。こうした偽装 結婚の氾濫もさることながら、支那人の結婚観とは何だ? 日本人にとり、結婚とは慶事であり、人生の重大事である。それなのに支那人ときたら、お金かビザのために結婚するのだ。彼らの頭がおかしいのは確かだが、 それは陰惨な歴史から由来するのである。(以下の記事は、井出季和太 著 『支那の奇習と異聞』 平野書房 1935年 pp.1-34 を参照)
支那社会では男の子が尊重される。男は家を継ぐことが出来て、家の経済を助けるが、女は費用をかけたって、他家に嫁ぐから金の無駄。もし離婚してくれば家の厄介者となる。ここで、ひとつ支那の奇習をご紹介。
童養媳(どうようそく)は普通の婚姻による嫁ではなく、正式な結婚の前に夫の家に入る見習い妻のようなものだ。結婚前にやってくる女の子は11歳ないし 8、9歳の子供で、16、7歳になれば正式に結婚する。えぇー、小学生じゃないか、と驚くなかれ。昔は初潮を迎えれば、セックスできる女と見なされたので ある。可哀想なのは、この童養媳は姑により酷使され、毎日茶を煮たり飯を炊いたり、洗濯をしたり、と一切の家事や雑用を命令されたのである。姑(しゅうと め)が義理の父母を兼ねているときは、童養媳をいっそう残酷に扱うのである。些細なことでも、もし気にくわないときは罵り、殴打することもあるし、食事を 与えないこともある。これがために娘の成長にも影響するし、盗み食いの悪習も身につけてしまうのだ。童養媳がいざ結婚しても良い結果は生まれない。結婚の ロマンスなど一切無いから、夫婦間に反目が起これば、同床異夢の生活を送ることになる。冷め切った夫婦は、一年中口をきかぬこともあるだ。
それでも、支那では妻を娶るのが一般的だが、淫乱で妖艶な風土をもつ広東省では、婿取りの悪習がある。婿殿といっても、日本でよくある家業を存続させる ための夫ではなく、礼儀や羞恥心もない豚や犬のような生活をしている男である。当時は後家の婿取りが流行していた。ある婦人が孀(やもめ)になり孤独にな ると、まづ婿を取りを考える。雇われ婿に条件をつけて、姑や子の養育をさせておきながら、愛人を家に引き入れるのだ。幾人かの夫は平気で同居し、まるで兄 弟のように同棲するのだ。実におぞましい。淫乱生活の結果で生まれた子は、誰が父親か分からない。当然だ。しかし、世間はこれを怪しまない。かえってその 婦人は能力があると言われるのだ。支那人は脳に精子が詰まっているのだろう。よかった、我々は日本に生まれて。
1993年に上映された『幸福の条件(Indecent Proposal)』を覚えている方もいるだろう。往年のハンサム男優ロバート・レッドフォーとデミ・ムーアが共演した作品だ。物語はこうだ。デイヴィッ ドとダイアナ(デミ扮する) が一攫千金をねらってカジノで博打を行うが、所持金をすべて失いスッカラカンになってしまう。そこへ億万長者のジョン(レッドフォード) が現れ、夫のデ イヴィッドに夫人を一晩貸してくれたら、100万ドル差し上げよう、と提案する。夫婦は迷いながらも、その不謹慎な申し出(indecent proposal) を承諾してしまう。こんな話は、レッドフォードのような二枚目が、デミ・ムアーのような美女に提案するから、観客も納得するのだ。豚のように太った成金の 不細工男が言ったら気持ち悪い。ところが、支那では女房の貸し借りをしていたのである。支那人は女をレンタル便器のように扱っているのだ。自分の女房を他 人に貸し出すなんて神経は、善良な日本人には理解できない。
支那には「典妻(てんさい)」という風習がある。これは女房の質入れであ る。夫が金銭を得るために一定期間他人に自分の妻を占有しようさせ、期間の満了と共にお金を弁済し、妻を取り戻す契約である。妻を質入れする夫は「質入 主」で「出典人(しゅってんにん)」と呼ばれ、妻を受け取った「質受人」は「承典人(しょうてんにん)」と呼ばれた。質入れ期間に生まれた子は質受人に属 する。期間中に妻が死んだときは、双方で立ち会って埋葬する。典妻の契約は法律で認められていないから、その期間に生まれた子は庶子である。典妻の動機 は、①金銭を得ること、②性欲を満たすこと、③子を得ることである。レンタル妻の期間は普通10年にわたる。5年くらいの場合もあるが、極く稀である。質 値段は安く、10年もので僅か30元そこそこで、5年ものならば10元くらいであった。典妻の第一目的は子孫をもつためであるから、質受人は受け取る女の 醜美は気にとめないし、けっこう待遇を良くした。だが、ある程度の時が経っても子を産まず、あるいは産んでも障碍児(しょうがいじ)ならば虐待することも あった。たいていは、罵倒したり殴打して残酷な扱いをする。レンタル女の夫がこれを聞きつけても介入する権利は無く、女は黙って堪えるしかない。
子供を欲しくて妾を囲おうとした男が居ても、本妻の嫉妬を懼れて養子を迎えようとする場合がある。しかし、実の子ではないから家庭内でゴタゴタが起き る。そこで典妻の契約をする。一方、貸し出される女の方は“貧乏の子だくさん”というケースがあり、そのうえ怠け者の亭主を抱えていたりするので、恥を忍 んで典妻に応じるのである。典妻を迎える目的は、男の家で子孫を育て祖宗の嗣子(しし) をもつことにある。後継者を他人の子宮で作るのだ。女を迎えるに当たって、彼女の窮状、容姿・年齢・性格などの条件を媒酌人に依頼する。女の方は男の家が 金持ちであるかどうか、忠実であるか、男の容姿や体形・年齢などは特に要望しない。条件が合えば日取りを決める。お金目当ての女ということだ。
典妻と一味違う「租妻(そさい)」があった。これは妻の賃貸借である。典妻と異なるのは、一定の金銭を貰って妻を他人の自由に委ねること。つまり男の性 的欲望を満たすことを主目的にする。妻を売春婦にして派遣するという風習である。だから期限も比較的短いものが多く、淫売式精神を加味している。夫が貧し く妻を扶養できぬときは、他人に賃貸するのだ。夫は媒酌人を介して期間と賃料を協議して契約書を作成する。賃貸条件や連れ子の有無、病死したときの責任ま で記載する。租妻は妾と違い、権夫(ごんふ)と原夫(げんふ)がある。租妻の産んだ子はどうなるかはあらかじめ契約しておく必要がある。妻を賃貸すること で商売の元手を得たり、債務の弁済をしたり、子供の教育もできる。また、異郷の旅行者も人妻を借りることが出来る。家に来た客が期限を決めて人妻を借りて セックスする。その期間は夫が外出して、嫌なシーンを避ける。期限がくれば妻がその客と親しくなっていようとも、客を拒み滞在を許さない。もし客が延長を 申し出れば、新たな契約が必要となる。また、浙江省では客人を接待するために妻を無償で一夜の提供をすることがある。
こうした常軌を 逸した慣習が、アジア大陸にはある。支那人や朝鮮人の家に嫁いでしまった日本人女性が体験する、「世にもおぞましい」アジア的結婚生活の根底にある。核家 庭に生まれて、箱入り娘として大切に育てられた日本人娘が、支那人や朝鮮人に嫁いだら、下女の扱いを受けるだけでは済まない。無知蒙昧で頑迷なジジイやバ バア、親類一同が無邪気な日本人妻によってたかって意地悪をするのだ。ドブに堆積したヘドロのような因習に、どっぷり漬かった陰湿な家庭で、彼女らは泣き ながら堪えるしかないのである。先祖の供養だとか“儒教的しきたり”とか、訳の解らぬ行事に押しつぶされるのである。後悔しても遅いのだ。
何が何でも男の子を欲しがる支那人
支那や朝鮮は徹底した男尊女卑社会である。日本の社会は実質的に、女性の楽園であり、カカア天下である。支那・朝鮮では、子供をもつことについても、男 の子を後継者と見なすが、女の子は別人扱いとして顧みない。妻が妊娠して女の子が生まれると大変な不幸であるから、分娩前に神様に祈ったり、易者に占って 貰ったりする。三人以上女児が生まれたら、母親は三日間慟哭(どうこく)して食事もろくに取らないし、人に顔を見せない。姑も恨んで物を言わず、嘆いてふ さぎこむ。支那人や朝鮮人が、如何に精神異常文化を持っているかが解る。
男の子が生まれて2歳にもならないうちから、父母はその子の 妻を見つけ始める。いったん決まった女はたとえ夫となる男が馬鹿・白痴であっても、恐ろしい親の剣幕に従わねばならない。しかも、貧しい家の多くでは、童 養媳をはなはだ過酷に使うのである。生き地獄のような生活を送る者もいたのである。「等郎嫂(とうろうそう)」という蛮習がある。ある夫婦がまだ生まれぬ 子のために、一人の娘を貰って「小媳婦(しょうそくふ)」とし、未来の子の妻とすべく待っている。夫を待つ女ということ。もし、この女の子が相当な年に なっても、夫が生まれぬ場合、この小媳婦を他家へ嫁がせる。この女は処女であっても再婚者とされ、処女よりも身分が下となり、中流家庭の子とは結婚できな くなってしまう。等郎媳は童養媳と同じく、いづれ息子と結婚することになるのだが、年が離れていたり、幼年時代から一緒に居たことで二人とも様々な悪印象 が残る。これでは夫婦の感情が悪くなるのも当然だ。しかるに自分の息子を溺愛する親は、その夫婦間が悪いと見れば、別の媳婦(そくふ) を娶ってやるのだ。既に同居している女は、別の新人が来れば退けられ、世捨て人のような生活を送らねばならない。貧乏家庭なら、この女を金に換えて他家へ 再婚させるが、裕福な名家だと世間体もあって、売り飛ばすわけにもいかない。したがって中古女房は、陰惨な家庭につながれたまま、寂しい人生となる。
支那人の結婚観をこうして見てくると、もう我々の結婚観とは異質なものであることが分かるだろう。「二婚親(にこんしん)」も嫌な風習である。これは夫 が死んだ者とか、夫婦間の不和で親または夫に売られた者が再婚する者を指す。奇妙なのは二婚親の値段が未婚の処女より高いことである。数回重婚して男の子 を持つ場合、「随身賠價(ずいしんばいか)」として娶る者には歓迎される。それは跡継を欲する情が激しいので一挙両得となるからだ。ただし、重婚者は歓迎 されるが、一般の価格は低い。二婚親を娶るときは姑が、妻を売却する側の夫と金額交渉し、「出字(売渡証書)」を貰う。まあ、中古品の譲渡証明書である。 妻が不貞をはたらけば、よそへ嫁がねば、売却されてしまうのだ。夫に捨てられた婦人を買い取り、二婚親として仲介売買する「贅媽(ぜいま)」というババア もいたのである。女はもう中古自動車みたいだ。
そして、支那版夫婦スワッピング見たいな風習もあった。甘粛省では男が多く女が少ない ので、男女関係が自由であった。兄が死ねば弟がその嫂(あによめ)を妻とし、弟が死ねば兄がその義理の妹を妻とする。兄弟で一人の妻を共有することが珍し くなかった。一人の女を兄弟で輪姦するようなものだ。妻が兄弟それぞれの宿を回って床に就くことがある。子供が生まれれば長子は兄の子とし、次の子は次男 の弟に与え、三番目は三男に与える、といったルールであった。
支那にはインドの悪習と似たものがある。夫を亡くした寡婦が殉死する風 習である。寡婦が自殺するとき舅と姑に相談すると、義理の両親はこれを婦徳と賞めて庭に高台を造り、吉日を選んで親族や朋友に手紙を出す。儀式に連なる客 は皆清潔な衣冠を着けて席に着く。すると婦人は親戚や舅姑に最後の別れを告げて、台の上に上り、赤い縄を首に巻いて自殺する。客は断末魔の赤縄の動きを眺 めても助けようとはせず、かえって両手を胸の前で合わせて主人のために慶賀し、烈婦としてその女を祝福するのだ。主人もまた顔に喜びの表情を浮かべるの だ。もう「ぞっとする」なんて表現では言い表せない。支那人なんてもう、どうなってもいいじゃないか。
支那人の感覚や性格は、精神異常者(psychopath) か、屍体愛者(necrophilia) のようである。死者のために「冥婚(めいこん)」まである。これは未婚男女の死後結婚である。男女が共に死んだ場合と、男女のいずれかが死んだ場合とがあ る。男子が先に死んだときには、富貴の家や中産家でも両親は、ほぼ同年齢で同時期に死んだ女の子を物色する。見つけたら媒酌人を介して、その娘の家と相談 して死児の婚姻を契約し、その婚姻を取り決める。婚姻の儀式を執行して祖廟に納めるが、女の棺は男の墓に運び右側に埋葬する。その時から死んだ女は男の家 の嫁とされ、その名前を家の系図に載せ両家は縁戚となる。
許嫁(いいなずけ)の男が婚姻前に死んだら、許嫁の女はその男の家に嫁ぎ、 男の位牌と結婚を挙げる。その後は夫の喪に服して終生貞節を守り舅姑に奉仕する。これを「守清(しゅせい)」と呼び、これを破り他家へ嫁ぐ女は不逞であ り、無礼者として地元の人々から嗤われる。それに両親からも排斥されてしまう。その許嫁の女が守清を欲しないとき、他の女が代理となる。その男の家の財産 や地位に目が眩んだ女が転がり込んで、「守清」の生活をする。この風習は年老いた者か、容姿が醜くくて結婚できぬ者がなる。未婚の男が未婚の死んだ女を娶 ることもある。これは「娶鬼妻」と名付けられ、多くの女の骸骨を墓から掘り出し、その男に届けるという古来の風習である。
ああ、もう 嫌だ。こんな呪われた支那人のことなかんて知りたくもない。江戸時代の日本人は、実際の支那大陸を知らなかったので、漢籍だけ学んで勝手に支那を理想化し ていたのである。現実を知らずに、書物の中にいる支那人を尊敬していたのである。いまでも支那人の正体を知らぬ日本人が、支那人と「見合い結婚」という人 身売買契約で、支那人妻を迎えている。農村の愚かな中高年男性が、支那人女に引っかかっている惨状が、時々ニュースで流れる。支那人の実態を分かったとき は手遅れという場合もある。保険金を掛けられた夫が、自分の両親もろとも殺されて“あの世行き”になることがある。馬鹿者は痛い目に遭わないと分からな い、というが、死んだら後悔すら出来ないのだから不憫である。南無阿弥陀仏。アーメン。
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