無敵の太陽
主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。
2014年11月
祖国を口にできない耳にできない男
第19世紀にエドワード・エヴェレット・ヘイル(Edward Everett Hale)が、有名な雑誌「アトランテック」に「国の無い男(The Man Without A Country)」という物語を掲載して大変好評を博した。( The Atlantic Monthly, Vol. XII, December 1863) この文章はある陸軍士官の奇妙な刑罰を描いた作品であるが、軍の公式文書がほとんど存在しないので、真相は今でも不明である。しかし、ヘイル 氏の作品は多くの人々を魅了し、愛国心を涵養する物語として賞賛された。我々日本人にも意義があると思うので、その概要を紹介したい。
合衆国陸軍中尉フィリップ・ノーラン(Philip Nolan)は西部旅団に所属していた。当時、副大統領の任期が切れたアーロン・バー(AaronBurr)は、ルイジアナ地方を訪れていた。野心家の バーを仲間にしようとしたルイジアナ独立派が、メキシコを征服したらバーを皇帝に担ぐ計画を持ち込んだ。彼は以前、ニューヨーク州知事になった暁には、北 部連邦の大統領になろうとしたくらい、山気があったのである。ところが上手く行かずに失敗してしまった。財務長官のアレグザンダー・ハミルトンを決闘の 末、殺してしまったのも、そうした野心の一環から発したものであったのだ。自らの野望が崩れてしまったバーは、喜んでこの陰謀に加わることにした。そんな バーとニューオリンズで知り合いになったノーラン中尉は、バーの陰謀に加担した廉で軍事法廷にかけられる羽目になったのである。彼はフォート・アダムズに 駐留していたが、任務に飽きてしまっていたので、ついバーの計画に荷担したのだろう。計画に乗った他の大佐や少佐らと共に裁判にかけられたのである。
裁判中にノーラン中尉は彼の運命を決定づけるある言葉を発したのである。閉廷間際に裁判長のモーガン大佐が何か言いたいことはないかと、ノーランに尋ねたのである。いつもは合衆国に対して忠実な中尉であったが、ついカッとなって、
「合衆国なんかクソ食らえ!(Damn the United States!) もう合衆国のことなど二度と聞きたくねぇぞ」
と 言ってしまった。天子の言葉は「綸言(りんげん)汗の如く」といって、一度発せられた言葉は取り返しがつかないとされてきた。ノーラン中尉の発言はまるで 綸言だ。いやむしろ、自爆発言かもしれない。ノーランはフランス色の強いニューオリンズで育ち、若い頃の半分はまだアメリカと言いづらいテキサスで過ごし たのであった。それでもアメリカに忠実であったノーランだったから、腹立ち紛れの一言だったに違いない。
しかし、裁判を主宰して いたモーガン大佐は、ノーランが口にした合衆国への暴言を見逃さなかった。明治時代の日本人と同様に、アメリカの軍人は筋金入りの愛国者で、骨の髄まで合 衆国に忠誠を誓っているのだ。モーガン大佐はノーランの不敬発言にショックを受け、特別な刑罰を言い渡したのである。その判決は、
「被告は以後二度とアメリカ合衆国の名を耳にせぬであろう。」
と いうものであった。ノーラン中尉は笑ったが、他の者は誰も笑わなかった。モーガン大佐は峻厳であり、法廷は重々しく沈黙していたのである。ノーラン中尉は 合衆国海軍に引き渡され、艦船に軟禁されることとなった。大佐は法廷執行官にノーチラス号へ連行するよう命じ、乗船中は彼の階級にふさわしい待遇を用意す るよう艦長に伝えた。ただし、艦長は船の乗組員全員に対し、決して合衆国について言及せぬよう釘を刺すよう依頼した。乗船中はノーランに士官を付随させ、 処罰が徹底されるように要求したのである。そしてノーランが侮辱した祖国を二度と見られぬよう、航海は続けられることとなった。
軍艦 に乗船中、ノーランは監視役の士官が同伴であれば普通に乗組員と会話が出来たし、月曜日には艦長が彼を食事に招待してくれたのである。海兵隊員や水兵は ノーランを「簡素なボタン(Plain Buttons)」と呼んでいた。ノーランは合衆国陸軍中尉であったが、ボタンは軍服用の物ではなく、普通の物を付けていたのである。軍服のボタンには、 合衆国の標章が刻印されていたからである。乗組員は彼の前では祖国について話すことは厳禁であったし、合衆国を示す物は彼の周りから一切除去されたのであ る。たとえば、船に配送される外国の新聞でも、誰かがノーランより先に手にして、合衆国について言及してある記事や広告の部分を切り取っていたのだ。
喜望峰(Cape of Good Hope)に停泊したとき、ノーランは乗組員等の読書会に参加を許され、「最後の吟遊詩人の歌(Lay of the Last Ministrel)」を朗読したのである。ウォルター・スコッ卿(Sir WAlter Scott)の有名な詩を上手に読み聞かせたノーランであったが、「これは我が、我が生まれし地(This ismy own, my native land)」というくだりに来ると顔が青ざめて喉をつまらせた。彼は本を投げ出すと、部屋へ戻ってしまった。判決を受けた当初、ノーランはさほど処罰を真 剣に受け止めていなかったのである。しかし、時が経つにつれ祖国を一切言葉にできぬ辛さを噛みしめたのである。
ノーチラス号から ウォーレン号に乗り換えたとき、ノーランは本国へ帰れるものと思われたが、逆に地中海方面への航海になってしまった。ウォーレン号でちょっとした舞踏会が 開かれた。そこでもアメリカを連想させる曲名や表現は制限されたのである。ノーランは以前知り合ったグラフ夫人を誘って踊ったのである。そこでチャンス到 来とばかりに彼はその夫人に「お国について何かお聴きになってませんか」と尋ねたのである。するとグラフ夫人は「お国ですって、ノーランさん!二度とお国 のことは聞きたくない方と思っていたわ」と驚き、彼女はご主人の元に戻ってしまったのである。ここでもノーランは祖国について会話を交わすことが出来な かったのである。
ノーランの軍艦は航海中に対英戦争が勃発したことで、英国のフリゲート艦と一戦交えることとなった。英国艦船からの砲撃で味方の士官が殺されてしまい、 砲兵隊出身のノーランが志願して、戦死した者の代わりに指揮を執って反撃を試みた。戦闘終了後、艦長はノーランの奮闘に感謝し、表彰式で自らの剣を授け た。受領したノーランは子供のように感泣し、それ以降式典がある度にその剣を佩用(はいよう)したという。ノーランを気の毒に思った艦長は戦争長官に手紙 を書いて、彼の赦免を求めたが返事はなかった。ちょうどその時はワシントンがすべての外来書簡を無視していた頃であった。本国から新たな命令がなければ、 ノーランの軟禁状態を誰も止めることは出来なかったのである。やがて彼の処罰は本国の軍部から忘れられてしまい、ノーランは監禁された幽霊のようになって しまったのである。
こうした幽閉状態の航海が続く中、ノーランの船は奴隷禁止令を犯してアフリカ人を密輸する奴隷船を発見したのであ る。その奴隷船を拿捕したとき、ノーランはポルトガル語の通訳として臨検の士官ヴォーガンに同行した。ヴォーガンは悪臭が充満する船の中で、哀れなアフリ カ人奴隷を見つけ解放してやると告げたのである。解放者であると分かったノーランらに、すがりつく黒人奴隷たちの一人が請う、
「私を 祖国(Home)に戻してくれ、私の故郷に、私の家に、私の同胞と女たちのもとに。病気の父と母を白人の医者に診せないと死んでしまう。病気で苦しむ村人 をも残してきたんだ。医者を訪ねる途中で悪漢どもに捕まってしまった。それ以来、故郷の誰とも会っていないんだ。この半年間、地獄のような船に閉じこめら れて故郷のことは一言も耳にしたことがないんだ。」
奴隷の話を聞きながら通訳しているノーランは、胸を詰まらせ苦悩の表情を浮かべるのである。それを見ているヴォーガンも辛く彼に同情を示した。故郷に帰れると知った黒人らは大はしゃぎであった。
船に戻ったノーランは若い士官に自らの訓戒を伝えたのであった。「家族がない、故郷がない、国家のない事とは如何なるものかを、君らに伝えたい。家族と 離れず、自分勝手は忘れろ。家族のためなら何でもしろ。家を思って手紙を書き、送り、語るようにしなさい。お国のため、国旗のため、任務がどれほど厳しく とも、お国が命じることのみ考えよ。君らに何が起ころうとも、誰かにお世辞を言われたり、あるいは虐待されようが、決して他の国旗を見るんじゃない。将兵 や政府、国民の背後には国家が、汝らの祖国があるのだ。君が母に属すように君は国家に属すのだ。母親に添うように国家に殉ぜよ。」
ノーランは自らの過去を悔やんだ。若い頃に誰かが今語ったような忠告をしてくれたら、祖国を失う羽目にならなかったであろう、と。運命の日である 1807年9月23日から1863年5月11日の命日まで約50年もの間、彼は海軍から忘れ去られた存在となり、祖国の土を一度も踏まずに人生の幕を下ろ したのである。ノーラン中尉は自分の部屋に、自分で作った小さな神棚を置いていた。ワシントン将軍の肖像画に星条旗が飾られていた。そして彼はアメリカ国 璽(こくじ)の鷲を描いており、地球儀を足で掴む鷲のくちばしからは光線が輝いている。彼は「ほら、私には国があるぞ」と悲しく微笑んでいたという。ベッ ドの元には大きな合衆国の地図があった。これは彼が記憶をたどって描いた物であり、インディアナ領とかミシシッピー領といった古い地名が書かれていた。合 衆国の状態を一切聞いていないノーランには新しい州のことなど何も解らなかったのである。病に伏すノーランは付き添いの士官に州の名について尋ね、国旗の 星を一つずつ指さしたという。看病している士官は、祖国アメリカについて知りたがっているノーランに対し、英国との戦争や、ミシシッピーやテキサスでの出 来事、ウエスト・ポイント士官学校、南北戦争のことについて語ったのである。
死の間際にノーランは聖書を枕元に置いていた。その聖書 には紙が挟んでであって、そこには「彼らは国家を、しかも天国のような国を望んだ。天主は彼らに都市を用意していたので、そこでは彼らの天主と呼ばれるこ とを天主は恥じなかった。」と書かれていた。そして「死んだら海に埋葬してくれ。海は好きだし、私の故郷だ。ただし、フォート・アダムズには石碑を建てな いでほしい。それ以上の不名誉があるだろうか。」と締めくくられていたのである。
どうだろうか、祖国を語ることも、会話すること、言 及すること、目や耳にすることさえ禁止されたノーラン中尉のことを。日本に生まれた日本人であるのに、祖国日本を憎む国民が如何に多いことか。アメリカ合 衆国のことを一切遮断される刑罰など、最初は軽い処罰と高を括っていたノーランは、その苦痛を骨身に染みて実感したのである。普段は何気なく口にしている 祖国を厳禁とされることが、こんなにも辛いこととは思ってもみなかったのだ。晩年の彼が、部屋にワシントンの肖像画や星条旗、国鳥の鷲、アメリカ地図を 飾っていたとは。祖国を取り上げられてしまったアメリカ人の苦悩が痛いほど分かる。記憶をたどりながら自国の地図を描くなんて、けなげではないか。
もし、我々が日本の土を二度と踏むことを許されず、「日本」という言葉を誰からも聞くことも話すこともないまま一生を終えるとしたら、これほど辛いこと はあるまい。外国で暮らす日本人は国内に住む国民よりも愛国心が強くなる。望郷の念が強くなるのは正常な日本人であろう。敗戦後の日本には、憂国の士が激 減した。あたかも健康な人間が心臓を意識しないのと同様に、国内の日本人は日本を意識しない。日本に生まれて暮らせる幸せを当然のことと思ってしまうの だ。日本から離れて暮らすことなど考えていない左翼のマスコミ人に限って、祖国日本に対して侮蔑的発言を口にしてみたり、「一回潰れてしまえ」などとほざ いてしまう。彼らは「我が国」を外人みたいに「この国」と呼んで、高級人間のように振る舞うのだ。NHKや朝日新聞の論説委員などは、日の丸を敬仰する愛 国者の国民を見下して客観的で上等な文化人を装うが、こうした人間ほど醜い者はなかろう。テレ朝によく出る大谷昭宏(おおたにあきひろ)や朝日新聞の若宮 啓文(わかみやよしぶみ)らが、こうした典型的人物である。彼らのような高等文化人は、支那や朝鮮に輸出して日本から追放してやりたい。二度と彼らが「日 本」を「この国」なんて呼べなくしてしまえば清々する。「お願いだから日本に帰りたい」と彼らが泣き叫んだって、朝鮮語か支那語で「入国禁止」と答えてや ろう。産経新聞の誰かが『日本を無くした朝日人』とかの連載を始めてくれないかな。
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第19世紀にエドワード・エヴェレット・ヘイル(Edward Everett Hale)が、有名な雑誌「アトランテック」に「国の無い男(The Man Without A Country)」という物語を掲載して大変好評を博した。( The Atlantic Monthly, Vol. XII, December 1863) この文章はある陸軍士官の奇妙な刑罰を描いた作品であるが、軍の公式文書がほとんど存在しないので、真相は今でも不明である。しかし、ヘイル 氏の作品は多くの人々を魅了し、愛国心を涵養する物語として賞賛された。我々日本人にも意義があると思うので、その概要を紹介したい。
合衆国陸軍中尉フィリップ・ノーラン(Philip Nolan)は西部旅団に所属していた。当時、副大統領の任期が切れたアーロン・バー(AaronBurr)は、ルイジアナ地方を訪れていた。野心家の バーを仲間にしようとしたルイジアナ独立派が、メキシコを征服したらバーを皇帝に担ぐ計画を持ち込んだ。彼は以前、ニューヨーク州知事になった暁には、北 部連邦の大統領になろうとしたくらい、山気があったのである。ところが上手く行かずに失敗してしまった。財務長官のアレグザンダー・ハミルトンを決闘の 末、殺してしまったのも、そうした野心の一環から発したものであったのだ。自らの野望が崩れてしまったバーは、喜んでこの陰謀に加わることにした。そんな バーとニューオリンズで知り合いになったノーラン中尉は、バーの陰謀に加担した廉で軍事法廷にかけられる羽目になったのである。彼はフォート・アダムズに 駐留していたが、任務に飽きてしまっていたので、ついバーの計画に荷担したのだろう。計画に乗った他の大佐や少佐らと共に裁判にかけられたのである。
裁判中にノーラン中尉は彼の運命を決定づけるある言葉を発したのである。閉廷間際に裁判長のモーガン大佐が何か言いたいことはないかと、ノーランに尋ねたのである。いつもは合衆国に対して忠実な中尉であったが、ついカッとなって、
「合衆国なんかクソ食らえ!(Damn the United States!) もう合衆国のことなど二度と聞きたくねぇぞ」
と 言ってしまった。天子の言葉は「綸言(りんげん)汗の如く」といって、一度発せられた言葉は取り返しがつかないとされてきた。ノーラン中尉の発言はまるで 綸言だ。いやむしろ、自爆発言かもしれない。ノーランはフランス色の強いニューオリンズで育ち、若い頃の半分はまだアメリカと言いづらいテキサスで過ごし たのであった。それでもアメリカに忠実であったノーランだったから、腹立ち紛れの一言だったに違いない。
しかし、裁判を主宰して いたモーガン大佐は、ノーランが口にした合衆国への暴言を見逃さなかった。明治時代の日本人と同様に、アメリカの軍人は筋金入りの愛国者で、骨の髄まで合 衆国に忠誠を誓っているのだ。モーガン大佐はノーランの不敬発言にショックを受け、特別な刑罰を言い渡したのである。その判決は、
「被告は以後二度とアメリカ合衆国の名を耳にせぬであろう。」
と いうものであった。ノーラン中尉は笑ったが、他の者は誰も笑わなかった。モーガン大佐は峻厳であり、法廷は重々しく沈黙していたのである。ノーラン中尉は 合衆国海軍に引き渡され、艦船に軟禁されることとなった。大佐は法廷執行官にノーチラス号へ連行するよう命じ、乗船中は彼の階級にふさわしい待遇を用意す るよう艦長に伝えた。ただし、艦長は船の乗組員全員に対し、決して合衆国について言及せぬよう釘を刺すよう依頼した。乗船中はノーランに士官を付随させ、 処罰が徹底されるように要求したのである。そしてノーランが侮辱した祖国を二度と見られぬよう、航海は続けられることとなった。
軍艦 に乗船中、ノーランは監視役の士官が同伴であれば普通に乗組員と会話が出来たし、月曜日には艦長が彼を食事に招待してくれたのである。海兵隊員や水兵は ノーランを「簡素なボタン(Plain Buttons)」と呼んでいた。ノーランは合衆国陸軍中尉であったが、ボタンは軍服用の物ではなく、普通の物を付けていたのである。軍服のボタンには、 合衆国の標章が刻印されていたからである。乗組員は彼の前では祖国について話すことは厳禁であったし、合衆国を示す物は彼の周りから一切除去されたのであ る。たとえば、船に配送される外国の新聞でも、誰かがノーランより先に手にして、合衆国について言及してある記事や広告の部分を切り取っていたのだ。
喜望峰(Cape of Good Hope)に停泊したとき、ノーランは乗組員等の読書会に参加を許され、「最後の吟遊詩人の歌(Lay of the Last Ministrel)」を朗読したのである。ウォルター・スコッ卿(Sir WAlter Scott)の有名な詩を上手に読み聞かせたノーランであったが、「これは我が、我が生まれし地(This ismy own, my native land)」というくだりに来ると顔が青ざめて喉をつまらせた。彼は本を投げ出すと、部屋へ戻ってしまった。判決を受けた当初、ノーランはさほど処罰を真 剣に受け止めていなかったのである。しかし、時が経つにつれ祖国を一切言葉にできぬ辛さを噛みしめたのである。
ノーチラス号から ウォーレン号に乗り換えたとき、ノーランは本国へ帰れるものと思われたが、逆に地中海方面への航海になってしまった。ウォーレン号でちょっとした舞踏会が 開かれた。そこでもアメリカを連想させる曲名や表現は制限されたのである。ノーランは以前知り合ったグラフ夫人を誘って踊ったのである。そこでチャンス到 来とばかりに彼はその夫人に「お国について何かお聴きになってませんか」と尋ねたのである。するとグラフ夫人は「お国ですって、ノーランさん!二度とお国 のことは聞きたくない方と思っていたわ」と驚き、彼女はご主人の元に戻ってしまったのである。ここでもノーランは祖国について会話を交わすことが出来な かったのである。
ノーランの軍艦は航海中に対英戦争が勃発したことで、英国のフリゲート艦と一戦交えることとなった。英国艦船からの砲撃で味方の士官が殺されてしまい、 砲兵隊出身のノーランが志願して、戦死した者の代わりに指揮を執って反撃を試みた。戦闘終了後、艦長はノーランの奮闘に感謝し、表彰式で自らの剣を授け た。受領したノーランは子供のように感泣し、それ以降式典がある度にその剣を佩用(はいよう)したという。ノーランを気の毒に思った艦長は戦争長官に手紙 を書いて、彼の赦免を求めたが返事はなかった。ちょうどその時はワシントンがすべての外来書簡を無視していた頃であった。本国から新たな命令がなければ、 ノーランの軟禁状態を誰も止めることは出来なかったのである。やがて彼の処罰は本国の軍部から忘れられてしまい、ノーランは監禁された幽霊のようになって しまったのである。
こうした幽閉状態の航海が続く中、ノーランの船は奴隷禁止令を犯してアフリカ人を密輸する奴隷船を発見したのであ る。その奴隷船を拿捕したとき、ノーランはポルトガル語の通訳として臨検の士官ヴォーガンに同行した。ヴォーガンは悪臭が充満する船の中で、哀れなアフリ カ人奴隷を見つけ解放してやると告げたのである。解放者であると分かったノーランらに、すがりつく黒人奴隷たちの一人が請う、
「私を 祖国(Home)に戻してくれ、私の故郷に、私の家に、私の同胞と女たちのもとに。病気の父と母を白人の医者に診せないと死んでしまう。病気で苦しむ村人 をも残してきたんだ。医者を訪ねる途中で悪漢どもに捕まってしまった。それ以来、故郷の誰とも会っていないんだ。この半年間、地獄のような船に閉じこめら れて故郷のことは一言も耳にしたことがないんだ。」
奴隷の話を聞きながら通訳しているノーランは、胸を詰まらせ苦悩の表情を浮かべるのである。それを見ているヴォーガンも辛く彼に同情を示した。故郷に帰れると知った黒人らは大はしゃぎであった。
船に戻ったノーランは若い士官に自らの訓戒を伝えたのであった。「家族がない、故郷がない、国家のない事とは如何なるものかを、君らに伝えたい。家族と 離れず、自分勝手は忘れろ。家族のためなら何でもしろ。家を思って手紙を書き、送り、語るようにしなさい。お国のため、国旗のため、任務がどれほど厳しく とも、お国が命じることのみ考えよ。君らに何が起ころうとも、誰かにお世辞を言われたり、あるいは虐待されようが、決して他の国旗を見るんじゃない。将兵 や政府、国民の背後には国家が、汝らの祖国があるのだ。君が母に属すように君は国家に属すのだ。母親に添うように国家に殉ぜよ。」
ノーランは自らの過去を悔やんだ。若い頃に誰かが今語ったような忠告をしてくれたら、祖国を失う羽目にならなかったであろう、と。運命の日である 1807年9月23日から1863年5月11日の命日まで約50年もの間、彼は海軍から忘れ去られた存在となり、祖国の土を一度も踏まずに人生の幕を下ろ したのである。ノーラン中尉は自分の部屋に、自分で作った小さな神棚を置いていた。ワシントン将軍の肖像画に星条旗が飾られていた。そして彼はアメリカ国 璽(こくじ)の鷲を描いており、地球儀を足で掴む鷲のくちばしからは光線が輝いている。彼は「ほら、私には国があるぞ」と悲しく微笑んでいたという。ベッ ドの元には大きな合衆国の地図があった。これは彼が記憶をたどって描いた物であり、インディアナ領とかミシシッピー領といった古い地名が書かれていた。合 衆国の状態を一切聞いていないノーランには新しい州のことなど何も解らなかったのである。病に伏すノーランは付き添いの士官に州の名について尋ね、国旗の 星を一つずつ指さしたという。看病している士官は、祖国アメリカについて知りたがっているノーランに対し、英国との戦争や、ミシシッピーやテキサスでの出 来事、ウエスト・ポイント士官学校、南北戦争のことについて語ったのである。
死の間際にノーランは聖書を枕元に置いていた。その聖書 には紙が挟んでであって、そこには「彼らは国家を、しかも天国のような国を望んだ。天主は彼らに都市を用意していたので、そこでは彼らの天主と呼ばれるこ とを天主は恥じなかった。」と書かれていた。そして「死んだら海に埋葬してくれ。海は好きだし、私の故郷だ。ただし、フォート・アダムズには石碑を建てな いでほしい。それ以上の不名誉があるだろうか。」と締めくくられていたのである。
どうだろうか、祖国を語ることも、会話すること、言 及すること、目や耳にすることさえ禁止されたノーラン中尉のことを。日本に生まれた日本人であるのに、祖国日本を憎む国民が如何に多いことか。アメリカ合 衆国のことを一切遮断される刑罰など、最初は軽い処罰と高を括っていたノーランは、その苦痛を骨身に染みて実感したのである。普段は何気なく口にしている 祖国を厳禁とされることが、こんなにも辛いこととは思ってもみなかったのだ。晩年の彼が、部屋にワシントンの肖像画や星条旗、国鳥の鷲、アメリカ地図を 飾っていたとは。祖国を取り上げられてしまったアメリカ人の苦悩が痛いほど分かる。記憶をたどりながら自国の地図を描くなんて、けなげではないか。
もし、我々が日本の土を二度と踏むことを許されず、「日本」という言葉を誰からも聞くことも話すこともないまま一生を終えるとしたら、これほど辛いこと はあるまい。外国で暮らす日本人は国内に住む国民よりも愛国心が強くなる。望郷の念が強くなるのは正常な日本人であろう。敗戦後の日本には、憂国の士が激 減した。あたかも健康な人間が心臓を意識しないのと同様に、国内の日本人は日本を意識しない。日本に生まれて暮らせる幸せを当然のことと思ってしまうの だ。日本から離れて暮らすことなど考えていない左翼のマスコミ人に限って、祖国日本に対して侮蔑的発言を口にしてみたり、「一回潰れてしまえ」などとほざ いてしまう。彼らは「我が国」を外人みたいに「この国」と呼んで、高級人間のように振る舞うのだ。NHKや朝日新聞の論説委員などは、日の丸を敬仰する愛 国者の国民を見下して客観的で上等な文化人を装うが、こうした人間ほど醜い者はなかろう。テレ朝によく出る大谷昭宏(おおたにあきひろ)や朝日新聞の若宮 啓文(わかみやよしぶみ)らが、こうした典型的人物である。彼らのような高等文化人は、支那や朝鮮に輸出して日本から追放してやりたい。二度と彼らが「日 本」を「この国」なんて呼べなくしてしまえば清々する。「お願いだから日本に帰りたい」と彼らが泣き叫んだって、朝鮮語か支那語で「入国禁止」と答えてや ろう。産経新聞の誰かが『日本を無くした朝日人』とかの連載を始めてくれないかな。
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知られざるご幼少時の大正天皇
明治大帝や昭和天皇の御聖徳(ごせいとく)
は頻繁に語られるので、国民の多くが何らかのエピソードを聞いたことがあるだろう。しかし、大正天皇は生来ご健康が優れず、統治期間が短かったので、現在
の国民にはあまり馴染みがない。それでも我々には興味を引くエピソードがある。(千代田會編 『義は君臣情は父子』 大正14年 pp.5-14 参照)
陛下はご幼少の時より軍事に多大なるご興味を示され、近衛兵の練習や海軍の演習を御見学なされた。ご学友が大砲の音に驚くのに、陛下は少しも臆すること がなく、終始お喜びの御様子であったという。近衛兵の背嚢(はいのう)に関心を寄せられ、しきりに望まれたので、側近の者が小型の背嚢を製作したらしい。 ご学用の書籍・文具等を納められるように作られた背嚢を呈示したところ、陛下はことのほかお気に入りになったという。陛下は服装も兵士と同じく、上着の袖 やズボンに赤筋を入れさせ、それをお召しになった。その格好で背嚢を負って御通学されたのである。陸軍幼年学校の制服は、陛下の服装に倣ったものであるそ うだ。
陛下が御年七八歳の当時、御附武官の陸軍大佐某(便宜上A大佐とする)が、冬の日に急ぎの要事がったので、未明に参内(さんだ い)した時のことである。宮中は寂寥(せきりょう)として人の声がせず、ただ宿直の官吏のみが詰め所にいて守衛の役に就いていただけ。A大佐は自分の勤務 室で夜が明けるのを待っていたが、その日は雪が降っていてとても寒かった。自然と火鉢を足許に引き寄せて、勤務の書類を読んでいるうちに夜が明けたのであ る。この時扉の開く音がして、誰か人が入ってくる足音がしたので、大佐は官吏が来たのだろうと思って、別に気にせず書類に目を通していた。
すると背後から、
「大佐」
とよぶ声が聞こえたのである。幼い声であるが、尋常ではない威厳ある声なので、驚きながら後ろを振り返ると陛下であった。大佐は大いにおそれ恐縮し、う やうやしく敬礼したのである。陛下はことのほかご機嫌うるわしく、笑みを浮かべて「大佐寒いのう」と宣(のたま) われた。大佐は即座に「御意(ぎょい)に候(そうらう)」とご返事申し上げたが、心中は保育の任務にある者が、軽率にお答え申し上げるわけにもいかなかっ たので、「お言葉ですが、軍人は暑い寒いの別はございません」と姿勢を正して答えたという。すると陛下は
「そうか」
と仰られただけ で、奥へ入られてしまった。大佐は陛下のお姿を拝してから、もとの座に就いたが、このとき自分が火鉢を跨いでいたことに気づき、恐懼のあまり卒倒せんばか りに自分を恥じた。立派な言葉を吐いたが、自分は火鉢にあたっていたのだ。こんな姿を陛下にお見せしたことを、大佐はいたく後悔したという。
ある日、陛下は学習院の教室にて多くの生徒と共に熱心に講義をお聴きになっていた。そばに仕えていた武官(某中尉) はその日がことのほか寒かったので、万が一の事を考えて、かねて用意しあった火鉢を陛下の御脚の下に差し入れた。これにお気づきになられた陛下は、直ちに 中尉を召されて、
「軍人には寒暑は無いものであるぞ、この火鉢速やかに取り除けよ」
と仰せられた。その中尉は驚き、何事も申さずにす ぐさま火鉢を取り除いたのである。中尉は陛下がこのように申されるのには、何らかの理由があるのでは、と推測して退出後にA大佐のもとを尋ねた。中尉が学 習院での出来事を大佐に話すと、大佐は無言のままただ涙をこぼすのみであった。中尉は何のことだか事情が分からず、大佐に尋ねたところ、明け方の一件を聞 いて諒解したのである。
大佐は陛下の御保育の大任を承りながら、責任を果たさず、かえってご幼少の陛下から実践躬行(じっせんきゅう こう) の訓戒を賜るとは。これを恥じた大佐は、御暇を賜りて謹慎することを決め、御沙汰が出るまでは外に出ぬつもりであった。そこで御前に伺候(しこう)し、処 分を受けることにした。慈悲深き陛下は大佐の素朴で忠実なる態度を評価なされ、
「構(かま)い無し」
との御沙汰を言い渡し、ますます大佐を信頼されたのである。
余も一兵卒なり
明治38年の日露戦争後、東京湾において大観艦式の行事があったとき、大正天皇は東宮殿下であらせられた。横浜の停車場へ先につかれていた殿下は、明治 天皇のご到着を迎えるべく波止場に向かわれた。その時、東郷平八郎司令長官はお迎えの馬車に殿下をお乗せしようとしたが、殿下は
「今日は余は海軍大佐の資格で臨む者であるから、海軍大佐の分義をまもらねばならぬ。余も幕僚の一人である」
と仰せられたのである。東郷大将は懼れ入りながらも、殿下に御馬車へと勧めたが、お聴きにならず人力車にお乗りになってしまった。
観艦式が終わって御上陸あらせられた時にも、東郷大将は殿下がお先に乗車なされるよう申し上げたのだが、殿下は東郷大将が先に乗車するのをお待ちにな り、そのあとに御乗車となった。東郷大将はじめとするお供の方々はいたく感動し、殿下の御聖徳に感動せぬ者はいなかったという。
また、殿下が一日陸軍砲兵営舎に行啓(ぎょうけい) したとき、兵士等の訓練につき熱心に御覧あそばされていた。営舎の人々は正午を過ぎて、殿下のことが心配になり始めたのである。これを察した殿下は、
「もし昼食に心遣いなどすることは必ず無用にいたせ」
と述べられ、侍臣はかしこまって御旨を吏員(りいん)に伝えた。ところが兵卒用の食事しかなかったので、殿下にお時間を願ったところ、
「兵士の食料でよい。別に他のものを求めぬ」
と仰られた。吏員は恐縮しながら、とにかく黒い麺を器に盛って殿下に差し出した。すると殿下は直ちにそれを御手にとられた。
「余もまた一兵卒である。兵士の食にて差し支えない。菜もあれば参らせよ」
と仰せられたが、ためらいながらも魚の煮物を勧めてしまった。それを殿下は快く召し上がりになられ、昼食を終わらせたのである。
大正天皇は御父大元帥の明治天皇とおなじく、我が軍の将兵を愛され、一人一人の兵卒を大切になされたのだ。いかなる兵卒といえども、陛下の臣下である。 このように陛下は国民を慈しみ、国民も敬愛し忠誠を誓ったのである。むかしは本当に陛下の御為なら命もいらぬという者が多かった。現在の我々が失いかけて いる君臣の絆を恢復(かいふく)すべきである。
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陛下はご幼少の時より軍事に多大なるご興味を示され、近衛兵の練習や海軍の演習を御見学なされた。ご学友が大砲の音に驚くのに、陛下は少しも臆すること がなく、終始お喜びの御様子であったという。近衛兵の背嚢(はいのう)に関心を寄せられ、しきりに望まれたので、側近の者が小型の背嚢を製作したらしい。 ご学用の書籍・文具等を納められるように作られた背嚢を呈示したところ、陛下はことのほかお気に入りになったという。陛下は服装も兵士と同じく、上着の袖 やズボンに赤筋を入れさせ、それをお召しになった。その格好で背嚢を負って御通学されたのである。陸軍幼年学校の制服は、陛下の服装に倣ったものであるそ うだ。
陛下が御年七八歳の当時、御附武官の陸軍大佐某(便宜上A大佐とする)が、冬の日に急ぎの要事がったので、未明に参内(さんだ い)した時のことである。宮中は寂寥(せきりょう)として人の声がせず、ただ宿直の官吏のみが詰め所にいて守衛の役に就いていただけ。A大佐は自分の勤務 室で夜が明けるのを待っていたが、その日は雪が降っていてとても寒かった。自然と火鉢を足許に引き寄せて、勤務の書類を読んでいるうちに夜が明けたのであ る。この時扉の開く音がして、誰か人が入ってくる足音がしたので、大佐は官吏が来たのだろうと思って、別に気にせず書類に目を通していた。
すると背後から、
「大佐」
とよぶ声が聞こえたのである。幼い声であるが、尋常ではない威厳ある声なので、驚きながら後ろを振り返ると陛下であった。大佐は大いにおそれ恐縮し、う やうやしく敬礼したのである。陛下はことのほかご機嫌うるわしく、笑みを浮かべて「大佐寒いのう」と宣(のたま) われた。大佐は即座に「御意(ぎょい)に候(そうらう)」とご返事申し上げたが、心中は保育の任務にある者が、軽率にお答え申し上げるわけにもいかなかっ たので、「お言葉ですが、軍人は暑い寒いの別はございません」と姿勢を正して答えたという。すると陛下は
「そうか」
と仰られただけ で、奥へ入られてしまった。大佐は陛下のお姿を拝してから、もとの座に就いたが、このとき自分が火鉢を跨いでいたことに気づき、恐懼のあまり卒倒せんばか りに自分を恥じた。立派な言葉を吐いたが、自分は火鉢にあたっていたのだ。こんな姿を陛下にお見せしたことを、大佐はいたく後悔したという。
ある日、陛下は学習院の教室にて多くの生徒と共に熱心に講義をお聴きになっていた。そばに仕えていた武官(某中尉) はその日がことのほか寒かったので、万が一の事を考えて、かねて用意しあった火鉢を陛下の御脚の下に差し入れた。これにお気づきになられた陛下は、直ちに 中尉を召されて、
「軍人には寒暑は無いものであるぞ、この火鉢速やかに取り除けよ」
と仰せられた。その中尉は驚き、何事も申さずにす ぐさま火鉢を取り除いたのである。中尉は陛下がこのように申されるのには、何らかの理由があるのでは、と推測して退出後にA大佐のもとを尋ねた。中尉が学 習院での出来事を大佐に話すと、大佐は無言のままただ涙をこぼすのみであった。中尉は何のことだか事情が分からず、大佐に尋ねたところ、明け方の一件を聞 いて諒解したのである。
大佐は陛下の御保育の大任を承りながら、責任を果たさず、かえってご幼少の陛下から実践躬行(じっせんきゅう こう) の訓戒を賜るとは。これを恥じた大佐は、御暇を賜りて謹慎することを決め、御沙汰が出るまでは外に出ぬつもりであった。そこで御前に伺候(しこう)し、処 分を受けることにした。慈悲深き陛下は大佐の素朴で忠実なる態度を評価なされ、
「構(かま)い無し」
との御沙汰を言い渡し、ますます大佐を信頼されたのである。
余も一兵卒なり
明治38年の日露戦争後、東京湾において大観艦式の行事があったとき、大正天皇は東宮殿下であらせられた。横浜の停車場へ先につかれていた殿下は、明治 天皇のご到着を迎えるべく波止場に向かわれた。その時、東郷平八郎司令長官はお迎えの馬車に殿下をお乗せしようとしたが、殿下は
「今日は余は海軍大佐の資格で臨む者であるから、海軍大佐の分義をまもらねばならぬ。余も幕僚の一人である」
と仰せられたのである。東郷大将は懼れ入りながらも、殿下に御馬車へと勧めたが、お聴きにならず人力車にお乗りになってしまった。
観艦式が終わって御上陸あらせられた時にも、東郷大将は殿下がお先に乗車なされるよう申し上げたのだが、殿下は東郷大将が先に乗車するのをお待ちにな り、そのあとに御乗車となった。東郷大将はじめとするお供の方々はいたく感動し、殿下の御聖徳に感動せぬ者はいなかったという。
また、殿下が一日陸軍砲兵営舎に行啓(ぎょうけい) したとき、兵士等の訓練につき熱心に御覧あそばされていた。営舎の人々は正午を過ぎて、殿下のことが心配になり始めたのである。これを察した殿下は、
「もし昼食に心遣いなどすることは必ず無用にいたせ」
と述べられ、侍臣はかしこまって御旨を吏員(りいん)に伝えた。ところが兵卒用の食事しかなかったので、殿下にお時間を願ったところ、
「兵士の食料でよい。別に他のものを求めぬ」
と仰られた。吏員は恐縮しながら、とにかく黒い麺を器に盛って殿下に差し出した。すると殿下は直ちにそれを御手にとられた。
「余もまた一兵卒である。兵士の食にて差し支えない。菜もあれば参らせよ」
と仰せられたが、ためらいながらも魚の煮物を勧めてしまった。それを殿下は快く召し上がりになられ、昼食を終わらせたのである。
大正天皇は御父大元帥の明治天皇とおなじく、我が軍の将兵を愛され、一人一人の兵卒を大切になされたのだ。いかなる兵卒といえども、陛下の臣下である。 このように陛下は国民を慈しみ、国民も敬愛し忠誠を誓ったのである。むかしは本当に陛下の御為なら命もいらぬという者が多かった。現在の我々が失いかけて いる君臣の絆を恢復(かいふく)すべきである。
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少年時代を朝鮮で過ごした世代
朝鮮統治時代には多くの日本人が朝鮮半島に住んでいたことは、今となっては信じられないくらいである。敗戦と共に多くの日本人居住者が引き揚げてきた。 当然その中には朝鮮生まれの内地人(日本人)がいて、少年時代を朝鮮人と過ごした子供がいたのである。これら半島育ちの日本人が、戦後日本の学校に通って 左翼教育を真に受けた結果、朝鮮統治に対する罪悪感をもつ日本人が誕生したのだ。有名なのが、電通の会長を務めた成田豊で、京城(現在のソウル)で育った という。成田氏は植民地の朝鮮人が貧さから盗みをはたらいたり、日本人から殴る蹴るの冷たい仕打ちを見たという。日本人が普段からむやみに威張ったり、朝 鮮人を一級下の者として見下すことにショックを受けたらしい。学校では「人は平等だ」教えられたが、現実は違ったという。
同じ人間なのに、なぜ。そんな違和感が、子供心に刻まれた。(成田豊 『広告と生きる』 日本経済新聞出版社 2009年 p.16)
子供だった成田氏が周りの大人の事情や当時の朝鮮人社会を理解していたとは思えない。朝鮮の不甲斐ない社会状況やうんざりするような風習は、子供に分か るはずがない。朝鮮人を差別し、馬鹿にする日本人としか見えなかったのだろう。成田氏が中年くらいまで朝鮮に住んでいたら、朝鮮統治の事情が分かって罪悪 感をもたなかったかもしれない。電通がつまらない朝鮮人歌手や南鮮ドラマをテレビでゴリ押しした結果、多くの日本人が拒絶反応を示したのを覚えていよう。 成田会長の個人的感情も絡んでの朝鮮文化ブームの演出だったが、いくら天下の電通でも日本人に低級文化を押しつけることは出来なかったのだ。朝鮮人が吐い た痰(たん)を嘗めろ、と命令したって日本人は嫌がるだろう。それと同じで、日本人は朝鮮人が吐き出す文化を飲み込みたくないのである。敗戦で日本へ戻っ た成田氏が朝鮮研究を専攻した形跡は見当たらないから、少年時代の記憶が残ったたまま、大人になったのだろう。成田氏は晩年まで単純な朝鮮びいきを反省し なかった。
もう一人、少年時代を朝鮮で送った日本人がいる。本田靖春だ。『諸君!』に文章を書いたことがある識者なので覚えているか たもいるかもしれない。左翼史観で教育されてしまった本田氏は、帰化問題で悩む梁政明(日本での通名 山村政明)に同情したりする。朝鮮人は一般に、精神 的に歪んだ後進国民であると子に気づかなかったりであろう。本田氏は「朝鮮人に対しては、かつての加害者であったし、いまも加害者だという認識がはっきり ある」と述べている。(本田靖春 『私のなかの朝鮮人』 文春文庫 1984年 p.24)
朝鮮統治を悪かったと反省している本田 氏だが、少年時代には朝鮮人との対立を経験しているのだ。日本人町に住んでいたが、通学時には朝鮮人街を通らねばならなかった。朝は何でもないのだが、下 校時に問題が起きたという。朝鮮人街を足早に抜けようとするや、鮮人の子供らが石を投げてきたり、道をふさいで唾を吐きかけたりして挑発してきた。朝鮮人 らには戦術があって、先に年少者をけしかけて、日本人を油断させる。年端もいかぬ子供と見なして、その頭をこずいたりすると、大群がどっと現れる具合で あった。本田氏が小学四年生の時にちょっとした事件が起きた。ある子供と下校時に朝鮮人街を通過したとき、朝鮮人の小学生二人に唾を吐きかけられたので、 手に持っていた上履きの袋で鮮人の横面を張ったという。
しかし、本田氏は帰り道を朝鮮人に尾行されていたのである。しばらくすると、「雲霞の如き大軍」が彼の家に押し寄せたのである。両親とも留守であったの で、裏庭から抜け出し、同級生に武器を持って応援に来てくれるよう頼んだのである。家に戻った本田氏はお湯を沸かしたそうである。そうこうするうち、友人 等が木刀や空気銃を持って、総勢10人が応援に来た。本田氏は玄関を開けて、塀越しに熱湯を朝鮮人らに浴びせかけると、ついで空気銃を乱射して、敵が怯ん だ隙に木刀で一斉に斬り込んだのである。それ以降、本田氏は鮮人の子供らに目を付けられ、彼らの波状攻撃に悩まされたという。本田氏はカーバイトを捏ねて 爆弾を作ろうとしたこともあった。
敵の襲来は止むことがなかったので、本田氏はついに父親の日本刀を持ち出した。本当に斬るつもりはなく、鞘を払って抜き身をかざして門を出たという。公平に言えば、朝鮮人は武器をもって彼を攻撃したことはなかった。本田氏は当時を回想する。
だから、私が挑発と受け取り、襲来と感じていた彼らの皇道派、集団による憎悪の表現ということなのであろう。( p.161)
朝鮮人が日本人を憎んでいたことを本田氏は身に沁みて自覚している。それでも、彼は胸のどこかに朝鮮人への罪悪感が残っているのだ。
朝鮮総督府はは「内鮮一体」と宣いい、「皇民化」政策を朝鮮人に押しつけていたが、日本人と朝鮮人が一つだなどということは、日本人も朝鮮人もだれ一人 思っていなかった。お互いは、はっきり異民族同志として認識し合っていたし、それだけではなく、彼らはわれわれを憎み、われわれは彼ら嫌っていた。( p.162)
本田氏は日本の朝鮮支配の帰結として朝鮮が分断された、と考えていた。(p.174)戦争の動乱で多くの朝鮮人が血を流して いる隣で、日本は朝鮮特需に沸いていたことを批判している。朝鮮戦争はスターリンの傀儡金日成(本名金聖柱)が起こし、支那軍が支援した動乱である。我が 国が戦争特需で潤ったことがは、戦争の原因とは関係ない。こうした自虐史観がいかに日本人を蝕んでいたが分かる。
汚い朝鮮人が作った料理
本田氏が住んでいたのは日本人町で会ったが、金さんという元両班らしい朝鮮人一家が例外的に結住んでいたという。(朝鮮人が自分の祖先を両班という時は 注意せねばならない。)金さんの家では他の朝鮮人家庭同様、一家挙げてキムチ作りをしていた。キムチがよい加減に漬かる頃になると、金さんは自家製キムチ を本田宅に届けたそうである。本田氏の母親はキムチを届けてくれた金家の使いの者に鄭重に礼をのべる。だが、その使いが帰った後、せっかくのキムチはゴミ 箱へ直行するのである。これは本田家のならわしであった。金家からはキムチだけではなく、盆、正月、祭りの度ごとに餅などの届け物が来る。そのすべてがキ ムチと同様の運命をたどる。戦争が始まって物資が足りなくなっても母親の態度は変わらなかったという。
本田氏は京城にいたあいだキムチを一度も口にしたことがなかったという。本田少年は母親に不平を漏らしたそうだ。しかし、彼の母親は抗議を受け付けず、こう言うのであった。
「また赤痢にでもなったらどうするの」(p.29)
こ の一言で本田少年は沈黙してしまう。彼は三歳の時、生きるか死ぬかの赤痢を経験していたのだ。母親は何かにつけ赤痢の話を彼にしたという。母親は息子を心 配する気持ちが強かったので、赤痢という伝染病に対する恐怖心を植え付けたのである。本田邸には朝鮮人の洗濯女と子守娘が雇われていた。朝鮮人の子守は幼 き本田氏を可愛がってくれたそうで、彼女が時折おやつを口移しに本田少年に与えたりしたようである。本田氏は彼女の家で、いろいろ貰っているうちに赤痢に かかったらしい。本田氏の母親が感染経路を子守娘ないし彼女の家庭と決めつけたことはなかった。だが、幼き息子が赤痢にかかったことで、本田氏の母親は朝 鮮社会の衛生状態や、鮮人の衛生観念に敏感となったようである。
彼の母親は娘時代に薬専を出て、病院勤めをしたらしく、衛生知識に詳 しかったらしい。便所の脇にはいつもクレゾール溶液が用意され、本田氏は用便の後はもとより外から帰る度に、必ず手の消毒をさせられたのである。本田氏は 朝鮮の飴売りを覚えていた。近所を巡回する朝鮮人の飴売りは、大きなハサミを用いて飴を切り売りしたそうである。飴売りがまわってくると子供たちが寄って きて、こぞって買っていったそうだ。しかし、本田少年は一度もその飴を口にしたことはなかったという。彼の母親は言ったそうだ。「どうしても飴を食べたい のなら、一度朝鮮飴を作っているところを見てからにしなさい。両手に唾をつけて塊を伸ばしていくんですよ」と諭したという。本田氏は母親の言葉に逆らえな かった。(p.32)本田氏は衛生観念を教えてくれた母親に感謝するも、朝鮮人に対する嫌悪感も教えたのではないか、と回想している。
不潔な朝鮮と身震いするほどの汚さ
「差別感」への反発や「正義感」に燃えてしまう少年時代にはよくあることだが、本田少年は母親と口論したことがある。彼の母は「あなたはフタタこと目に は『日本が悪い』と言うけれども、私たちがどんな悪いことをしたんですか。鉄道もないところに、内地より立派な鉄道を敷いてあげたじゃありませんか。電気 がなかったところに電気をつけてあげたのも日本ですよ。物がなくなってからだって、朝鮮人にも同じだけ、砂糖を配給してあげたのは、いったい誰なんです」 と陳べた。まったくその通り。本田氏のご母堂は正しい。これが当時の日本人に共通した意見であったことは間違いない。日本人がどれだけ朝鮮で税金を浪費し たことか。日本国民の方が被害者である。乞食の群れが何の冀望もなく棲息していたのが、李氏朝鮮の実態であった。朝鮮の貧困とは、日本人が考える「貧乏」 とは質が違う。たとえば、日本の鳥取砂丘と火星の沙漠(さばく)は同日の談ではない。朝鮮の貧困は日本人の想像を超えていたのである。現在朝鮮人が日本統 治を鼻水タラしながら糾弾しているが、鮮人どもは実態を知らないのだ。朝鮮人の馬鹿は漬け物甕に沈めるに限る。
しかし、本田氏は、母親の正論を否定して言う、
こういう考え方は、かつての朝鮮植民者の「一世」に、ほぼ共通している。(p.33)
こ れだから戦後世代はダメなんだ。日教組教育で脳味噌がコンクリート化しているのだろう。創意工夫や新鮮なアイディアを一切遮断した牢固な朝鮮が、いかに時 代遅れで惨めであったかを本田氏の世代は知らないのだ。明治維新後に朝鮮へ渡った日本人は朝鮮の汚さに卒倒したのである。朝鮮の暮らしは小便大便だらけ で、道や街角には糞尿が垂れ流されて臭気で鼻が曲がりそうだった。曲がるというより、腐って顔から堕ちそうである。現在の日本人女性が見たら確実に気絶す るだろう。塩崎誓月という日本人が朝鮮に渡ったら、山の如き蝿に驚いたという。朝鮮人は食べ物や食器に蝿の群れがたかっていても気にしない。よほどのこと がなければ、蝿は殺されないのだ。朝鮮人の家では蝿が、
天井から壁から白い処は糞尿で真っ黒にし、主人が昼寝の口あたりから鼻の中まで卵を産み付けてその植民地と心得ている。( 塩崎誓月 『最新の韓半島』 青木嵩山堂 明治39年 p.183)
日本人が戦慄を覚えるのは蝿だけではない。オンドルで暖められた朝鮮人の家では南京虫が大繁殖していたのである。朝鮮の宿に泊まった外国人はこぞってこの南京虫に悩まされる。
夜半このおそるべき虫が群れをなして来襲しその音は陣風の如しという程だ。刺されれば則ち腫れ膨れ甚だしきは癩病患者の如き形状をなすに至る。こやつは殺虫剤で見事に斃れ、翌朝屍体を検するに数十百匹に上ることがある。 (上掲書 p.184)
哀れにも南京虫に刺されていた朝鮮人には、虱(シラミ)もたかっていたのである。夏ならまだしも冬になると危険で、滅多に朝鮮人の側に近づけない。朝鮮 人は虱がたかっていても恥ずかしく思っていなかったのである。こんな朝鮮だから、蚤(ノミ)くらいで騒いでいたらとても暮らせない。水に糞尿が混じってい たって平気で飲めなくては朝鮮暮らしは不可能だ。朝鮮には人間らしい生活を送る文明が絶無であった。進歩的文化人は日本の文明は朝鮮からきたなんて戯言を ほざいている。こういう奴らは朝鮮に3日も暮らせないだろう。こうした気是戦車に限って、安全で清潔な日本から一歩も出たくないのだ。
本田氏のような朝鮮育ちの日本人は、内面に矛盾を抱えて成長したのである。日本に戻って青年時代を過ごすが、不思議と朝鮮に戻って暮らしたいとは思わな い。だが、おぼろげな記憶があるので、朝鮮に対して幻覚にも似た郷愁をもつ。中高年になって朝鮮に渡ると、幼き頃を思い出すが、美しい記憶に乏しい。これ が西歐の文明化された社会なら、懐かしさと憬れで胸がいっぱいになる。美しい自然と洗練された人々と再会すれば、心が浮かれるのだ。しかし、日本人にとっ て支那大陸や朝鮮半島は、陰惨な記憶の押し入れといった方がよいだろう。元乞食の朝鮮人が身なりを整えて来日しても、日本人は嬉しくない。何故か蠅叩きに 手が伸びてしまわなければいいのだが。「朝鮮人帰れ!」かヘイト・スピーチなら、アブラカタブラ「朝鮮人は消えろ」と呪文を唱えてみたらどうだろう?
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朝鮮統治時代には多くの日本人が朝鮮半島に住んでいたことは、今となっては信じられないくらいである。敗戦と共に多くの日本人居住者が引き揚げてきた。 当然その中には朝鮮生まれの内地人(日本人)がいて、少年時代を朝鮮人と過ごした子供がいたのである。これら半島育ちの日本人が、戦後日本の学校に通って 左翼教育を真に受けた結果、朝鮮統治に対する罪悪感をもつ日本人が誕生したのだ。有名なのが、電通の会長を務めた成田豊で、京城(現在のソウル)で育った という。成田氏は植民地の朝鮮人が貧さから盗みをはたらいたり、日本人から殴る蹴るの冷たい仕打ちを見たという。日本人が普段からむやみに威張ったり、朝 鮮人を一級下の者として見下すことにショックを受けたらしい。学校では「人は平等だ」教えられたが、現実は違ったという。
同じ人間なのに、なぜ。そんな違和感が、子供心に刻まれた。(成田豊 『広告と生きる』 日本経済新聞出版社 2009年 p.16)
子供だった成田氏が周りの大人の事情や当時の朝鮮人社会を理解していたとは思えない。朝鮮の不甲斐ない社会状況やうんざりするような風習は、子供に分か るはずがない。朝鮮人を差別し、馬鹿にする日本人としか見えなかったのだろう。成田氏が中年くらいまで朝鮮に住んでいたら、朝鮮統治の事情が分かって罪悪 感をもたなかったかもしれない。電通がつまらない朝鮮人歌手や南鮮ドラマをテレビでゴリ押しした結果、多くの日本人が拒絶反応を示したのを覚えていよう。 成田会長の個人的感情も絡んでの朝鮮文化ブームの演出だったが、いくら天下の電通でも日本人に低級文化を押しつけることは出来なかったのだ。朝鮮人が吐い た痰(たん)を嘗めろ、と命令したって日本人は嫌がるだろう。それと同じで、日本人は朝鮮人が吐き出す文化を飲み込みたくないのである。敗戦で日本へ戻っ た成田氏が朝鮮研究を専攻した形跡は見当たらないから、少年時代の記憶が残ったたまま、大人になったのだろう。成田氏は晩年まで単純な朝鮮びいきを反省し なかった。
もう一人、少年時代を朝鮮で送った日本人がいる。本田靖春だ。『諸君!』に文章を書いたことがある識者なので覚えているか たもいるかもしれない。左翼史観で教育されてしまった本田氏は、帰化問題で悩む梁政明(日本での通名 山村政明)に同情したりする。朝鮮人は一般に、精神 的に歪んだ後進国民であると子に気づかなかったりであろう。本田氏は「朝鮮人に対しては、かつての加害者であったし、いまも加害者だという認識がはっきり ある」と述べている。(本田靖春 『私のなかの朝鮮人』 文春文庫 1984年 p.24)
朝鮮統治を悪かったと反省している本田 氏だが、少年時代には朝鮮人との対立を経験しているのだ。日本人町に住んでいたが、通学時には朝鮮人街を通らねばならなかった。朝は何でもないのだが、下 校時に問題が起きたという。朝鮮人街を足早に抜けようとするや、鮮人の子供らが石を投げてきたり、道をふさいで唾を吐きかけたりして挑発してきた。朝鮮人 らには戦術があって、先に年少者をけしかけて、日本人を油断させる。年端もいかぬ子供と見なして、その頭をこずいたりすると、大群がどっと現れる具合で あった。本田氏が小学四年生の時にちょっとした事件が起きた。ある子供と下校時に朝鮮人街を通過したとき、朝鮮人の小学生二人に唾を吐きかけられたので、 手に持っていた上履きの袋で鮮人の横面を張ったという。
しかし、本田氏は帰り道を朝鮮人に尾行されていたのである。しばらくすると、「雲霞の如き大軍」が彼の家に押し寄せたのである。両親とも留守であったの で、裏庭から抜け出し、同級生に武器を持って応援に来てくれるよう頼んだのである。家に戻った本田氏はお湯を沸かしたそうである。そうこうするうち、友人 等が木刀や空気銃を持って、総勢10人が応援に来た。本田氏は玄関を開けて、塀越しに熱湯を朝鮮人らに浴びせかけると、ついで空気銃を乱射して、敵が怯ん だ隙に木刀で一斉に斬り込んだのである。それ以降、本田氏は鮮人の子供らに目を付けられ、彼らの波状攻撃に悩まされたという。本田氏はカーバイトを捏ねて 爆弾を作ろうとしたこともあった。
敵の襲来は止むことがなかったので、本田氏はついに父親の日本刀を持ち出した。本当に斬るつもりはなく、鞘を払って抜き身をかざして門を出たという。公平に言えば、朝鮮人は武器をもって彼を攻撃したことはなかった。本田氏は当時を回想する。
だから、私が挑発と受け取り、襲来と感じていた彼らの皇道派、集団による憎悪の表現ということなのであろう。( p.161)
朝鮮人が日本人を憎んでいたことを本田氏は身に沁みて自覚している。それでも、彼は胸のどこかに朝鮮人への罪悪感が残っているのだ。
朝鮮総督府はは「内鮮一体」と宣いい、「皇民化」政策を朝鮮人に押しつけていたが、日本人と朝鮮人が一つだなどということは、日本人も朝鮮人もだれ一人 思っていなかった。お互いは、はっきり異民族同志として認識し合っていたし、それだけではなく、彼らはわれわれを憎み、われわれは彼ら嫌っていた。( p.162)
本田氏は日本の朝鮮支配の帰結として朝鮮が分断された、と考えていた。(p.174)戦争の動乱で多くの朝鮮人が血を流して いる隣で、日本は朝鮮特需に沸いていたことを批判している。朝鮮戦争はスターリンの傀儡金日成(本名金聖柱)が起こし、支那軍が支援した動乱である。我が 国が戦争特需で潤ったことがは、戦争の原因とは関係ない。こうした自虐史観がいかに日本人を蝕んでいたが分かる。
汚い朝鮮人が作った料理
本田氏が住んでいたのは日本人町で会ったが、金さんという元両班らしい朝鮮人一家が例外的に結住んでいたという。(朝鮮人が自分の祖先を両班という時は 注意せねばならない。)金さんの家では他の朝鮮人家庭同様、一家挙げてキムチ作りをしていた。キムチがよい加減に漬かる頃になると、金さんは自家製キムチ を本田宅に届けたそうである。本田氏の母親はキムチを届けてくれた金家の使いの者に鄭重に礼をのべる。だが、その使いが帰った後、せっかくのキムチはゴミ 箱へ直行するのである。これは本田家のならわしであった。金家からはキムチだけではなく、盆、正月、祭りの度ごとに餅などの届け物が来る。そのすべてがキ ムチと同様の運命をたどる。戦争が始まって物資が足りなくなっても母親の態度は変わらなかったという。
本田氏は京城にいたあいだキムチを一度も口にしたことがなかったという。本田少年は母親に不平を漏らしたそうだ。しかし、彼の母親は抗議を受け付けず、こう言うのであった。
「また赤痢にでもなったらどうするの」(p.29)
こ の一言で本田少年は沈黙してしまう。彼は三歳の時、生きるか死ぬかの赤痢を経験していたのだ。母親は何かにつけ赤痢の話を彼にしたという。母親は息子を心 配する気持ちが強かったので、赤痢という伝染病に対する恐怖心を植え付けたのである。本田邸には朝鮮人の洗濯女と子守娘が雇われていた。朝鮮人の子守は幼 き本田氏を可愛がってくれたそうで、彼女が時折おやつを口移しに本田少年に与えたりしたようである。本田氏は彼女の家で、いろいろ貰っているうちに赤痢に かかったらしい。本田氏の母親が感染経路を子守娘ないし彼女の家庭と決めつけたことはなかった。だが、幼き息子が赤痢にかかったことで、本田氏の母親は朝 鮮社会の衛生状態や、鮮人の衛生観念に敏感となったようである。
彼の母親は娘時代に薬専を出て、病院勤めをしたらしく、衛生知識に詳 しかったらしい。便所の脇にはいつもクレゾール溶液が用意され、本田氏は用便の後はもとより外から帰る度に、必ず手の消毒をさせられたのである。本田氏は 朝鮮の飴売りを覚えていた。近所を巡回する朝鮮人の飴売りは、大きなハサミを用いて飴を切り売りしたそうである。飴売りがまわってくると子供たちが寄って きて、こぞって買っていったそうだ。しかし、本田少年は一度もその飴を口にしたことはなかったという。彼の母親は言ったそうだ。「どうしても飴を食べたい のなら、一度朝鮮飴を作っているところを見てからにしなさい。両手に唾をつけて塊を伸ばしていくんですよ」と諭したという。本田氏は母親の言葉に逆らえな かった。(p.32)本田氏は衛生観念を教えてくれた母親に感謝するも、朝鮮人に対する嫌悪感も教えたのではないか、と回想している。
不潔な朝鮮と身震いするほどの汚さ
「差別感」への反発や「正義感」に燃えてしまう少年時代にはよくあることだが、本田少年は母親と口論したことがある。彼の母は「あなたはフタタこと目に は『日本が悪い』と言うけれども、私たちがどんな悪いことをしたんですか。鉄道もないところに、内地より立派な鉄道を敷いてあげたじゃありませんか。電気 がなかったところに電気をつけてあげたのも日本ですよ。物がなくなってからだって、朝鮮人にも同じだけ、砂糖を配給してあげたのは、いったい誰なんです」 と陳べた。まったくその通り。本田氏のご母堂は正しい。これが当時の日本人に共通した意見であったことは間違いない。日本人がどれだけ朝鮮で税金を浪費し たことか。日本国民の方が被害者である。乞食の群れが何の冀望もなく棲息していたのが、李氏朝鮮の実態であった。朝鮮の貧困とは、日本人が考える「貧乏」 とは質が違う。たとえば、日本の鳥取砂丘と火星の沙漠(さばく)は同日の談ではない。朝鮮の貧困は日本人の想像を超えていたのである。現在朝鮮人が日本統 治を鼻水タラしながら糾弾しているが、鮮人どもは実態を知らないのだ。朝鮮人の馬鹿は漬け物甕に沈めるに限る。
しかし、本田氏は、母親の正論を否定して言う、
こういう考え方は、かつての朝鮮植民者の「一世」に、ほぼ共通している。(p.33)
こ れだから戦後世代はダメなんだ。日教組教育で脳味噌がコンクリート化しているのだろう。創意工夫や新鮮なアイディアを一切遮断した牢固な朝鮮が、いかに時 代遅れで惨めであったかを本田氏の世代は知らないのだ。明治維新後に朝鮮へ渡った日本人は朝鮮の汚さに卒倒したのである。朝鮮の暮らしは小便大便だらけ で、道や街角には糞尿が垂れ流されて臭気で鼻が曲がりそうだった。曲がるというより、腐って顔から堕ちそうである。現在の日本人女性が見たら確実に気絶す るだろう。塩崎誓月という日本人が朝鮮に渡ったら、山の如き蝿に驚いたという。朝鮮人は食べ物や食器に蝿の群れがたかっていても気にしない。よほどのこと がなければ、蝿は殺されないのだ。朝鮮人の家では蝿が、
天井から壁から白い処は糞尿で真っ黒にし、主人が昼寝の口あたりから鼻の中まで卵を産み付けてその植民地と心得ている。( 塩崎誓月 『最新の韓半島』 青木嵩山堂 明治39年 p.183)
日本人が戦慄を覚えるのは蝿だけではない。オンドルで暖められた朝鮮人の家では南京虫が大繁殖していたのである。朝鮮の宿に泊まった外国人はこぞってこの南京虫に悩まされる。
夜半このおそるべき虫が群れをなして来襲しその音は陣風の如しという程だ。刺されれば則ち腫れ膨れ甚だしきは癩病患者の如き形状をなすに至る。こやつは殺虫剤で見事に斃れ、翌朝屍体を検するに数十百匹に上ることがある。 (上掲書 p.184)
哀れにも南京虫に刺されていた朝鮮人には、虱(シラミ)もたかっていたのである。夏ならまだしも冬になると危険で、滅多に朝鮮人の側に近づけない。朝鮮 人は虱がたかっていても恥ずかしく思っていなかったのである。こんな朝鮮だから、蚤(ノミ)くらいで騒いでいたらとても暮らせない。水に糞尿が混じってい たって平気で飲めなくては朝鮮暮らしは不可能だ。朝鮮には人間らしい生活を送る文明が絶無であった。進歩的文化人は日本の文明は朝鮮からきたなんて戯言を ほざいている。こういう奴らは朝鮮に3日も暮らせないだろう。こうした気是戦車に限って、安全で清潔な日本から一歩も出たくないのだ。
本田氏のような朝鮮育ちの日本人は、内面に矛盾を抱えて成長したのである。日本に戻って青年時代を過ごすが、不思議と朝鮮に戻って暮らしたいとは思わな い。だが、おぼろげな記憶があるので、朝鮮に対して幻覚にも似た郷愁をもつ。中高年になって朝鮮に渡ると、幼き頃を思い出すが、美しい記憶に乏しい。これ が西歐の文明化された社会なら、懐かしさと憬れで胸がいっぱいになる。美しい自然と洗練された人々と再会すれば、心が浮かれるのだ。しかし、日本人にとっ て支那大陸や朝鮮半島は、陰惨な記憶の押し入れといった方がよいだろう。元乞食の朝鮮人が身なりを整えて来日しても、日本人は嬉しくない。何故か蠅叩きに 手が伸びてしまわなければいいのだが。「朝鮮人帰れ!」かヘイト・スピーチなら、アブラカタブラ「朝鮮人は消えろ」と呪文を唱えてみたらどうだろう?
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英邁な君主となる幼帝
皇祖皇宗(こうそこうそう)の建国以来、萬世一系の天皇を戴き、立憲君主政体の治下にある我々は、昭和天皇という世界に比類なき名君と共に生きることが できた。西歐世界では多くの哲学者や神学者が理想の君主論を説いてきたが、なかなか名君をもつに至らなかった。理想の王を論じた知識人としては、古代なら ディオ・クリゾストモス(Dion Chysostomos)やディオトゲネス(Diotogenes)、中世ではアエギディウス(Aegidius Romanus)、近世では英国のボリンクブローク子爵(Henry St. John, 1st Viscount Bolingbroke)といった人物が有名だろう。ところが、彼らが羨むような君主が我が国には存在したのである。それが昭和天皇である。我が国始まっ て以来、未曾有の危機に直面したとき、偉大な昭和天皇が君臨なされていたのである。天佑(Grace)だ。天の摂理(Providence)か。いや世界 の奇蹟(Miracle)である。西欧人ならきっと「裕仁大帝(Hirohito the Great)」と呼ぶだろう。我々なら陛下の清いお心をかんがみて「昭和聖帝(Hirohoto the Sacred Hearted)」とお呼びしたい。
昭和天皇はご幼少の頃からその天凜(てんびん)を発揮なさてれいた。明治34年4月29日にお生 まれになった皇子(みこ)様は、御名を「裕仁」と命ぜられた。我らの皇孫殿下は迪宮裕仁親王(みちのみやひろひとしんのう)となられたのである。国民で皇 孫殿下のお健やかなご成長を願わぬ者はいなかった。明治大帝がことのほか愛された迪宮親王殿下には、文武両道の偉大な人物がご教育にあたられた。御養育掛 には陸軍元帥の大山巌(おおやまいわお)公爵が第一候補となったが、元帥が固辞されたので海軍中将川村純義(かわむらすみよし)伯爵が選定された。川村伯 爵は薩摩藩士で武人として名を馳、国事に尽瘁した第一級の人物であった。かくて皇孫殿下は川村伯爵は麻布の邸宅にお移りになった。川村中将は重大な大命を 拝してからというもの、唯一の趣味であった銃猟を止め、全身全霊をあげて迪宮殿下のご教育に専念したのである。殿下の養育四年の間、川村伯は寝食を忘れて 大任を果たしたので、秩父宮擁仁(やすひと)親王殿下も川村邸に預けられたのである。迪宮殿下の周りには川村伯だけではなく、伊藤博文ら維新の元勲も控え ていたのである。しかも、学習院には乃木希典大将や東郷平八郎元帥がいたのだ。もう羨ましいくらい豪華な人物が勢揃いしていたのである。
昭和天皇のご性格
日常の遊技であっても規則と公正を厳守する性格であったという。遊びにおかれても、もし味方が規則に違反した行為をする者がいれば、殿下側が勝利の場合 でも「今の戦は規則を破った者がいるから実際は負けである」と仰せられて、勝利をご自慢されることはなかった。殿下はご幼少の頃よりご闊達であったことを 示す逸話がある。床の間には猛虎が巌上で月に向かって物凄い形相で吠えている「猛虎寒月」という名画が掛けてあった。殿下はこの名画に向かって「虎を撃つ ぞ」と仰せられ、空気銃で狙いを定めて、見事に虎を射抜いたという。子供らしい微笑ましい話で、殿下がご活発な気性を備えていらしたのがわかる。(小貫修 一郎編集 『今上陛下聖徳餘影』 昭和3年 p.28)でも、皇室の名画なら相当の値が付く名画のはず。その高級美術品に穴を開けてしまうとは、庶民の 我々には「もったいない」の気持ちが残ってしまう。
明治天皇や大正天皇と同じく、ご幼少の殿下も臣民に対して慈しみのお心を示された のである。かつて沼津御用邸にあらせられたとき、ある朝侍女が毒虫に手を咬まれて皮膚が赤く腫れ上がってしまった。それをご覧になった殿下が、「どうした のか」とご下問されたので、侍女は毒虫に刺されたことを申し上げたのである。すると殿下は御自ら薬を持ち出して「痛いだろう、この薬をつけよ」と仰せられ た。お歳もゆかぬ殿下が自然とお示しになった慈愛に、侍女はただ恐懼(きょうく)して感涙にむせんだという。(p.29)臣民をいたわる殿下の真心に触れ ると、日本人はどうしても感動してしまうのである。
学習院ご入学と乃木大将
殿下が八歳になられると学習院にご入学された。入学式では乃木希典院長が厳粛な態度をもって直後を奉読し、新入生に訓示を与えた。殿下は乃木院長の訓示 を終始じっとしてご静聴なさったという。明治天皇が日露戦争で多くの部下を失った乃木大将に、学習院で多くの子供を養育せよと命じられたことは夙に有名な 話である。乃木大将は武勲高く人格高潔であった。硬骨で質実剛健、武人の典型であったから、殿下のご教育掛としては最適であった。乃木院長は殿下といえど も、一切特別扱いせず、他のご学友同様の教育を施したのである。厳格な乃木院長による指導のもと、殿下は日々5時半から6時ころに御起床なさって伊勢大廟 や明治天皇、昭憲皇太后、ご両親殿下の在す方に向かって礼拝されたのである。礼拝後は御自らお居間を清掃なされ、学習院には徒歩でご登校されたのである。 昭和天皇の純真な御性格やお心は、このような生活で形成されたのである。
殿下の歴史教育を担当した白鳥庫吉(しらとりくらきち)博士 は、ある時「ナポレオンに関する御感想」を、殿下に質問したという。すると殿下は、ナポレオンの事業はいかにも華々しく偉大なものがあった。しかし、その 覇業の動機は、どうも人類のため、国民の幸福のためということではなくして、単に自己の名誉心を満足させるためのものではないか。もし名誉心のためにした とすれば、その事業の華々しさ偉大さには感心するが、尊敬を払うことはできぬ。また彼は他人の意見を聞かなかったことで最後に失敗した、とのお答えであっ た。(pp.47-48)
これを拝聴した東宮御学問所の総裁始め、濱尾、杉浦、山川、小笠原、大迫、河合の諸氏は殿下のご見識が高いことに驚き、かつ感心したという。
昭和天皇のご教育を拝命したご教育掛はもちろん超一級の人物ばかりである。陛下の人格形成に甚大な影響を与えたのは、乃木希典大将と杉浦重剛(すぎうら しげたけ)ではなかろうか。杉浦は近江膳所(おうみぜぜ)藩士で、儒者の次男として生まれた。漢学のほかオランダ語、フランス語、数学、理化学、天文学を 修めた碩学であった。大学南校では化学を専攻し、英国へ留学する経歴を持つ。重剛は外国人教師から英語でいきなり数学や化学の講義を受けたのである。猛勉 強して二、三年するとクラス・トップになって外国留学生に選ばれ、明治天皇の御前で御前講義をする一人に選ばれたくらいである。後に代議士にもなり、私立 中学校の校長も務めたのである。文部大臣を務めたこともある先輩の濱尾新(はまおあらた)が、この理系俊才を昭和天皇の倫理担当教師に抜擢したのである。
捨て身の剣術
『倫理御進講草案』に基づき杉浦は、殿下に倫理道徳を教えたのであるが、それは決して堅苦しい講義ではなく、少年が喜びそうな挿話をまじえたものであった。裕仁親王殿下が中学一年生のときである。杉浦はある土佐の土方某というお茶坊主の話を申し上げた。
この土方某はお茶の奥義に長けており、殿様が参勤交代時に連れて行きたかったが、茶坊主を連れて行くわけにもいかなかった。そこで士分に取り立てて、武 士として連れて行ったのである。しかし、ただの「お茶坊主武士」では剣の達人が見れば一目で偽物と見抜かれてしまう。ある日、この茶坊主はある武士に「真 剣勝負」を申し込まれてしまう。驚いた茶坊主は戸惑ったが「主命を奉じて使いする途中にて」と言い、それが終われば勝負いたそう、と約束してしまった。 「二時間後」と約束したものの、どうしたものかと剣豪千葉周作を訪れ、事情を話した。病床に伏している千葉だが、その茶坊主の話を聞いたのである。茶坊主 曰く、
「お恥ずかしながら、われ未だ剣法を知らず。ともかく討たれて死すべき覚悟はしつれど、未練なる死に様では恥だ。主名を穢すことになるやもしれぬ。ゆえに先生に見苦しからぬ死の方法を請う」
千葉周作は驚きながらも、茶を一服所望して後、語り出した。
「よし、御身(おんみ)のために語らん・・・御身が彼の武士と相対して互いに刀を抜くや否や、御身は直ちに左足を踏み出して力を込め、大上段にかぶりて 両眼を閉ずべし。いかなることがあろうとも、その眼をかけてはならぬ。ややありて、腕か頭にひやりと感ずるところあるべし。これ切られたるなり。その刹 那、御身も力に任せて上段より切り下ろすべし。敵も必ず傷つき、あるいは相打ちになるやもしれぬ。このこと決して背くべからず」と。
茶坊主の土方は厚く礼を述べ、彼の剣客が待つ果たし合いの場へ向かった。土方は落ち着き払って剣客に挨拶を述べた。相手は少々意表をつかれたが、用心して 刀を抜いたのである。土方は言われた通り大上段に構え、両眼を閉じて石像の如く立っていた。剣客は驚く。相手の坊主は隙だらけだが、踏み込めば必ずや頭上 に刀が振り下ろされるだろう。さらに相手は眼を閉じているから、心の動きが読めない。時が経っても、剣客は斬り込んでこなかった。茶坊主は不思議に思って いると、「恐れ入った」という声がする。相手は刀を投げて土下座をしていたのだ。多くの見物客も集まっていた。土方が眼を明けると、目の前の土下座した武 士が「恐れ入ったる御手のうちなり。われら及ぶところにあらず、つきてはわが一身を如何ようにも処分し給え」と言ってきた。
呆然とし た土方は「土佐藩の武士は、降伏した者を切るべき刀を所持せぬ」と言う。相手の武士は長年諸国をめぐって剣の修行をしたが、「いまだ御身の流儀を見ず。御 身の剣道は何流ぞ」と問う。土方はおかしさに堪えきれず、自分はただの茶坊主で、千葉周作先生から死に方の教訓をうけ、先生の言われた通りにしたるのみ、 と告げて明かした。その剣客は驚き、「まさに剣道の奥義を会得したるものなり。わが兄として仰ぐべきなり」と述べ、共に千葉周作を訪ね、すべてを語ったと いう。(山本七平 『昭和天皇の研究』 祥伝社 平成元年 pp.280-282)
こうした杉浦の教えが昭和天皇の脳裏に刻まれていたのだろう。マッカーサー将軍に陛下がお合いになったとき、この「捨て身」の姿勢をお取りになったのではないか。陛下はご自分のお命を毫も顧みず、臣民のために死ぬお覚悟であった。
マッカーサー将軍が陛下に「戦争責任をお取りになるか」と質問する。
陛下は「その質問の前に、私の方から話をしたい。」と仰った。
将軍は「どうぞ。お話下さい。」
陛下は「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてかまわない。(You may hang me)」と。
天皇陛下には何ら計算がなかった。陛下の率直な「捨て身」の発言にはマッカーサー将軍もさぞ困憊(こんぱい)したことだろう。陛下の純粋で清いお心に触 れると我々は自然と目頭が熱くなる。国民を救いたい一心のお言葉に涙が押さえきれない。昭和聖帝という偉大な君主を失ったときの日本人は本当に悲しみに暮 れたのである。
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皇祖皇宗(こうそこうそう)の建国以来、萬世一系の天皇を戴き、立憲君主政体の治下にある我々は、昭和天皇という世界に比類なき名君と共に生きることが できた。西歐世界では多くの哲学者や神学者が理想の君主論を説いてきたが、なかなか名君をもつに至らなかった。理想の王を論じた知識人としては、古代なら ディオ・クリゾストモス(Dion Chysostomos)やディオトゲネス(Diotogenes)、中世ではアエギディウス(Aegidius Romanus)、近世では英国のボリンクブローク子爵(Henry St. John, 1st Viscount Bolingbroke)といった人物が有名だろう。ところが、彼らが羨むような君主が我が国には存在したのである。それが昭和天皇である。我が国始まっ て以来、未曾有の危機に直面したとき、偉大な昭和天皇が君臨なされていたのである。天佑(Grace)だ。天の摂理(Providence)か。いや世界 の奇蹟(Miracle)である。西欧人ならきっと「裕仁大帝(Hirohito the Great)」と呼ぶだろう。我々なら陛下の清いお心をかんがみて「昭和聖帝(Hirohoto the Sacred Hearted)」とお呼びしたい。
昭和天皇はご幼少の頃からその天凜(てんびん)を発揮なさてれいた。明治34年4月29日にお生 まれになった皇子(みこ)様は、御名を「裕仁」と命ぜられた。我らの皇孫殿下は迪宮裕仁親王(みちのみやひろひとしんのう)となられたのである。国民で皇 孫殿下のお健やかなご成長を願わぬ者はいなかった。明治大帝がことのほか愛された迪宮親王殿下には、文武両道の偉大な人物がご教育にあたられた。御養育掛 には陸軍元帥の大山巌(おおやまいわお)公爵が第一候補となったが、元帥が固辞されたので海軍中将川村純義(かわむらすみよし)伯爵が選定された。川村伯 爵は薩摩藩士で武人として名を馳、国事に尽瘁した第一級の人物であった。かくて皇孫殿下は川村伯爵は麻布の邸宅にお移りになった。川村中将は重大な大命を 拝してからというもの、唯一の趣味であった銃猟を止め、全身全霊をあげて迪宮殿下のご教育に専念したのである。殿下の養育四年の間、川村伯は寝食を忘れて 大任を果たしたので、秩父宮擁仁(やすひと)親王殿下も川村邸に預けられたのである。迪宮殿下の周りには川村伯だけではなく、伊藤博文ら維新の元勲も控え ていたのである。しかも、学習院には乃木希典大将や東郷平八郎元帥がいたのだ。もう羨ましいくらい豪華な人物が勢揃いしていたのである。
昭和天皇のご性格
日常の遊技であっても規則と公正を厳守する性格であったという。遊びにおかれても、もし味方が規則に違反した行為をする者がいれば、殿下側が勝利の場合 でも「今の戦は規則を破った者がいるから実際は負けである」と仰せられて、勝利をご自慢されることはなかった。殿下はご幼少の頃よりご闊達であったことを 示す逸話がある。床の間には猛虎が巌上で月に向かって物凄い形相で吠えている「猛虎寒月」という名画が掛けてあった。殿下はこの名画に向かって「虎を撃つ ぞ」と仰せられ、空気銃で狙いを定めて、見事に虎を射抜いたという。子供らしい微笑ましい話で、殿下がご活発な気性を備えていらしたのがわかる。(小貫修 一郎編集 『今上陛下聖徳餘影』 昭和3年 p.28)でも、皇室の名画なら相当の値が付く名画のはず。その高級美術品に穴を開けてしまうとは、庶民の 我々には「もったいない」の気持ちが残ってしまう。
明治天皇や大正天皇と同じく、ご幼少の殿下も臣民に対して慈しみのお心を示された のである。かつて沼津御用邸にあらせられたとき、ある朝侍女が毒虫に手を咬まれて皮膚が赤く腫れ上がってしまった。それをご覧になった殿下が、「どうした のか」とご下問されたので、侍女は毒虫に刺されたことを申し上げたのである。すると殿下は御自ら薬を持ち出して「痛いだろう、この薬をつけよ」と仰せられ た。お歳もゆかぬ殿下が自然とお示しになった慈愛に、侍女はただ恐懼(きょうく)して感涙にむせんだという。(p.29)臣民をいたわる殿下の真心に触れ ると、日本人はどうしても感動してしまうのである。
学習院ご入学と乃木大将
殿下が八歳になられると学習院にご入学された。入学式では乃木希典院長が厳粛な態度をもって直後を奉読し、新入生に訓示を与えた。殿下は乃木院長の訓示 を終始じっとしてご静聴なさったという。明治天皇が日露戦争で多くの部下を失った乃木大将に、学習院で多くの子供を養育せよと命じられたことは夙に有名な 話である。乃木大将は武勲高く人格高潔であった。硬骨で質実剛健、武人の典型であったから、殿下のご教育掛としては最適であった。乃木院長は殿下といえど も、一切特別扱いせず、他のご学友同様の教育を施したのである。厳格な乃木院長による指導のもと、殿下は日々5時半から6時ころに御起床なさって伊勢大廟 や明治天皇、昭憲皇太后、ご両親殿下の在す方に向かって礼拝されたのである。礼拝後は御自らお居間を清掃なされ、学習院には徒歩でご登校されたのである。 昭和天皇の純真な御性格やお心は、このような生活で形成されたのである。
殿下の歴史教育を担当した白鳥庫吉(しらとりくらきち)博士 は、ある時「ナポレオンに関する御感想」を、殿下に質問したという。すると殿下は、ナポレオンの事業はいかにも華々しく偉大なものがあった。しかし、その 覇業の動機は、どうも人類のため、国民の幸福のためということではなくして、単に自己の名誉心を満足させるためのものではないか。もし名誉心のためにした とすれば、その事業の華々しさ偉大さには感心するが、尊敬を払うことはできぬ。また彼は他人の意見を聞かなかったことで最後に失敗した、とのお答えであっ た。(pp.47-48)
これを拝聴した東宮御学問所の総裁始め、濱尾、杉浦、山川、小笠原、大迫、河合の諸氏は殿下のご見識が高いことに驚き、かつ感心したという。
昭和天皇のご教育を拝命したご教育掛はもちろん超一級の人物ばかりである。陛下の人格形成に甚大な影響を与えたのは、乃木希典大将と杉浦重剛(すぎうら しげたけ)ではなかろうか。杉浦は近江膳所(おうみぜぜ)藩士で、儒者の次男として生まれた。漢学のほかオランダ語、フランス語、数学、理化学、天文学を 修めた碩学であった。大学南校では化学を専攻し、英国へ留学する経歴を持つ。重剛は外国人教師から英語でいきなり数学や化学の講義を受けたのである。猛勉 強して二、三年するとクラス・トップになって外国留学生に選ばれ、明治天皇の御前で御前講義をする一人に選ばれたくらいである。後に代議士にもなり、私立 中学校の校長も務めたのである。文部大臣を務めたこともある先輩の濱尾新(はまおあらた)が、この理系俊才を昭和天皇の倫理担当教師に抜擢したのである。
捨て身の剣術
『倫理御進講草案』に基づき杉浦は、殿下に倫理道徳を教えたのであるが、それは決して堅苦しい講義ではなく、少年が喜びそうな挿話をまじえたものであった。裕仁親王殿下が中学一年生のときである。杉浦はある土佐の土方某というお茶坊主の話を申し上げた。
この土方某はお茶の奥義に長けており、殿様が参勤交代時に連れて行きたかったが、茶坊主を連れて行くわけにもいかなかった。そこで士分に取り立てて、武 士として連れて行ったのである。しかし、ただの「お茶坊主武士」では剣の達人が見れば一目で偽物と見抜かれてしまう。ある日、この茶坊主はある武士に「真 剣勝負」を申し込まれてしまう。驚いた茶坊主は戸惑ったが「主命を奉じて使いする途中にて」と言い、それが終われば勝負いたそう、と約束してしまった。 「二時間後」と約束したものの、どうしたものかと剣豪千葉周作を訪れ、事情を話した。病床に伏している千葉だが、その茶坊主の話を聞いたのである。茶坊主 曰く、
「お恥ずかしながら、われ未だ剣法を知らず。ともかく討たれて死すべき覚悟はしつれど、未練なる死に様では恥だ。主名を穢すことになるやもしれぬ。ゆえに先生に見苦しからぬ死の方法を請う」
千葉周作は驚きながらも、茶を一服所望して後、語り出した。
「よし、御身(おんみ)のために語らん・・・御身が彼の武士と相対して互いに刀を抜くや否や、御身は直ちに左足を踏み出して力を込め、大上段にかぶりて 両眼を閉ずべし。いかなることがあろうとも、その眼をかけてはならぬ。ややありて、腕か頭にひやりと感ずるところあるべし。これ切られたるなり。その刹 那、御身も力に任せて上段より切り下ろすべし。敵も必ず傷つき、あるいは相打ちになるやもしれぬ。このこと決して背くべからず」と。
茶坊主の土方は厚く礼を述べ、彼の剣客が待つ果たし合いの場へ向かった。土方は落ち着き払って剣客に挨拶を述べた。相手は少々意表をつかれたが、用心して 刀を抜いたのである。土方は言われた通り大上段に構え、両眼を閉じて石像の如く立っていた。剣客は驚く。相手の坊主は隙だらけだが、踏み込めば必ずや頭上 に刀が振り下ろされるだろう。さらに相手は眼を閉じているから、心の動きが読めない。時が経っても、剣客は斬り込んでこなかった。茶坊主は不思議に思って いると、「恐れ入った」という声がする。相手は刀を投げて土下座をしていたのだ。多くの見物客も集まっていた。土方が眼を明けると、目の前の土下座した武 士が「恐れ入ったる御手のうちなり。われら及ぶところにあらず、つきてはわが一身を如何ようにも処分し給え」と言ってきた。
呆然とし た土方は「土佐藩の武士は、降伏した者を切るべき刀を所持せぬ」と言う。相手の武士は長年諸国をめぐって剣の修行をしたが、「いまだ御身の流儀を見ず。御 身の剣道は何流ぞ」と問う。土方はおかしさに堪えきれず、自分はただの茶坊主で、千葉周作先生から死に方の教訓をうけ、先生の言われた通りにしたるのみ、 と告げて明かした。その剣客は驚き、「まさに剣道の奥義を会得したるものなり。わが兄として仰ぐべきなり」と述べ、共に千葉周作を訪ね、すべてを語ったと いう。(山本七平 『昭和天皇の研究』 祥伝社 平成元年 pp.280-282)
こうした杉浦の教えが昭和天皇の脳裏に刻まれていたのだろう。マッカーサー将軍に陛下がお合いになったとき、この「捨て身」の姿勢をお取りになったのではないか。陛下はご自分のお命を毫も顧みず、臣民のために死ぬお覚悟であった。
マッカーサー将軍が陛下に「戦争責任をお取りになるか」と質問する。
陛下は「その質問の前に、私の方から話をしたい。」と仰った。
将軍は「どうぞ。お話下さい。」
陛下は「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてかまわない。(You may hang me)」と。
天皇陛下には何ら計算がなかった。陛下の率直な「捨て身」の発言にはマッカーサー将軍もさぞ困憊(こんぱい)したことだろう。陛下の純粋で清いお心に触 れると我々は自然と目頭が熱くなる。国民を救いたい一心のお言葉に涙が押さえきれない。昭和聖帝という偉大な君主を失ったときの日本人は本当に悲しみに暮 れたのである。
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帰化鮮人の苦悩
鳩と朝鮮人は群れたがる。日本という高度文明国に潜り込んだ朝鮮人とその子孫には、常に蛇のようにとぐろを巻く「卑しさ」がまとわりつく。サミュエル・ コーリッジ(Samuel Taylor Coleridge)が『The Rime of Ancyent Marinere 』という作品で、鬱になった水兵が、南風をもたらすと信じられていたアホウドリ(albatross)を撃ち殺す場面をえがいている。意味もなく海鳥を殺 した精神異常の水兵が抱えていた罪悪感。こんなアホウドリがいつも首に巻き付いているのが在日鮮人や帰化鮮人である。
大阪には朝鮮人 が数多く潜伏している。そこには帰化鮮人の親睦団体「成和クラブ連合会」が結成され、江崎光雄が会長を務めていた。在日鮮人は生活に便利だとか、職業上の 都合で、あるいは女房子供家族のために、という様々な理由で日本国籍を取得してきた。昭和の時代までは、在日朝鮮人であると就職が困難だったし、子供の進 学や結婚で苦労することが多かった。南鮮に帰るという選択肢はまずなかったのである。豊かで明るい日本を捨てて、暗く貧しい差別大国に里帰りなど考えただ けでも嫌だった。しかし、日本に帰化した鮮人は、朝鮮人仲間からは裏切り者扱いされたから、自然と帰化人用のクラブが組織されたのだろう。安藤氏は何名か の朝鮮人について語っている。(本田靖春 『私のなかの朝鮮人』 文藝春秋社 1984年 を参照)
朝鮮人の親を恥じるN氏のケース
N氏は妻が日本人で、「いいとこ」のお嬢さんを娶ったらしい。彼の事業は不動産業と保険代理業で、顧客はほとんど日本人であった。そんな彼の処へ朝鮮か ら母親がやって来たのである。家の中では心づくしのもてなしをするのだが、N氏は母を外に出したがらない。スカートを穿かせ、セーターを着せても朝鮮人だ とすぐ分かってしまうからだ。母親の顔を会社の人や世間が見たら、自分の生い立ちがバレるだろう。そうなれば事業にも影響しかねない。N氏は「えらく辛い 思いをした」と告白する。彼の母親は「いくらまずいものを食べても、国がいい」とのことで程なく帰国したという。N氏は「ホッとした」と回顧するのであ る。(p.70)
子供が世間に晒したくない親のケース
朝鮮人と結婚した日本人妻の場合、悲劇が起こりやすい。たとえば、娘が年頃になると、やれお茶会だ、華道の会だとかになる。自然と家庭同士の往き来が多 くなる。そうした際に来客があると、娘は父親に「どこかに隠れていて」とせがみ、父親を家から追い出してしまうのだ。彼の話す日本語は朝鮮なまりがが丸出 しで、すぐに鮮人と解るからである。朝鮮人家庭の娘だって、学校や友達の前では上品にしたいし、普通の日本人らしく見られたいだろう。多感な時期にある女 の子なら、朝鮮人の父親なんてみっともない事実を知られたくないのは乙女心として理解できる。よく朝鮮民族意識に目覚めた親が、娘にチマチョゴリを着せた りするが、あんなのは裸で歩くより恥ずかしい。そんなに素晴らしい民族衣装なら多くの在日朝鮮娘がこぞって着ているはずだ。また、朝鮮男に嫁いだ日本人女 性が、結婚式や儀式で朝鮮服を着る羽目になったら、友だちに見られたくないだろう。彼女の両親だって、娘が朝鮮人にまで落ちぶれた姿を見たくない。
朝鮮人はやけに面子を気にするし、よせばいいのに無理して見栄を張ることが多い。日本人からすると、そこまで自分を大物に見せかけなくてもいいのに、と 思ってしまうことがある。もともと惨めな劣等国からきた朝鮮人には、鏡に映ったありのままの姿は見たくないのだ。ここにある短気な朝鮮人の話がある。
慶応大学経済学部を卒業して一流銀行に入った金沢某の父親は、「元」朝鮮人であった。彼が配属された支店である宴会が開かれたそうだ。その席で銀行の支 店長が、金沢氏は朝鮮人の倅(せがれ)であることを知っていたので、彼にそう告げてしまった。すると金沢氏は即日銀行を辞めてしまったのである。 (pp.71-72) 隠しておきたかった出生の秘密が暴露されたことにショックを受けたのだろう。一流銀行の社員になれたことは、彼にとって自慢であり「脱朝鮮人化」の証しで あったに違いない。それなのに「朝鮮人」であることかバレてしまった。築き上げてきたエリート社員の理想像が一瞬で粉砕されたのである。我々なら彼が膝か ら崩れ落ちる姿を想像してしまう。
成和クラブ副会長の国本忠孝によれば、在日鮮人や帰化鮮人らは朝鮮人とバレないかと心配で、ニンニ クを入れない食事をするなどして普段から神経を使っていたという。朝鮮人の食事や風習を日本人は嫌う。これは悪意の偏見ではなく、本当に朝鮮文化というも のが野暮で低級だからで、洗練された文化を持つ日本では仕方ない現象なのだ。だから朝鮮人らは、恥ずかしい朝鮮なまりが出ても大丈夫な飲み屋が欲しい。遠 慮なく朝鮮なまりの言葉で語り合い、リラックスできるクラブを欲しがったのである。それなら朝鮮に帰って祖国を発展させたらどうか、と日本人なら言いたい ところだが、不可能なことを無理強いするのも酷だろう。可能性(potential)が限りなくゼロに近い朝鮮民族には、第32世紀くらいまでは無理なん じゃないか。
芸能界の朝鮮人
最近では在日朝鮮人の家系であることを告白する藝人も多くなった。にしきのあきらや和田アキ子、岩城滉一、豊川悦司など、有名人が家系を告白することが 昔ほど難しい時代でもない。それは戦後世代が闇市の朝鮮人を知らない者で占められたからであろう。暗い朝鮮人の歴史を肌で知る日本人が減ってきたのとは反 対に、マスコミが作り出す朝鮮人の明るいイメージを鵜呑みにする日本人が増えてきたせいもある。だから、昔の在日朝鮮藝人が在日生活を語るほうが、我々に とっては有益であるし、彼らの正直さをなんとなく賞賛したくなる。
矢沢永吉が所属していたロック・バンド「キャロル」でメンバーだっ たジョニー大倉は在日南鮮人の倅だった。彼の父親は朝鮮で豚か牛を盗まれて、それを済州島まで追跡したところ、とうとう大阪に来てしまったという。まあ、 盗品の回収より、日本の方が魅力があったというわけだ。彼の父親は朝鮮に正妻がいて、妾に産ませたのがジョニー大倉であった。来日したときは本妻の長男を 連れてきたらしい。大倉氏は生まれたときから周りに朝鮮人がいたので、自分が朝鮮人であることは自覚していたという。川崎に住んでいた大倉氏は、友人が家 に遊びに来るのが嫌だったらしい。家の土間に入ると、側には豚小屋があって金というばあさんが朝鮮語を話していたそうだ。胸がドキドキした大倉少年は、あ わてて友だちに「いや、うち、あれ、英語しゃべれるんだよ」と取り繕ったのである。
少年の頃、大倉氏は気が弱くてよくイジメられたと 語る。殴られたりして、最後には「早く朝鮮に帰れ」と言われたそうだ。これを言われると泣けてきたという。帰宅すると母親のエプロンに顔をうずめて泣いた 記憶がある。彼の母は「負けるな、負けるな。」と言ったが、民族教育は施さなかったという。その後すこし離れたところに引っ越したのは、母親がせめてもの 思いやりを示したからであろう。
小学五年生となる頃には体が大きくなったから、イジメられることはなくなったが、朝鮮人であることから来る苦労は続いたようだ。大倉氏は次のように回想している。
あの感覚はちょっと忘れかけているけど、あのころ、朝鮮のチョの字でもいったら胸が張り裂けそうだったなあ。( 小林靖彦 編集 『在日コリアン・パワー』 双葉社 1988年 p.11)
大倉少年は勉強して成績も優秀になり、陸上部のキャプテンにもなれた。好きな女の子ができて、その子を口説いたのだが、誰かが大倉少年の素性を密告した らしい。その子の気持ちを確かめずに、大倉氏のほうから身を引いてしまったらしい。その女の子が朝鮮人の大倉氏をどう思っていたかは結局解らずじまいで あった。高校を中退してからいろいろな音楽活動を経た後に、「キャロル」結成となった。有名になったので本を出版し、自分から国籍を暴露した大倉氏。在日 鮮人からは「やっぱり、そうだったの。うれしい」という反応がかえってきた。
キャロルをケンカ別れした後に、大倉氏は芝居も始めたの である。映画では朝鮮人のヤクザを演じたこともある。本物の朝鮮人が朝鮮人役を演じたのだから、好評だったのも頷ける。『戦場のメリークリスマス』に出演 できたのは、監督の大島渚が朝鮮贔屓の左翼人士であったからかもしれない。映画業界には左翼分子が多い。共産党系の監督である黒澤明は有名だし、日本中国 文化交流協会の代表理事を務めた篠田正浩はスパイ・ゾルゲの映画をつくった。アニメ映画界の大御所宮崎駿は労働運動に精を出した左翼活動家である。京大卒 左翼の大島渚は、朝鮮人に特別な感情があったのであろう。反日監督の崔洋一は大島の『愛のコリーダ』でチーフ助監督にして貰っていたのである。
朝鮮人を日本に増やしたい反日勢力が、在日・帰化鮮人と手を結んで、朝鮮イメージ向上作戦を繰り広げている。朝鮮系芸能事務所がテレビ局と組んで、朝鮮 系芸人を有名にしたり、朝鮮人コネクションを駆使して日本人に偽りの印象を刷り込んでいる。韓流ブームなどドブ川の「泡」みたいな流行は、電通とNHKが 仕組んだ八百長企画であったと暴露されたのは記憶に新しい。在日・帰化鮮人にとって朝鮮の家系は、今も昔も恥ずべき現実である。実際の朝鮮人社会を隠蔽し て、表面だけをきれいにした朝鮮人像はすぐにメッキが剥がれるものだ。アジア人と離れた歴史を持つ幸せな日本人は、おぞましい朝鮮人と混淆すべきではな い。朝鮮人との混血児は日本で育つと、矛盾と葛藤の生活を送り、性格が歪んでしまうのだ。不幸な結果は未然に防ぐのか賢い文明人の行動である。
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鳩と朝鮮人は群れたがる。日本という高度文明国に潜り込んだ朝鮮人とその子孫には、常に蛇のようにとぐろを巻く「卑しさ」がまとわりつく。サミュエル・ コーリッジ(Samuel Taylor Coleridge)が『The Rime of Ancyent Marinere 』という作品で、鬱になった水兵が、南風をもたらすと信じられていたアホウドリ(albatross)を撃ち殺す場面をえがいている。意味もなく海鳥を殺 した精神異常の水兵が抱えていた罪悪感。こんなアホウドリがいつも首に巻き付いているのが在日鮮人や帰化鮮人である。
大阪には朝鮮人 が数多く潜伏している。そこには帰化鮮人の親睦団体「成和クラブ連合会」が結成され、江崎光雄が会長を務めていた。在日鮮人は生活に便利だとか、職業上の 都合で、あるいは女房子供家族のために、という様々な理由で日本国籍を取得してきた。昭和の時代までは、在日朝鮮人であると就職が困難だったし、子供の進 学や結婚で苦労することが多かった。南鮮に帰るという選択肢はまずなかったのである。豊かで明るい日本を捨てて、暗く貧しい差別大国に里帰りなど考えただ けでも嫌だった。しかし、日本に帰化した鮮人は、朝鮮人仲間からは裏切り者扱いされたから、自然と帰化人用のクラブが組織されたのだろう。安藤氏は何名か の朝鮮人について語っている。(本田靖春 『私のなかの朝鮮人』 文藝春秋社 1984年 を参照)
朝鮮人の親を恥じるN氏のケース
N氏は妻が日本人で、「いいとこ」のお嬢さんを娶ったらしい。彼の事業は不動産業と保険代理業で、顧客はほとんど日本人であった。そんな彼の処へ朝鮮か ら母親がやって来たのである。家の中では心づくしのもてなしをするのだが、N氏は母を外に出したがらない。スカートを穿かせ、セーターを着せても朝鮮人だ とすぐ分かってしまうからだ。母親の顔を会社の人や世間が見たら、自分の生い立ちがバレるだろう。そうなれば事業にも影響しかねない。N氏は「えらく辛い 思いをした」と告白する。彼の母親は「いくらまずいものを食べても、国がいい」とのことで程なく帰国したという。N氏は「ホッとした」と回顧するのであ る。(p.70)
子供が世間に晒したくない親のケース
朝鮮人と結婚した日本人妻の場合、悲劇が起こりやすい。たとえば、娘が年頃になると、やれお茶会だ、華道の会だとかになる。自然と家庭同士の往き来が多 くなる。そうした際に来客があると、娘は父親に「どこかに隠れていて」とせがみ、父親を家から追い出してしまうのだ。彼の話す日本語は朝鮮なまりがが丸出 しで、すぐに鮮人と解るからである。朝鮮人家庭の娘だって、学校や友達の前では上品にしたいし、普通の日本人らしく見られたいだろう。多感な時期にある女 の子なら、朝鮮人の父親なんてみっともない事実を知られたくないのは乙女心として理解できる。よく朝鮮民族意識に目覚めた親が、娘にチマチョゴリを着せた りするが、あんなのは裸で歩くより恥ずかしい。そんなに素晴らしい民族衣装なら多くの在日朝鮮娘がこぞって着ているはずだ。また、朝鮮男に嫁いだ日本人女 性が、結婚式や儀式で朝鮮服を着る羽目になったら、友だちに見られたくないだろう。彼女の両親だって、娘が朝鮮人にまで落ちぶれた姿を見たくない。
朝鮮人はやけに面子を気にするし、よせばいいのに無理して見栄を張ることが多い。日本人からすると、そこまで自分を大物に見せかけなくてもいいのに、と 思ってしまうことがある。もともと惨めな劣等国からきた朝鮮人には、鏡に映ったありのままの姿は見たくないのだ。ここにある短気な朝鮮人の話がある。
慶応大学経済学部を卒業して一流銀行に入った金沢某の父親は、「元」朝鮮人であった。彼が配属された支店である宴会が開かれたそうだ。その席で銀行の支 店長が、金沢氏は朝鮮人の倅(せがれ)であることを知っていたので、彼にそう告げてしまった。すると金沢氏は即日銀行を辞めてしまったのである。 (pp.71-72) 隠しておきたかった出生の秘密が暴露されたことにショックを受けたのだろう。一流銀行の社員になれたことは、彼にとって自慢であり「脱朝鮮人化」の証しで あったに違いない。それなのに「朝鮮人」であることかバレてしまった。築き上げてきたエリート社員の理想像が一瞬で粉砕されたのである。我々なら彼が膝か ら崩れ落ちる姿を想像してしまう。
成和クラブ副会長の国本忠孝によれば、在日鮮人や帰化鮮人らは朝鮮人とバレないかと心配で、ニンニ クを入れない食事をするなどして普段から神経を使っていたという。朝鮮人の食事や風習を日本人は嫌う。これは悪意の偏見ではなく、本当に朝鮮文化というも のが野暮で低級だからで、洗練された文化を持つ日本では仕方ない現象なのだ。だから朝鮮人らは、恥ずかしい朝鮮なまりが出ても大丈夫な飲み屋が欲しい。遠 慮なく朝鮮なまりの言葉で語り合い、リラックスできるクラブを欲しがったのである。それなら朝鮮に帰って祖国を発展させたらどうか、と日本人なら言いたい ところだが、不可能なことを無理強いするのも酷だろう。可能性(potential)が限りなくゼロに近い朝鮮民族には、第32世紀くらいまでは無理なん じゃないか。
芸能界の朝鮮人
最近では在日朝鮮人の家系であることを告白する藝人も多くなった。にしきのあきらや和田アキ子、岩城滉一、豊川悦司など、有名人が家系を告白することが 昔ほど難しい時代でもない。それは戦後世代が闇市の朝鮮人を知らない者で占められたからであろう。暗い朝鮮人の歴史を肌で知る日本人が減ってきたのとは反 対に、マスコミが作り出す朝鮮人の明るいイメージを鵜呑みにする日本人が増えてきたせいもある。だから、昔の在日朝鮮藝人が在日生活を語るほうが、我々に とっては有益であるし、彼らの正直さをなんとなく賞賛したくなる。
矢沢永吉が所属していたロック・バンド「キャロル」でメンバーだっ たジョニー大倉は在日南鮮人の倅だった。彼の父親は朝鮮で豚か牛を盗まれて、それを済州島まで追跡したところ、とうとう大阪に来てしまったという。まあ、 盗品の回収より、日本の方が魅力があったというわけだ。彼の父親は朝鮮に正妻がいて、妾に産ませたのがジョニー大倉であった。来日したときは本妻の長男を 連れてきたらしい。大倉氏は生まれたときから周りに朝鮮人がいたので、自分が朝鮮人であることは自覚していたという。川崎に住んでいた大倉氏は、友人が家 に遊びに来るのが嫌だったらしい。家の土間に入ると、側には豚小屋があって金というばあさんが朝鮮語を話していたそうだ。胸がドキドキした大倉少年は、あ わてて友だちに「いや、うち、あれ、英語しゃべれるんだよ」と取り繕ったのである。
少年の頃、大倉氏は気が弱くてよくイジメられたと 語る。殴られたりして、最後には「早く朝鮮に帰れ」と言われたそうだ。これを言われると泣けてきたという。帰宅すると母親のエプロンに顔をうずめて泣いた 記憶がある。彼の母は「負けるな、負けるな。」と言ったが、民族教育は施さなかったという。その後すこし離れたところに引っ越したのは、母親がせめてもの 思いやりを示したからであろう。
小学五年生となる頃には体が大きくなったから、イジメられることはなくなったが、朝鮮人であることから来る苦労は続いたようだ。大倉氏は次のように回想している。
あの感覚はちょっと忘れかけているけど、あのころ、朝鮮のチョの字でもいったら胸が張り裂けそうだったなあ。( 小林靖彦 編集 『在日コリアン・パワー』 双葉社 1988年 p.11)
大倉少年は勉強して成績も優秀になり、陸上部のキャプテンにもなれた。好きな女の子ができて、その子を口説いたのだが、誰かが大倉少年の素性を密告した らしい。その子の気持ちを確かめずに、大倉氏のほうから身を引いてしまったらしい。その女の子が朝鮮人の大倉氏をどう思っていたかは結局解らずじまいで あった。高校を中退してからいろいろな音楽活動を経た後に、「キャロル」結成となった。有名になったので本を出版し、自分から国籍を暴露した大倉氏。在日 鮮人からは「やっぱり、そうだったの。うれしい」という反応がかえってきた。
キャロルをケンカ別れした後に、大倉氏は芝居も始めたの である。映画では朝鮮人のヤクザを演じたこともある。本物の朝鮮人が朝鮮人役を演じたのだから、好評だったのも頷ける。『戦場のメリークリスマス』に出演 できたのは、監督の大島渚が朝鮮贔屓の左翼人士であったからかもしれない。映画業界には左翼分子が多い。共産党系の監督である黒澤明は有名だし、日本中国 文化交流協会の代表理事を務めた篠田正浩はスパイ・ゾルゲの映画をつくった。アニメ映画界の大御所宮崎駿は労働運動に精を出した左翼活動家である。京大卒 左翼の大島渚は、朝鮮人に特別な感情があったのであろう。反日監督の崔洋一は大島の『愛のコリーダ』でチーフ助監督にして貰っていたのである。
朝鮮人を日本に増やしたい反日勢力が、在日・帰化鮮人と手を結んで、朝鮮イメージ向上作戦を繰り広げている。朝鮮系芸能事務所がテレビ局と組んで、朝鮮 系芸人を有名にしたり、朝鮮人コネクションを駆使して日本人に偽りの印象を刷り込んでいる。韓流ブームなどドブ川の「泡」みたいな流行は、電通とNHKが 仕組んだ八百長企画であったと暴露されたのは記憶に新しい。在日・帰化鮮人にとって朝鮮の家系は、今も昔も恥ずべき現実である。実際の朝鮮人社会を隠蔽し て、表面だけをきれいにした朝鮮人像はすぐにメッキが剥がれるものだ。アジア人と離れた歴史を持つ幸せな日本人は、おぞましい朝鮮人と混淆すべきではな い。朝鮮人との混血児は日本で育つと、矛盾と葛藤の生活を送り、性格が歪んでしまうのだ。不幸な結果は未然に防ぐのか賢い文明人の行動である。
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